誰かに呼ばれたその先で
『――――』
「…………?」
誰かがわたしを呼んでいる?
そんな気がして、ふと目が覚めた。
窓の外はまだ暗かった。
同室の水尾先輩は、規則正しい寝息が聞こえる辺り、まだ寝ているのだろう
つまり、わたしを呼んだのは彼女ではなく別の人だということだ。
それを確認して、モソモソと布団から抜け出る。
呼ぶ声はなんとなく窓の外から聞こえた気がする。
でも、暗いため外はよく見えない。
通信珠と仄かな明かりを放つ携帯用照明石を手に、わたしは外に出た。
具体的に誰かの声が聞こえたわけじゃない。
それでも、今、ここで外にいかないと後悔する。
何故か、そんな気がしたのだ。
そこに具体的な根拠なんてものは存在しない。
はっきり言ってただの勘でしかなかった。
それでも…………、わたしは呼ばれた方向と思われる場所へ足を向けていた。
九十九が知ったら呆れることだろう。
でも、今回はちゃんと通信珠を持っている。
余程の事態にならない限りはなんとかなると思って、外に出たのだった。
***
ぼんやりと海を見た。
真っ暗な海は人間界のそれとあまり変わらないように見える。
ただそこに広がる黒い景色。
月明かりがなければ、飲み込まれてしまいそうだ。
加えて得体の知れない何かが潜んでいるようにも見える。
そんな海に対する漠然とした不安感は人間界以上かもしれない。
雄也先輩が「陸は魔獣、海は海獣の領域」だとわざわざ口にしていた。
それを考えると、この海には人間界ではありえないような生物が跋扈している可能性は高い。
何より、ここは魔界。
ファンタジーの世界だ。
何があっても不思議ではない。
そんな心構えがあったためだろうか?
船着場の近くで、その背中を見付けてもあまり疑問に思わなかったのは。
その人物は夜の闇より濃くて黒いフード付きのマントをその身に纏っていた。
マントだけはなく、そこから見えているズボンや靴までも真っ黒という強い拘りで、そのまま夜の海に溶け込んでしまいそうだった。
頭はフードで覆われていたが、その紅く長い髪の一部が涼しい夜風に揺れ、サラサラと流れている。
そして、わたしに背を向けたまま、その人は海を見つめているようだった。
わたしが十数メートルぐらいの距離にいることに気付いているかは分からない。
少しも動かず、黙って海の方向に顔を向けている。
これだけではわたしが知っている人かどうかの判断はできないが、状況から考えて、ただの偶然と片付けるのは出来すぎている気はした。
だが、わたしから声をかけるのは変だと思う。
正直、会いたくない種類の人だし、一人で接することはかなりの危険を伴うことは、これまでの経験から分かっていた。
いくら、わたしでもそこまで無謀なことはしたくない。
そして、わたしを呼んだのが本当にこの人だというのなら、このまま、無視して部屋に戻っても何の問題はないのだ。
自分の誕生日や卒業式にされたことを思えば、今、何も考えずに立ち去る方が良い。
わたしは何度か殺されかけた身なのだ。
そんな相手に気を許すなど、普通に考えても簡単にできるはずがないじゃないか。
でも、なんとなくその背中を見ていると、わたしとは関係ない場所で、この人が酷く傷付いている気がして、動くことができなかった。
頭の何処かで九十九が怒っているような顔が浮かんでいる。
でも、わたしは、その背を見て足を止めてしまった。
これは魔が差したとでも言うのだろうか。
声をかけるでもなく、静かにその後ろ姿を見ていたのだ。
「何故、ここに来た?」
そのまま数分が経過した頃、背中の人物がようやく口を開く。
その声で、ようやくわたしが知っている人物だったことを確認できた。
「呼ばれた気がしました」
わたしは素直にそう答える。
その言葉に偽りはない。
わたしは誰かに呼ばれたからここに来ただけなのだ。
「何故、逃げない?」
彼は新たな質問を口にしながら、こちらを振り返る。
人間界で初めて会った時、わたしはこの人の瞳はまるで獲物を狙う鷹のように鋭くて怖いと思った。
でも、今はその眼光が明らかに弱い。
さらに、以前会った時のように自信満々の表情ではなく、どこか弱々しい印象を受ける。
「あなたがわたしを呼び出した理由を知りたくて」
わたしがそう答えると、彼は一瞬、目を見開いた。
「あんたの顔を見たかっただけだが、まさか……、本当にこの場に現れるとは思ってなかった」
「……と言うことは、特にわたしを呼んだわけではないのですね?」
彼の言葉から、ここにわたしがいることは分かっていたようだ。
でも、「顔を見たかった」なんて一種の口説き文句みたいで、こんな状況だというのに、少し、照れてしまう。
だが、この様子だと彼にそんな意図はないだろう。
少々暗い表情だが、涼しい顔をしているし。
「呼んだと言えば呼んだかもしれん。あんたにここに来て欲しいと願ったのは確かだからな」
「なっ!?」
ストレートに言われた。
しかし……、それが特に口説き文句ではないことは、次に続く彼の言葉でよく分かる。
「しかし……、まさか一人で来るとは……。阿呆の極みだな」
「そんなの極めたくないのですが……」
でも、確かに誰から見ても似たような評価を下すと思う。
特に九十九辺りはもっと酷い口調のような気がした。
「気の迷いとかそんな感じですよ」
わたしはそう答える。
「自覚のある阿呆は自覚がないよりタチが悪い。あんたの従者共はご苦労なことだな」
そう言って彼は少しだけ笑った。
人間界で会った時の笑いはもっと嫌な感じの笑いだったけど、今の表情は普通に見える。
「なんとなく、声が聞こえた気がしたけれど、あれはテレパシーみたいなものですか?」
「そんなしっかりした精神感応系の魔法が使えていたら、もっとマシだっただろうな。そもそも、どういった理屈かは分からないが、あんたは魔法感知そのものができないだろう?」
……この人はどこまで知っているのだろうか?
「魔法使いなら相手の意志に関係なくその頭に何らかの信号を送りつけることぐらいできそうですが」
「……少なくとも今の俺にはそんな高等魔法は使えん。未来の俺は分からんけどな」
「そうなのですか」
それなら何故、わたしにはこの人の声が聞こえたのだろうか?
魔法も使えない。
周りがよく口にする魔気とやらの気配もさっぱり分からないのに。
「とりあえず、敬語はやめろ。年齢は同じはずだ」
「同じ……、ということは、15,6歳?」
「15だ」
本当に同じだった。
人間界で言うと中学三年生か、高校一年生ということになる。
「苦労してるんですね」
思わずそんなことを口にしていた。
「どういう意味だ?」
眉間に皴を刻んで問いかけられる。
いや、だって、この人はわたしや九十九とも同じ年齢には見えなかった。
少なくとも雄也先輩と同じかそれ以上だと思っていた。
その雄也先輩も、2つ上には見えないのだけど。
「でも、敬語が苦手なら、止めよう。同じ歳なら問題はないし」
わたしがそう言うと、彼は何とも言えない顔をした。
もしかしたら、彼はわたしが了承するとは思っていなかったのかな?
でも、同じ年齢の人から敬語を使われるって多分、落ち着かないと思ったのだ。
「俺はなんとなく、ここに来ただけだ。あんたがここにいること分かっていたからな。運が良ければ顔ぐらい見られるだろうと思っていた」
「……どこから突っ込めば良い?」
「どこか、ツッコミどころがあったか?」
彼は首をかしげた。
わたしの中では突っ込みどころしかなかったのだけど。
敬語でなくても良いなら、遠慮もしなくて良いよね?
「なんでここにいることが分かったのか、とか。運が良ければってどう見ても深夜! 寝床に来ない限り無理! 何より……、なんで顔が見たいの?」
わたしは一気にそう言い切った。
「……あんたのその呑気そうな顔を見れば、俺も少しは救われるような気がしたんだ」
「の、呑気ぃ?」
わたしの問いかけに対して、彼はそんな言葉を返してきた。
さらに……。
「自分を害そうとしている相手に自衛手段も護衛もなしにこんな夜中にほけほけと一人で近付く人間を『呑気』と形容する以外ないな。おまけに生物学上『女』である以上、こんな野郎の多い港町を夜中に一人で歩くとかその神経を疑うレベルだ」
「ぐう」
続いたその台詞には、返す言葉もない。
確かに持っている通信珠も、わたしが言葉を話せないような状況では意味もないものだし。
「しかも、ここまで言われてもまだ護衛を呼ぶ素振りを見せない。無防備を通り越して脳天気としか言いようがない」
彼の言葉はどこまでも正論だった。
だけど……。
「今、護衛を呼ぶと、多分、あなたの話をちゃんと聞けない気がするんだよね」
「は?」
九十九のことだ。
この場に出てきた瞬間、戦闘モードになってしまう気がする。
アミュレットぶん投げ事件から、今もまだ少しだけぎこちなさは残っているけれど、それでも彼は護衛任務はしっかりとしてくれているのだ。
彼は本当に仕事熱心で感心する。
だけど、九十九に守られてばかりでは、今までとあまり変わらない。
全く何も分からないままなのだ。
相手のことを知る機会があるのに理解しようとせず、このままなんて、後悔する未来しか見えない。
「あなたに敵意が見えない今なら、少しくらいは話ができるんじゃないかと思って」
いや、勿論怖い。
相手は周りを巻き込むのも平気な人だから。
今まで結果として何事もなかったように見えても、実際、わたしは痛い思いも怖い思いもしているのだ。
それに、怪我した人や壊れたものをちゃんと元に戻したから何も問題ないって簡単に割り切れるほどわたしは無感情な人間ではない。
一度、起きてしまったことを、なかったことには決してできないのだ。
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