少女と大神官
さて、栞たちが城下でウロウロしている頃、ストレリチア城内ではこんな会話が繰り広げられていた。
「ベオグラー」
「少し文字が足りないようです」
「……じゃあ、ベオグラ」
「さらに文字を減らしましたね」
「良いじゃない、これくらい」
言った本人は意に介さぬ様子で、会話を続けようとする。
「良くありません。名はそのモノを表す大切なもの。どんな言葉にも意味はあり、それをぞんざいに扱うことはできません」
「あったま、固いな~」
そう言いながら、彼女は手にしている書物をパラパラと捲る。
神官の中でも最高位にある「大神官」という立場にある彼の言葉も、彼女に掛かれば、こんな扱いをされてしまう。
人によっては、彼の言葉は神の御言葉に等しく、そのありがたさで涙を流す者すらいるというのに。
尤も、彼女にとって身分や地位なんてその人間にくっついているオマケのようなもので、単純にそんなもので人を判断していないだけだ。
「何か用があって声を掛けたのではないのですか?」
「ん? ああ、ヒマだったから声掛けただけ」
「今が何の時間かご承知で?」
「お偉い大神官様とマンツーマンで勉学できる貴重なお時間ですわ」
慇懃無礼な態度もここまで露骨だと誰でも分かる。
しかし、彼はそれを窘めることもせず、冷静な言葉を返す。
「それならば宜しいです」
そう言って、沈黙。
「あら、つまんない。もっとここはがぁーって怒る所でしょう?」
「貴女がそれを望んでいるのは分かっていますからね。それに……、ここで貴女を諫めたところで、貴女のことですからまた同じことを繰り返すだけですし、何より、ディーン様に私が怒られてしまいますよ」
「お兄様か……」
そう言うと、彼女は疲れた顔をする。
この城に帰ってきて約3ヶ月。
我が道を進んでいるような彼女にとって、実はその兄が、悩みの種の一つとなっていた。
「シスコンもあそこまでくると……、ねえ……」
彼女は大きく息を吐いた。
「長い間離れていた貴女が心配なのですよ」
「それにしたって、ちょっと城を抜け出しちゃ~、一時間以内に捕獲されるし」
「せめて、外出先を述べてくだされば……」
「駄目駄目」
そう言って、彼女は手をひらひらとさせる。
「始めは私だって、目的地を言ってたのよ。それでも、その先に不自然な数の神官たちがこそこそと集まって、鬱陶しかったし。それに何より目的地の詳細なデータを聞かれたからって分かるわけないっての。面積とか人の集まる平均とか、安全経路の確保とか」
「護衛をつければ、宜しいのでは?」
「私は一人で歩きたいの! 8年ぶりの故国を……、この足で自由に。その気持ちは分かるでしょう?」
「その結果が、脱走ですか?」
大神官はどこか冷ややかな声で問いかける。
だが、その顔はずっと無表情で、少女にとっては、感情が読みにくいままだった。
「う~ん。脱走ってなんか言葉が悪いから、別の言葉はなんかない?」
何気なく軽口を叩く少女。
大神官の崇拝者たちが見たら、激怒するかもしれない。
だが、ここで、少女如きにやり込められるような人間なら、この地位にはいない。
「逃走、逃避、脱出、城抜け、逃竄、逃奔、逃亡、抜けそけ、家出、逸出……」
大神官はすました顔で彼女のリクエストに応える。
「抜けそけなんて……普通、使わないと思うんだけど。それに、『逃竄』って何さ?」
「ご自分でお調べ下さい」
そう言って、彼は国語辞典を渡す。
「ああ、懐かしいこの分厚さ、字の細かさ、そして中身の意味不明さ……ってなんで、ベオグラがこんなの持ってるの!? それこそ意味不明じゃない!」
少女は思わず立ち上がった。
流石に投げつけるようなことはしなかったが……。
「意味は分かっていますよ。これは語学の役に立つものでしょう?」
「どうせなら、電子辞書とかにしてくれれば場所も取らないし、早いし、便利なのに……」
「苦労して得た知識の方が身に付きやすいものですから」
「分かった。調べます、調べればいいんでしょ? その代わり……」
「駄目です」
「まだ何も言ってないんだけど……」
「その戒めを解けというのでしょう?」
「うん」
昨日まで逃亡を図っていた彼女が今日は割と大人しくしているのは、その身体が縄によって拘束されているからだった。
しかも、これはただの縄ではない。
魔封じが施され、法力が編み込まれた特殊なモノである。
「駄目です。一日ぐらいはじっとしている日があっても良いでしょう?」
「馬鹿ね。その一日ごとに溢れる若さと力は失われていくのよ」
魔封じが施されている以上、魔法で引き千切ることは不可能だ。
加えて法力まであれば、相乗効果は増す。
「ベオグラのサド~、変態~、むっつり~」
「子どもですか、貴女は……」
「15歳は子どもでしょ。少女よ、幼いのよ? 清廉潔白そうに見えるベオグラに少女緊縛趣味があったなんてショックだわ~」
「そんな趣味はありませんし、至って普通に拘束しています」
「城の一室という特殊な密室の中、か弱い姫を椅子に縛り付ける大神官。しかも持っている力を行使して。それだけ聞くと、なんか如何わしい世界に来たみたいね。そう思わない?」
「どんな世界ですか……」
「いや~ね~。ノリが悪いんだから」
「私に、そんなノリを求められても困ります」
「え~?男ってそ~ゆ~のが好きなんじゃないの?」
「そのような偏った知識は捨ててください」
少女の言葉に動揺することもなく次々と返す青年。
それでも、それらを無視することがない辺り、本当に真面目な性分なのだろう。
「ね~、発情期とかはどうしたの?もうあったでしょ? 二十歳なんだから」
「その辺りはもうご存知でしょう?」
表情を変えずに淡々と答える大神官。
先ほどの問いかけは魔界人の生理現象に踏み込んだ、かなり不躾な言葉ではあるのだが、彼の言葉と態度は崩れなかった。
そして、彼の言葉のとおり、彼女は答えを知っている。
「それよりも、今はもっと考えるべきことがあるのではないでしょうか?」
「ん~。でも、気になるじゃない。こんな堅物の大神官様が、抗うことが難しいとされる欲望に耐える姿って……。ああ、私も気を付けなきゃ。こんな密室で大神官にか弱い少女が襲われたら、洒落にならないもんね」
「それについてはいらぬ心配です」
「ベオグラの彼女になる女性は大変ね~。発情期が来るってことは、まだなんでしょ? その歳でまだっていうのはちょっとね~」
「私のことは良いでしょう?」
「え~。でも、城下で大人気のベオグラーズ様がまだなんて……」
「評判と信仰心は全く関係ありませんから。それに……私は、大神官と言う立場にあります。少しぐらいの苦痛は甘んじて受け入れる覚悟ぐらいはしていますよ」
「つまり神さまと結婚してるってこと?」
「そうなりますね」
「でも、神さまとじゃデキないと思うけど」
「デキなくて結構です」
さらに続けられる少女の下世話な言葉に動じることなく、大神官はさらに言葉を重ねていく。
「でも、しないと発情期って何度もくるわけでしょ? それも、一回に付き一週間ぐらい続くって聞いてるわ。そして、それに耐えるのは理性を総動員しても尚、難しいって話だけど、大丈夫なの?」
「それに耐えるのも、神から課せられた試練だと思っていますから」
「それが試練だとしたら、嫌な神さまもいたもんだわ」
少女はそう言いながら、肩を竦めた。
魔界人には何故か男性に限って「発情期」と呼ばれる現象が生じる。
ある程度肉体的に成熟した年代に差し掛かると起こる生理現象で、不思議なことにそれは異性経験がない人間に限られる。
そして、その現象は厄介なことに一度では終わらない。
不定期に繰り返され、それは異性と肉体関係を持つまで続く。
どうして男性だけなのか。
その答えを持つ者はいない。
ただ分かっているのは、その時期に入った男性に、未婚の女性は決して近づくべからずという不文律があることだろうか。
発情期の症状が表れてしまった男性というものは、異性を求める欲望が激しく強くなり、さらに本来はそれを制御する存在であるはずの理性の働きが鈍くなる。
日頃、我慢している人間ほど抑えられている欲求は強く高まり、結果、それが重大な事件へと発展することも少なくはない。
そして、困ったことにどの国においてもそれに巻き込まれても相手を罰することができず、個人が報復行動に出る以外の措置がとれないという問題点がある。
その理由として、これは生理的な現象であり、当事者であっても抗えない生得的行動の一種だからというからとんでもない話である。
そして、それが各国共通の認識だから救えない。
ほとんどの王、王族、貴族など政の中心となる人間たちが男性であることが多いので、その辺りは仕方ないと言えなくもないのだが。
但し、基本的にはそれ以外の理由で異性に性的危害を加えることは許容されるはずもなく、ましてや発情期を装った行動をとれば通常よりも罪は重くなる。
じゃあ、発情期なら何をしても許されるかといえばそうでもない。
何より、そこに至るまで異性経験がないような人生を歩んできた人間だ。
周囲の許しがあっても、その行動をとってしまった当事者が自身を容認できないことが多い。
加えてそれによって強制的に変化してしまう人間関係。
この時点で精神的にどん詰まりとなってしまうことだろう。
つまるところ、そうなる前に対処するしかないのだ。
こんなのが本当に神の試練だとしたら悪趣味極まりない神もいたものだというしかないが、この少女のようにそれを口にできる人間は多くなかった。
この国は法力国家だ。
それも相手は大神官。
彼に向って神に対する不敬な口を叩くことは容易ではない。
それを意にも介さない少女の名は、「ケルナスミーヤ=ワルカ=ストレリチア」。
この国の王女と呼ばれる存在であった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




