先輩と後輩
コンコンコン
軽いノックがあった。
その相手を確かめるまでもない。
ここには俺と弟、そして主人しかいないのだから。
「どうぞ」
「着替えました~」
そう言って、両手を広げながら満面の笑みで入室する主人。
「……って、うわあああっ!! 可愛い!!」
可愛……?
「九十九も雄也も小さい!! 可愛い!!」
15歳の俺や13歳の弟よりも、もっと小柄で可愛らしい18歳の主人は、実に嬉しそうである。
「は~っ、少年を愛でたくなる気持ちが分かる気がする……」
「それは理解したら駄目な嗜好だな」
先ほどまで煩悩に悩まされていた弟は、煩悩を隠しもしない主人に対して、呆れたようにそう言った。
「どう? わたしの方は?」
胸を張りながら、主人は尋ねてくる。
「似合っているよ」
「悪くないと思う」
俺と弟がそれぞれ答えると……。
「まさかこの制服を着ることができるとは思っていなかったので、嬉しいです。ありがとう、雄也。いや、この恰好だと雄也先輩?」
俺が通っていた高校の制服を着た主人は楽しそうにそう言った。
「残念ながら、今の俺は15歳だね。だから、高田先輩が正しいんじゃないかな?」
「はうっ!? 今のわたしは18歳でしたね!!」
俺たちの姿に引き摺られていたのか、それを失念していたらしい。
尤も、主人は15歳でも十分、通じる容姿ではある。
だが、それを口には出してはいけないのだろう。
「実年齢を忘れるなよ、高田先輩」
「九十九から先輩って言われるのはなんか変」
耳慣れなかったためか、主人は眉を下げながらそう口にする。
「何故、兄貴は許されて、オレは許されない?」
「ん~? 九十九はずっと同級生だったからじゃないかな」
満面の笑みで主人はそう答えた。
そう言われても納得できないようだったが、主人の笑顔を見た弟は口を噤む。
「それじゃあ、また絵を描きますか」
あれだけ描いたというのにまだ足りないらしい。
いや、これはある意味、題材が変わったからか?
主人の創作意欲を刺激したのなら良いことだろう。
「ああ。でも、ここではなく、隣の部屋に行きませんか?」
「隣? 何故?」
確かに、異性と寝台しかない部屋で過ごすことに抵抗があるのは当然だ。
だが、今の主人の状態は普通ではない。
いつもと変わらぬように見えても、体内魔気の流れは微弱で、精神的にも落ち着いていないことが見てとれる。
分かりやすい表現ならば疲労困憊だろう。
それならば、非常識だと分かっていても、あまり寝台から離したくはなかった。
「えっと、そろそろ二人は、いつものように記録を書いたり、悪巧……、陰謀……、えっと……何かの計画を立てたりする時間帯でしょう?」
「誤魔化しきれていない。いっそ、はっきり言え」
弟がそう言いたくなる気持ちも分かる。
いつも以上に誤魔化し方が下手だった。
「気にしなくて良いよ。今は栞ちゃんの側にいたいんだ」
俺は合間を縫って記録はしているし、弟も主人が眠っている間に記録をつけていることだろう。
主人はもともと夜遅くまで起きていることは少ない。
だから、それまでの間、付き合うぐらいはできるのだ。
そして、何かの計画については、主人の回復次第である。
「うぬぅ……」
だが、今の返答はご不満だったらしい。
その可愛らしい唇が尖っているから。
年頃の女性と言うのは実に扱いが難しい。
「それなら……、わたしも落ち着いて、絵を描きたいです」
なるほど。
俺たちのためではなく、自分の我儘だ、と。
そう言われてしまっては仕方ないな。
「それならば、隣室に行こうか」
そう言って、手を差し出す。
「うわあ、雄也先輩……じゃなかった。今は雄也くん? ……の、エスコートですね!?」
そう言いながら、嬉しそうに手を乗せた。
いつもよりも手が大きく感じるのは、俺の方が若返っているためだろう。
15歳と20歳では手の大きさはそこまで変わらないと思っていたが、そうでもないらしい。
そして、今は、学生服を着ているせいか、「雄也先輩」が復活しかかっているようだ。
だが、「雄也くん」と彼女から呼ばれるのは少し新鮮だった。
少し前によく似た声で、同じように呼びかけられているのだけどな。
やはり、似ているようでも全く違う声だということは分かる。
「ほら」
愚弟も手を差し出した。
何故、対抗するのか分からない。
また「囚われの宇宙人の図」とか言われるぞ?
「ぬ?」
主人が左手を出そうとして、止まる。
「これは……、『九十九くん』と呼ぶべき?」
「なんで、今更「くん」付けなんだよ? この姿が、年下相手だからって理由なら呼び捨てろ」
「いや、いつもと違うし、年下でも呼び捨てってなんか違う気がするんだよね」
主人は首を捻る。
この辺りは母親の教育だろうか?
あの方も俺たちのことを「くん」付けで呼ぶから。
「じゃあ、オレも『高田先輩』、あるいは、『栞先輩』って呼べば満足か?」
「ああ、うん。それはありだと思います。ありがとうございます」
「ありなのかよ」
御礼を言うほどだから、かなり「あり」なのだろうな。
俺もそう呼ぶべきだったか。
「えっと、可愛らしい年下の異性から『先輩』と呼ばれるのは、なかなか気分が好いです。ちょっとこの辺りが擽ったい」
そう言いながら、主人は胸元に指を置く。
それを見て、弟は顔を顰めた。
主人が意図したわけではないだろうが、その場所は例の黒い穴がある部分だったから。
偶然だとは思うが、これだけでは判断ができない。
「あなたには、そんな覚えはない?」
そんな主人の言葉にも……。
「別に。異性の後輩って、キャンキャンうるせ~イメージしかない」
めんどくさそうに答える愚弟。
「そうなの?」
「部活の時がな。感情的で、時間が無駄になるようなことしか言いやがらない女が多かった」
「おや、辛辣だね」
感情的な意見は、男女関係なく、思春期にはありがちな話である。
弟は主将のような部活の中心にはならなかったが、そこそこの人望があった。
だから、中学時代の部活中に、何度か男女間の不毛な言い争いにも巻き込まれていたらしい。
そんなこともあって、縁遠かった気がする。
いや、そんな言い争いをしつつ、近付こうとしていた異性もいたようだが、鈍い弟は気付いていなかったようだ。
「わたしは女子ソフト部だったから、先輩も後輩も異性の接点がなかったんだよね。ああ、友人繋がりで妙に話しかけてくる子はいたかな」
「妙に話しかけてくる?」
過去のことだというのに、弟は反応した。
「うん。馴れ馴れしくて、ちょっと苦手だったんだよね」
主人は困ってように笑う。
「あのリプテラの後輩みたいな感じか?」
「いやいや、あんなに分かりにくい好意じゃなかったよ。もっと分かりやすかった。『先輩って小さくて可愛いですよね』って言いながら、肩とか髪とかに触ろうとするから、露骨に避けちゃったこともある」
「セクハラじゃねえか」
弟の発言が全てである。
「今ならそう思うけど、誰にでもそんな感じだったから、単純に女性好きなのかな、と」
「それは女なら誰にでもセクハラするってことじゃねえのか?」
「顔が良くなければ許されないことだよね」
いや、顔が良くても許してはいけないことだろう。
「顔で許すなよ」
愚弟も似たようなことを考えたようだ。
「許しちゃう子が多かったんだよ。人好きする笑顔って言われていた。でも、わたしはその顔が苦手だったし、ワカは『腹黒副会長』って呼んで、やっぱり避けていたかな。同じ演劇部員だったんだけどね」
「あ?」
「わたしたちの一つ下の生徒会副会長だったんだよ」
それを聞いて、件の人物に思い当たる。
主人が通っていた中学の生徒会のメンバーは、俺の同学年から主人の二学年下までちゃんと記録していたからな。
恐らく、同じ学校の生徒会にいた真央さんと水尾さんも面識はあるだろう。
「まあ、そんな昔話はどうでも良いでしょう? わたしは、今を生きるのです」
それは、夢で聞いたような言葉だった。
弟もそう思ったのだろう。
主人を真っすぐ見て目を瞬かせている。
「じゃあ、行こうか」
だけど、そんな愚弟の視線を気にせず、主人は楽しそうにそう言ったのだった。
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