貴重な時間
ふと、思いついたことがあった。
「悪いけど、少しの間ここで、九十九と待っていてくれるかい?」
俺がそう言うと、弟は一瞬、眉を顰めたが……。
「はい」
主人は素直に頷いてくれた。
どうせなら、遊び心はあった方が良い。
その方が主人は喜んでくれるだろうから。
そう思って、少しだけ部屋の様相を変えてみた。
あの黒い瞳が驚きで大きくなる瞬間は、結構、好きなのだ。
それに、のんびりできるのは今だけしか許されないのだろう。
主人が療養する間だけ。
それすらも、偶然得ることができた貴重な時間である。
あの国に……、ローダンセに戻れば、主人はこれまで以上にいろいろな思惑に巻き込まれてしまうだろう。
どこに行っても、何をしていても、どんなに手を尽くしても、本人が望む平穏な生活とは程遠い環境に置かれてしまう主人だから。
それが分かっていても、止めることができない無力さが歯痒い。
多少、賢しらな頭があって小細工をしたところで、それを無視する巨大な力には何の意味もなかった。
これまでに、何度、己の無力さを体験、実感してきたことだろう。
その大きな流れを止めることができないなら、せめて緩やかに、穏やかにするしかないのだ。
祈ったところで、願ったところで、何かが劇的に変わる奇跡を起こせるわけがない。
人間には身の丈というものがあって、それを超えることなどできるはずがないのだから。
……そう思って、生きてきたのだけど、あの主人に限っては例外らしい。
これまでに我が目を疑うほどの奇跡を起こしてきた。
いや、これは単純に主人の度量が人間の枠を超えているだけか。
だが、主人の精神がそれに釣り合っていない。
周囲を巻き込んで進む激しい竜巻のような力を持ちながら、その心は争いごとを望まない普通の女性。
そんな不安定な存在が俺たち兄弟の主人である。
「どうぞ、高田先輩」
部屋の模様替えをした後、待っていた主人に再び手を差し出す。
待っている間、弟はエスコートと称して、あのままずっと彼女の手を握っていたらしい。
それを指摘しようか迷ったが、変に意識させても困ると思って、止めておいた。
「ありがとう、雄也くん」
そう言いながら、主人は俺の手に自分の手を重ねる。
服装や呼び方を変えただけ。
ただそれだけのことに、胸の内が擽られるような気がした。
弟のことは笑えない。
俺にも少々特殊な嗜好があったらしい。
しかし、それが人間界の制服などと言うかなり限定的なものである。
あまりにも特殊過ぎて、公言できるものではないな。
「うわあ、凄い!!」
「アホなことに力が入っているな」
そんな対照的な声。
そして、そのまま、手にあった柔らかくて温かな感触が消える。
「凄い! 凄い! すっご~い!!」
主人はパタパタと音を立てて走り、そのまま部屋の中央で止まった後、嬉しそうに両手を広げて、まるで踊るように一回転した。
その勢いでプリーツスカートの裾が浮いたが、主人の膝よりもやや下の長いスカートは、しっかり主人の膝すら隠している。
普通は計測した時に裾直しまでするはずだが、主人は着ることがないと思っていたのだろう。
やや長いままだった。
「足音がするってことは、床の素材まで変えたのか。本当にやり過ぎじゃねえのか?」
床に目を落とした弟は、それでもはしゃぐ主人から目を逸らしていない。
先ほどスカートが浮いた時もしっかり見ていたことを俺は知っている。
ほんの十二分刻前まで、この部屋の床は柔らかな絨毯が敷かれていた。
だが、今は木質系の床に変わっている。
これについては、単純に絨毯を取り払っただけだ。
「まあ、寄木張り床ではないようだけど……」
喜んでいる主人とは逆に、妙に冷めた反応である。
「素材は変わっていない。絨毯の下は、この国でもこんなものだ」
誰もが抱くイメージとしては、モザイクのような格子柄の木材床だとは思うが、流石にそこまで拘ることはできなかった。
このコンテナハウスの床は、ごく普通のフローリングである。
「完璧に教室!!」
そう言った意味では、教室の床ではないのだが、それでも主人は喜んでくれた。
「完璧じゃねえなあ」
「完璧ではないね」
だが、どこかで完全とは言い切れない兄弟はそう答えてしまう。
床は木製。
石膏ボードやモルタルを思い出させるような白い壁。
外の風景を映しているように見える大きな窓は、サッシに似せた金属性の枠に景色をはめ込んだだけだ。
このコンテナハウスから校庭が見えるはずもない。
間に合わせならば、こんなものだろう。
そして、その中央には学校の机と呼ばれる机と学校用椅子と呼ばれる椅子がある。
主人はその机を撫でながら、楽しそうにその周囲を回っていた。
「床から絨毯を剥がして、元からあった机と椅子を取り換えて、壁を変化させただけだからね」
「結構、手がかかっていると思います」
全部手作業ならばそうだろうが、結局のところ、魔法だ。
壁は幻影魔法だし、机と椅子は収納魔法と摘出魔法で出し入れして交換している。
「いや、なんで、学校の机と椅子を持っているんだよ? しかも、3セット」
「軽くて頑丈、使い勝手もよくて気に入ったからだが?」
各家庭にある学習机は頑丈だが、重量があり、無駄な機能も多かった。
だから、俺はこれを購入したのだ。
弟は、友人を招く機会も多かったために、一般的な学習机を使わせている。
尤も、正規の手続きで購入したのは1セットだけだ。
それ以外を手に入れた方法についてはあまり褒められた手段ではないため、これ以上は語るまい。
「描きまくって良いですか?!」
先ほどから些細な部分を気にする無粋な弟と違って、主人の素直さが微笑ましい。
「存分に」
俺が答えると、大輪の花が開いたような笑顔を見せてくれた。
「『落ち着いて描く』はどこに消えた?」
「時空の彼方かな。こんな素敵空間を見せられたら、落ち着くなんて無理でしょう?」
「落ち着きを時空の彼方まですっ飛ばすなよ。せめて、その辺に置いておけ」
弟が呆れたように主人に言うが……。
「あ、画板! 持ってくる!!」
主人は全く、気にせず、隣室へ戻っていった。
兄弟で両手を差し出したから、画板を持って来ることができなかったようだ。
いや、この部屋に来て机上で絵を描く予定だったのだから、画板は不要だと判断したのかもしれない。
「遊び過ぎじゃねえか?」
弟は俺に対してもどこか呆れたような目線を向けた。
「何を言う? 今の主人は人間らしく、欲望に忠実な行動をとった方が良いのだろう?」
あの主人は、身内の前では感情表現が豊かであるが、自分のやりたいことを呑み込む面がある。
「それならば、ここでの俺たちの仕事は欲を出させる。我慢をさせない。そんな風に、主人には自由に生活させることだ」
「なるほど」
それが、本来の仕事でもある。
許される範囲で、自由に、我儘に、快適に。
そんな生活を調えることが、高貴な人間に仕える従者の正しい務めだろう。
だが、主人はそんな生き方に慣れていない。
それはローダンセでの生活でよく分かった。
快適な生活環境を整えることで、逆に我慢を強いることになるとは思わなかったけれど。
誰に似たのか、生真面目で、型に嵌るために、周囲を気遣い過ぎて、自分を後回しにしてしまうのだ。
常識外れの規格を持つ人間が、常識の枠に収まるはずがないのに。
「ガッ、バーンッ!! 持ってきた~」
珍しいほどの興奮状態で主人は戻ってきた。
「入室の合図、忘れているぞ」
「扉開けっぱなしだったから、つい!」
弟の指摘にも、笑顔で返答する。
かなり嬉しいらしい。
主人は終始満面の笑みを浮かべているから。
それだけのことなのに、最近、どれだけ我慢してきたのかがよく分かる気がした。
「はしゃいでいる小学生みたいだぞ?」
「はうあっ!? 見た目は高校生、中身は小学生!?」
そんなどこかで聞いたフレーズを口にする。
いや、アレは逆だが。
「とりあえず、少しだけ落ち着け。時間は有限だが、絵を描く対象は逃げない」
「いやいや、二人のその姿は今日だけなんだから! 期間限定、残り数時間!!」
確かに今は夕刻、午後六時を過ぎたところだった。
あまりにも日中の内容が濃すぎて、既に何日も経ったような疲れはあるが、そこまで問題にはならない。
「そんな貴重な時間だと思うなら、勿体ない時間の使い方をするな。落ち着いて描け」
「らじゃっ!!」
そう言って、主人は画板にセットした白い紙に向き合ったのだった。
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