馬車の準備
「往来の場で、なかなか賑やかなものだな」
ふとわたしたちの背後から聞こえた声。
「おかえり~、ユーヤ。馬車の手配、できたんか?」
大きく溜息を吐きながら現れた雄也先輩に、楓夜兄ちゃんは戸惑うことなく普通に言葉を返す。
「二時間後に、この町の入口まで来るように手配した。操縦者は二人。行先はストレリチアの城下まで」
「御者二人!? 値段、結構張ったんちゃうか?」
「二人なら足を止めずに走行させることが可能だからな。その部分で金銭を惜しむつもりはない」
値段を気にする楓夜兄ちゃんに、雄也先輩はいつものように淡々と答える。
「ああ、なるほど……。しかし、性急なやっちゃな~。少しぐらい止めたところで結果はそう変わらんと思うで」
楓夜兄ちゃんがそう言いながら肩を竦めた。
「大神官の予定が分からんからな。クレスにとっても早い方が良いと思ったんだが……、違ったか?」
「……いけずなことを言うなや」
わたしも楓夜兄ちゃんは少しでも早く行きたいのだと思っていた。
だからこそ、わたしたちに同行してまでここに来たのだし。
でも、この様子だとちょっと違うみたいだ。
お値段を気にしてしまう辺り、どこか商人ちっくではあるのだけど。
「馬車って揺れるイメージがあるんですけど、大丈夫ですか?」
小説とか漫画とかを見る限り、初めての馬車体験で足腰などの下半身が痛む描写があった覚えがある。
わたしはこれまで馬車という乗り物に乗ったことがない。
魔界人は身体が頑強だから気にならないようなことでも、わたしにとっては大打撃な可能性も否定出来ないのだ。
「人間界のほど揺れはしないよ。サスペンション……懸架装置とかは付いてないけど、今日まで乗ってきた船みたいに少し浮いている型式のものを選んだからね。ここにあったものはそれが一番速いらしいよ」
さすペンション? けんか装置? とか単語の意味は正直、よく分からないのだけれど、振動防止とか衝撃吸収とかそんな感じのものだと思った。
しかし……、浮いているってことは車輪がないものなのだろうね。
それを「馬車」と言って良いのかは謎だけど。
「『馬』の『車』と書いて『馬車』と読むはずなのに」
そんなわたしの呟きをどう受け取ったのか、雄也先輩は苦笑する。
「俺自身も、ストレリチア城下には少しでも早く行きたいからね。旅情などの風情を感じられない点については申し訳無い」
確かに速度重視にするのは分かる。
あまり野宿をしたいわけでもないし。
それに新幹線だってかなり速度はあるけど景色は見える……らしい。
いや、だって、新幹線なんて乗ったことないから伝聞になるのは仕方ない。
船だって景色は楽しめたからそこは我慢しよう。
もともと観光で来ているわけじゃないしね。
でも、型式って言ったなら、他にもいろいろな物があるのだろう。
今度、馬車を選ぶ時には一緒に見に行くのも良いかもしれない。
邪魔にならなければ……、だけどね。
「でも、急いでいるならなんで二時間後なんだ? とっとと乗った方が良くねえか?」
水尾先輩が疑問に思ったのかそう尋ねる。
でも、わたしはなんとなくその理由は分かる気がした。
伊達にセントポーリアからここまで来るのに旅支度を手伝ってきたわけではないのだ。
「船の中で使用した日用品や食料の追加は大事だろう? 特に食料」
「そりゃ、最重要項目だな」
雄也先輩の言葉に水尾先輩が真顔で答える。
「不足分を補うのにそれぐらいの時間で足りるか?」
雄也先輩は九十九に向かってそう言った。
「誰に言ってんだ、先輩。少年なら、それぐらい楽勝だぞ」
「なんでミオが答えとるんや。九十九が答えそこねてもうたやんか」
見ると、何故か自慢げな顔をした水尾先輩のすぐ近くで、九十九がなんとも言えない顔をしていた。
口を開いたり閉じたりしている辺り、どうやら本当に口にしそこねた台詞があるらしい。
自己主張大事。
でも割り込みは駄目だよね。
「栞ちゃんは他に何か必要な物があった?」
そして、そんな弟をいつものようにさらりと無視する辺り、さすがと言うしかない。
「えっと……、石鹸がそろそろ切れそうです。それと……、この国の言語解説本があればそれもいただければ、と思います」
くるりと周りを見回すとこの辺りの文字は……、シルヴァーレン大陸言語……、英語のアルファベットによく似た文字だけでなく、発音記号みたいなのや変な記号がくっついているものもある。
ざっと見ただけでも基本文字はアルファベットよりも多いだろう。
そして、文法についてもおそらくシルヴァーレン大陸言語とは異なっている。
そうなるとこの国の本を読むためには、また新たな言語を習得しなければならないのは決定したわけだ。
思わず、「うへえ……」と言いたくもなってしまった。
言わないけど。
「石鹸については、当然ながらストレリチア城下の方が良いものがあるかな。辞典も……、翻訳用として使うにはあまり向かないかな。国語辞典はあるけれど、和英、英和辞典がないと言えば伝わる?」
「はい……。それはよく分かります」
考えてみれば、魔界人に旅行の習慣がないのだからあちこちに他大陸間の言語を翻訳できるようなものがあるはずもない。
人間界だって英和や和英辞典はどこの本屋でもあったけど、ドイツ語とかフランス語になるとある程度大きな本屋にいくしかなかったと思う。
近くの本屋で見た覚えがないし。
いや、その辺りに興味がなかったとも言うんだけど。
それでも……、シルヴァーレン大陸の文字をある程度覚えていて良かったとは思う。
わたしの知識にある言語は日本語が基本だ。
だけど、この世界には当然ながら、漢字、ひらがな、カタカナはないらしい。
つまり翻訳することが簡単にできないのだ。
セントポーリア城下にいた時は、基本的な単語を記録してもらっていたり、九十九や母に確認したりしてなんとか覚えていったのだった。
「ああ、でも、面白そうな絵本があったから購入したよ。栞ちゃんは多分、好きじゃないかな」
そう言いながら、雄也先輩はわたしに本を手渡してくれた。
淡い黄緑の装丁の本を受け取りパラパラとめくってみる。
絵から察するに神さまとかそんな話っぽい。
だけど……。
「残念ながら全く読めません」
絵本は当然ながらグランフィルト大陸言語で書かれていた。
文字数が少ないし、絵が大きく描かれているため、子供向けではあるのだろう。
でも、今のわたしには読むことができなかった。
「じゃあ、読めるようになったらチャレンジしてみて」
そう言いながら、にっこりと笑う雄也先輩。
どうやら、これは新たな課題と言うことらしい。
なんと抜け目がないことか。
「……分かりました。頑張らせていただきます」
これが課題だと言うのなら、わたしにはそう答えるしかできない。
魔界人としての知識がない分、誰よりも努力の必要があるのだ。
まあ、そう心がけてもすぐにできるものでもないし、なかなかうまくいくわけでもないのだけど。
「九十九、悪いけどコレ、収納できる?」
「わかった」
雄也先輩から受け取った本を九十九に手渡した。
わたしには道具を収納する魔法が使えないので、今は彼にお願いするしかない。
雄也先輩に頼んでも収納してくれるのだろうけど、城下から旅立つ時に、わたしの荷物はほとんど九十九に預けた。
だから、まとめていた方が良いだろうと思っているだけで、それ以外の他意はない。
それに……、人に自分の物を預けるって正直、申し訳ない気がしてしまう。
だから、罪悪感を持つ相手は一人だけにしたいのだ。
わたしは頭の中で、どこか言い訳がましい言葉を並べていたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




