精霊の提案
精霊さんが口にした「厄介なものに魅入られている」というその言葉で九十九と雄也先輩、水尾先輩の目つきが変わったのが分かる。
言われた当事者であるわたしは……、心当たりなど全くないのだけど、妙に胸が騒めいていた。
心臓が痛いほど早く動いていることが分かる。
『これは精霊じゃないわねえ。神様……、に限りなく近く感じられるけれどお、人類の思念、妄執にも似てるわあ。貴女にわかりやすく言うと悪霊と化した神様の一部……、かしらあ?』
「「「なっ!? 」」」
とんでもない発言にわたしと九十九、水尾先輩の声が重なる。
なんで精霊とかいうファンタジーからいきなりそんな方向にいくのだろうか?
なんとなく「悪霊」って響きがホラーっぽいよね?
いや……、神の一部だから辛うじてファンタジーに引っかかっている気がしなくもない。
『口で言うよりもお……。今からあ、その姿を見せてあげるわねえ』
そう言って、精霊さんがわたしを引き寄せ、いきなり目の前に現れた水に身体が呑み込まれた。
『ぐぼっ!?』
ひんやりと冷たい水が全身を覆う。
思わず変な声が出たが、そこは仕方ない。
何の心構えもないまま、水に突き落とされたら誰だって慌てるよね?
「大丈夫よん。その中では、息はできるはずだからあ。それよりい、見てなさいよお。ほらほらあ、出てきたわあ」
精霊さんから「見てなさい」と、言われても、水の中にいるためか、周囲があまりよく見えなかった。
でも、その声は水中だというのに不思議なほどよく聞こえている。
そして、先ほどまで透明だった水は、何か黒いインクを混ぜたかのような色がどこからか広がっている。
水族館で墨を吐いたイカを見たことがあるけど、そんな感じに似ていた。
それに……、墨ではなかったけど、似たようなものを別の場所でも見たことがある気がするのは気のせいだろうか?
―――― あれは……、何処での記憶だった?
「あらあらあ、まだ手首だけねえ。良かったわあ。この可愛らしい全身を汚染されているわけじゃないのねえ」
『こ、これは一体!?』
水の外から九十九の慌てた声がする。
先ほどまでの弱気な姿は全然なく、いつもの彼に戻った気がした。
「ある意味、神様のご加護の類似品ではあるけどねえ。かなり力の強い存在に魅入られてしまったのは間違いないわあ」
『ど、どうすれば……?』
『対処法はあるのでしょうか?』
九十九と雄也先輩がそれぞれ、精霊さんに尋ねる。
彼らはわたしの護衛だ。
つまり……、そんなよく分からない存在からもわたしを守らねばいけないのだろう。
「対処法? かなり難しいわねえ。相手は神様の一部でだけどお、妄執、執着というのは困ったことにい、通常のご加護よりも強力になりやすいのよねえ」
精霊さんが世間話のついでのような感覚で放ったその言葉は衝撃だったようで、九十九も雄也先輩ですら黙ってしまった。
まあ、手の打ちようがないなんて聞けば誰だってそうなると思う。
言われた当人であるわたしはというと……、なんとなく相手が神さまによる悪霊、怨念に似た存在って時点でそんな気もした。
相手は普通の人じゃないから話し合うこともできない。
いつ、どこでそんなものに取り憑かれたのかは分からないけれど、それを産まれてから今までずっと、誰にも気づかせないような存在だ。
魔界人の魔法とは次元が異なるものなんだろう。
実際、魔法国家の王女でもある水尾先輩は、幽霊みたいな不確かな存在に対しては何の手立てもないから苦手と言っていたぐらいなんだし。
そう思い込むことにする。
「シオリ自身は不思議なほど冷静ねえ」
そうは言われても、魔法の世界ってだけで何でも有りな気がしているのだ。
精霊さんがいて、神様がいるのなら、この上、さらに怨霊とか非日常的な存在がいくらか上乗せされても大して変わりはない気がする。
まあ、既に感覚が麻痺しているのかもしれないけど。
それでも、この胸の激しい動悸が収まる様子がない。
まあ、自分でもどこか無理をしているのは分かる。
はっきりした根拠もないまま、覚悟なんてそう簡単に決まるはずがないよね。
「でもお、これも何かの縁ってやつかしらあ?」
精霊さんは肩を竦めたのが水越しでも分かる。
九十九や雄也先輩、水尾先輩たちは分からないのに、この精霊さんだけは、わたし目を閉じていても、どんな顔で、どんなことをしているのかが見える気がした。
「ミオルカが精霊を見たがったこと。クレスノダールが契約していた精霊の中からアタシを選んだこと。この場に貴方たちが居合わせたこと。単なる偶然にしちゃあ出来すぎている感じがするのよねえ」
そう言いながら、精霊さんはわたしの前に立つ。
「ねえ、シオリ。アタシに貴女の記憶を覗かせてもらえないかしらあ?」
『ぎぼっ?』
何故だか呼吸はできているけれど、水の中にいるためうまく発声することができない。
なんだか凄く奇妙な状態だ。
改めて記憶を視たいってことは心を読むのとは違うのだろうか?
この精霊さんは、わたしの心を読むことができるはずなのに……。
「そうねえ。アタシは心を読むことはできるけどお、それは表面上だけなのよん。深層心理ってやつまでは分からないわあ。でもお、記憶は違うのお。忘れている部分も含めて貴女の記憶をアタシに見せてくれる気はなあい?」
『ぼべっ』
「無理して話そうとしなくて良いわあ。心が読めるのだから、思うだけで伝わるのにい。本当に真面目ねえ。でもお、そおゆう健気な子ってアタシ、大好きよお」
そう言って精霊さんはわたしに微笑んでくれた。
そこでよく考えてみる。
わたしに自覚はないけれど、あまり状況は良くないらしい。
そして、現状のままでは打つ手がない。
そして、これまでの流れから考えると、精霊さんは何か意味があって、そんなことを提案してくれたんだと思う。
外見と口調の割に受け答えそのものは、そこまでふざけてはいない。
もしかしたら、この申し出自体が自身の好奇心を満たすだけの悪戯目的であることも考えられるが、それにしたってちょっと手がかかっていると思う。
何よりも、この状態からならその気になれば無理矢理わたしの記憶とやらを覗くことだってできるのに、わざわざ許可をとろうとするのも、誠実な性格からくるものだと予想できる。
……って、難しく考えたってしょうがないよね。
こうしている間にも、わたしの左手首からは黒い墨のような物がずっと出続けているのだ。
それを消すことができるかは分からないけれど、何も分からないよりはマシかもしれない。
それに、あの占術師も言っていたではないか。
わたしの未来は普通の人間と違って、すごく視えにくい……と。
その事情についても分かるかもしれない。
自分に分からないことは誰かの手を借りるしかないのだ。
わたしは自分が無力なことをよく知っている。だから、他人の手を借りることに迷いはない。
わたしは精霊さんに向かって頷いた。
「お願いします」と心の中で強く思いながら。
「良い覚悟ねえ。それにとても良い顔だわあ」
そう言いながら、精霊さんはわたしに向かって手を伸ばす。
手が突っ込まれたというのに、水は波紋を広げることもなく、そのままわたしの額に触れてきた。
水の中にいるせいか、わたしの額に触れられているはずなのに、その手の感触は全然分からない。
「悪いようにはしないわあ。そうそう良い子ねえ。そのままアタシに全部身を任せて……」
優しく蕩けるような甘い声を聞きながら、わたしの意識はゆっくりと水に溶けていく。
自分の記憶と呼ばれる過去を、誰かに覗かれることに多少なりとも抵抗がないわけでもなかったけど、それでもこれ以上、彼らに余計な心配させたくはなかった。
理由としては十分だろう。
だけど、その結果として、その場にいた人たちがわたし以上の苦しみを抱えてしまうことを、この時のわたしは考えもしなかったのだった。
本日三度目の更新です。
次話からはいつものように定期更新に戻ります。
そして、この話で第16章が終わり、次話から第17章「連鎖する夢」となります。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




