主人の居ぬ間に
『たった二、三ヶ月で人間ってやつは随分、変わるものなんだな』
やや焦りを感じさせる足取りだった主人を見送った後、思わず口からそんな言葉が漏れた。
三年では何も変わらな……いこともないか。
始めの頃よりは自分を頼るようになっている。
だが、そのささやかな変化も、あの黒い髪の小柄な聖女の影響であることは疑いようもない事実だ。
誰も頼ることはできない、人間不信だった主人は、あの聖女によって、随分、人間らしくなったと思う。
あの女も悔しいだろう。
その立場には自分がなりたかったはずだから。
だが、運命はあの女を選ばなかった。
それどころか、突き落とした。
人類の法や規則、それぞれの事情や思惑によって、お互い離れることしかできなかったのだから。
あの女のことは好きではないが、ざまあみろとまでは思えない。
主人の行動によってあの女は守られた。
だが、一度、その心は壊されかけたのだ。
いっそ、壊れていた方があの女にとっては良かったことだろう。
主人にとっては、更なる地獄でしかなかったが。
だが、あの女が留まってくれたおかげで、主人の心は守られた。
その点だけは褒めてやっても良い。
あの女が壊れなかったから、主人は堕ちることなく、まだ人類でいられるのだから。
『おや?』
ふと何かの気配に気付く。
主人宛の伝書が届いたらしい。
どんな仕組みなのかは分からないが、人類は、見知った魔力の持ち主宛に特殊な手紙を直接送ることができる。
今、受取人が入浴中であるためか、主人の気配が濃く残る部屋の書斎に届いたらしい。
この辺りの仕組みはよく分からないが、多分、大気魔気……、源精霊や微精霊を利用した仕組みなのだろう。
精霊族や神をも利用する人間は、ある意味、図太く厚かましい存在だとも思うけれど。
『どうやら、トルクスタン王子殿下からのようですね』
尤も、主人に伝書を使うような人間はそう多くない。
ローダンセ国王陛下、トルクスタン王子殿下、そしてあの女。
片手で足りてしまうほどの人望である。
意外にもあの婚約者候補からは届かない。
伝書を送る際に必要な作業である封緘紙に魔力を込めることが苦手だという話は聞いていたからそれは仕方がないだろう。
確かにあの魔力の強さでは、封緘紙に魔力を込めようとして失敗しても仕方がないと思う。
そしてその侍女……いや、護衛たちからも来ない。
こちらについてはもっと分かりやすい。
気配を掴まれるのが嫌なのだろう。
だが、いつの間にか、書斎に見覚えのない封書が置かれていた。
これはこれで怖い。
いつ、侵入した? ……そう考えて、自分たちが魔獣退治に行っている間、この国に戻ってきたようだからそれ自体は驚かない。
ここに下りる通路の仕掛けだって、あの人間が関わっている。
だが、この書斎だけは別だ。
独自の結界を使って、侵入者が入れば分かるようになっているはずだが、いつの間に解析された?
この国に戻ってから数時間。
しかも、そのほとんどはトルクスタン王子殿下の相手をしていたはずだ。
心を読める精霊族でもないのに、人類としては、あまりにもその能力が高すぎて嫌になる。
『トルクスタン王子殿下の従者から……ですね』
伝書ではないため、こちらの封書は自分でも開けることができる。
変な仕掛けもなさそうだから、主人よりも先に、読んでおけということだろう。
それを開けようとして、ふと気付く。
―――― あの二人は、シオリ様宛の伝書をどうやって先に開封しているんだ?
伝書は基本的に本人以外開けることができないとされている。
だが、あの婚約者候補に仕える二人の侍女たちは、どう見ても、先に中身を確認して、振り分けていた。
あの二人が近くにいた時は何も疑問に思わなかったが、普通はおかしいのではないか?
いや、自分が人類の文化をよく知らないことは分かっている。
参考資料が、人と接することが少なすぎる主人を筆頭に碌な人間がいないことが敗因だろう。
特に、この国はいろいろおかしいことが、他国の人間たちの口から次々と明らかになっている。
そう言った意味でも、主人は婚約者候補たちともっと会話すべきだ。
知識は武器であり、自身への守りでもある。
そのことを、自分はあの主人の婚約者候補の女性と専属侍女となった二人から教わった。
ペーパーナイフを使って、封を開け、その中身を確認する。
嫌な予感がしていたが、そこまで突飛な話は書かれていなかった。
本日の予定キャンセルは仕方がないものだと理解を示した上で、近いうちに対面したいというものである。
これは断れない。
先に一度は面会を了承しておきながら、一方的に直前で取りやめたのはこちらの方だ。
だが……、その理由が「青の王命」だと知っているのはどういうことだ?
トルクスタン王子殿下には突然の王命としか告げていなかった。
つまり、あの従者は、あの場所で見た魔獣の状態を知っている可能性がある。
考えられるのは……、やはり「集団熱狂暴走」だろう。
トルクスタン王子殿下の近くには、あの魔法国家の王族が二人もいる。
それも、その一人は、火の地で十年以上、集団熱狂暴走の最前線にいた王族だった。
そこから情報を掴んだのだろう。
あの魔法国家の王族たちは、忌々しい男の血を引いているからな。
集団熱狂暴走の予兆を知る能力があっても驚かない。
人類も精霊族も魔獣も等しく、自分の価値を高める道具としていたあの男。
それが、闇の大陸神の血を引く一族から捕えられたと知ることができたのは、幸運だった。
これで、もう自分を捕える者はいなくなったのだから。
『ちゃんと文字の癖を変えている部分が小憎たらしいですね』
侍女としての文字とカルセオラリアの王城貴族としての文字。
いずれもウォルダンテ大陸言語で書かれているのに、字体そのものが違う気がする。
少し見たぐらいでは同じ人間が書いた文字などと誰も思わないだろう。
どれだけ用心深いのか。
いや、出自を考えればおかしくもない話だ。
―――― 情報国家の王族
それを使われたら、主人は太刀打ちできない。
それに主人が妄想の中で、セントポーリアの王子と勘違いした相手。
そちらにも同じ血が流れている。
そして、婚約者候補の幼馴染であり、今も護衛を続ける青年。
黒髪で黒い瞳の青年は、年を重ねた方が表情豊かだ。
濃藍に翡翠の瞳で口数が少ない美少女も悪くはないが、やはり、黒髪の方が本来の姿だけあって実に良い。
あの真っすぐで、肚を括った後は迷わず相手に踏み込む力強さと潔さを、是非、主人に見習ってほしいと思っている。
好きなものを好きだと言って、手に入れたもののために努力し続けるあの姿は本当の尊敬に値する。
尤も、一番、好きなモノに好きだと伝えられない呪いはあるようだけど。
だが、あの呪いがなければ、聖女はこの地に導かれることはなかっただろう。
そう考えると、主人はかなり運が良い。
最大級の恋敵たちはそれぞれ個別の事情を抱えているのだから。
そして、あの黒髪の青年には悪いが、このまま、ずっと黙っていて欲しい。
主人が聖女を手にするまで。
『呪い……ねえ……』
あの兄弟はいつ、気付くだろうか?
重ねに重ねられた罠に。
まあアレは気付かないし気付けない。
幼子に対して使うにはあまりにも強く重く深過ぎる隷属の縛り。
あの哀れな青年たちは、何も理解できない幼児期にそれを背負わされた。
『まあ、好都合と言えばそうなのですが』
ちょっと惜しい気もする。
風の王もそう思ったのだろう。
だから、幾つも重ね掛けをした。
自分の大切なモノの大切な存在を、何の覚悟も想いもなく、容易に奪わせないように。
罪重ねられた想いを相手に向かって口にすれば、己の身体に刃を突き立てる残酷なまでの強く固い呪い。
『しかし、あの様子だと自身に刃を突き立てるのは、間違いなく弟の方でしょうね』
条件が整い過ぎている。
そして、同時に兄では、現状ありえない。
まだ条件が足りていないから。
そして、彼らの護るべき相手は無意識にそのことに気付いているのだろう。
あれほど頼りにしている相手だというのに、アレを伝えていないのはそういうことだと思う。
主人が僅か三ヶ月で彼女に落ちたのなら、あの黒髪の弟は、15年も前からその場所に埋まっている。
しかも、更に、めり込んでいくのだから、あの女性の底が知れないというものだ。
あの想いに勝つのは、容易ではないだろう。
だが、想いの強さは判定基準の一部でしかない。
最終審判は彼女自身だ。
判決を下す前に、落としてしまえば良い。
『だから、ボクはじっくり、ゆっくり、丁寧に口説きましょうか』
気付いた時には雁字搦めになって指先一つも自分の意思で動かせないように。
それが不器用な主人へ最大の恩返しとなるだろう。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




