交渉の材料
「それで? 俺に何か話したいことがあるのだろう?」
この男にしては威圧的な声。
だが、両頬を濡れた布で押さえている状態では格好つかない。
治癒を先にすべきだと思うが、残念ながらこの場には普通の治癒魔法の使い手はいなかった。
姿を隠している従者たちも同様だ。
そもそも、カルセオラリアには治癒魔法の使い手がいない。
そして、この国にいる治癒魔法を使える知人は、今、出かけているらしい。
それならば、民間療法に頼るしかないのだ。
尤も、この姿である必要はない。
単純に両頬を隠すだけの手段ならいくらでもあり、わざわざ痛々しさを演出する必要もないだろう。
何より……、この男は普通に炎症を抑える効果のある塗布薬を持っているはずだがな。
即効性はないが、もともと王族は自然治癒能力が高い。
弟が調薬した皮膚の炎症を抑える効果の高い薬を塗れば、女性に頬を張られた程度の腫れは、1時間もかからず、治癒するだろう。
それを使わない理由は理解できる。
これから始まる交渉が難航することを察して、相手の気を散らそうというのだろう。
身体を張り過ぎだと思うが。
昔、人間界のバラエティー番組で見た芸人たちをなんとなく思い出す。
仕事のためとはいえ、身体を張り過ぎだと何度思ったことか。
そして、その姿を笑いたいとは俺には思えなかった。
「集団熱狂……」
「駄目だ」
水尾さんの言葉を遮って、トルクスタンは、いきなり反対の言葉を口にした。
その気持ちは分からなくもない。
俺も同じ状況で、主人がその熟語を口にしただけで、同じような反応したくなるだろう。
どんな形であっても、「集団熱狂暴走」には関わらせたくないから。
尤も、俺ならば、最後まで相手の話を聞くぐらいのことはするが。
「最後まで聞けよ」
「聞かなくても分かる。ルカのことだ。スタンピードの討伐戦に参加したいとかそんな話だろう? 駄目だ、駄目だ。ルカの実力は知っているつもりだが、危険すぎる」
どうやら、トルクスタンは水尾さんが集団熱狂暴走が発生した時に組まれると想定される討伐軍に参加したいと言い出したと思っているらしい。
やはり、人の話は最後まで聞くべきだな。
「集団熱狂暴走が発生するまで待つなんて、誰も言ってない」
「そうなのか? だが、魔獣との戦いは、人間相手に使うことができない魔法を試す絶好の機会だろう? 昔、ルカの口からそう聞いた覚えがあるぞ?」
「いつの時代の話だ!?」
「えっと……、多分ルカが5歳? いや、6歳ぐらいか?」
「ガキの強がりを鵜呑みにするな!!」
トルクスタンには強がりを言っていたらしい。
まあ、分からなくもない。
「強がりだったのか?」
「強がりだったよ! 魔獣相手にぶるってるなんて、他国の王族の前で言えるか!!」
トルクスタンの呑気な問いかけに水尾さんは大きな声で反論をした。
「トルクの前で、あの態度が強がりだったと言えるようになるとは……」
真央さんが嬉しそうに口を手で押さえて俯いた。
随分と楽しそうである。
「淑女として、あの俗語は良いのかい?」
「それはもう、今更じゃない? アレらは、ルカの父親に対する数少ない反発心からの言動だからね。見逃されていたんだよ。尤も、アレが素になるなんて計算外だったと今では母親も思っていると思うよ」
そして、俺の言葉にそう苦笑しながら答えた。
「私はこの大陸で起きようとしている集団熱狂暴走が発生しないように食い止めたい。ローダンセ王家に情報が届かなくなってしまったのは、私のせいである可能性もある。だから、私を魔獣退治に行かせてくれ」
水尾さんはこの国で集団熱狂暴走が発生しそうであるのは、自分にも責任があるとした上で、トルクスタンを説得しようとする。
「集団熱狂暴走にしても、魔獣退治にしても、この大陸で起きようとしていることはこの大陸内にある国の責任であり、ルカには何の関係もない」
それに対して、どんな事情があっても国を守るのはその国の人間たちだと正論をぶつけるトルクスタン。
「私で先に練習させたから、もう少し、勝負になるかなと思ったけど、ちょっと難しいか。この辺りは場数ってことかな?」
どうやら、トルクが戻る前の話は、真央さんにとって、妹を教育する場だったらしい。
尤も、本音も出していたから全てがそうだというわけでもないのだろうけど。
「トルクもそう数は得てない。似たようなものではないか?」
「いや、トルクは昔からユーヤと少なくない言葉を交わしてきたという優位性があるからね」
真央さんは揶揄うように笑った。
確かにあの男とは十年ほど言葉を重ねてきたが、それぐらいで優位性を確保することはできはないだろう。
「集団熱狂暴走が発生しそうな状況を放置すると危険なんだぞ? それで、害を被るのは力のない民なんだ。トルクは民がそんな目に遭っても良いのか?」
「良い」
「なっ!?」
トルクの迷いのない返答は意外だったのだろう。
水尾さんは目を丸くする。
「この国の見も知らぬ民がどうなろうと知ったことか。国民を守るのはその国の王族の務めだ。それよりもこの国の問題に首を突っ込んで、ルカが不快な思いをする方が俺はもっと嫌だ」
その考え方は正論であり、同意したい。
見知らぬ他人よりも、側にいる身内を重視する。
それが国内ならともかく国外なのだ。
優先すべきものが他国の他人よりも、身近な人間となるのは当然だろう。
「ん~、トルクが有利に傾いたかな?」
「もともと他国の問題だからね。それに介入しようとする方が無理のある行動ではある」
目に見える弱い人間を守りたい。
そう考えるのは強者の驕りでしかない。
救われた民の全てが感謝するわけではなく、施しを与え恩を売ることに対して、牙を剥くことだって珍しくないのだ。
「俺は魔獣よりも人間が怖い」
自分の両頬を押さえながら、トルクスタンはそう口にする。
その言葉に水尾さんだけでなく真央さんも顔を顰めた。
目の前の双子が怖いと言っているように見えたのだろうな。
だが、間違ってない。
こういった状況で俺の弱点になる可能性となるのが主人なら、トルクスタンの弱点はこの二人である。
愚弟?
ヤツは放っておいても逞しく生きるから、今回のような場合は俺の弱点にはなり得ない。
「ルカの強さは信じている。多分、魔獣に対しては俺よりもずっと強いだろう。昔から魔獣に対して国のために一歩も退かなかったからな。ずっと踏みとどまって、国を守り続けていた。その強さは俺にない」
そう言えば、トルクは彼女が魔獣退治の際に泣いていたことは知っていたのだったな。
それならば、幼い頃、彼女が口にしていた言葉が強がりだったことも気付いていたのかもしれない。
「だが、相手が人間なら? ルカは恐らく、俺よりもずっと弱い」
「そんなことはな……」
「俺の言葉に対して感情的に反論する時点で、話にならない。せめて、まともに話し合いができる状態にまで精神を鍛え直せ」
……今の反論は、お前も十分、感情的だと思うぞ?
相手の言葉を封じるために、自分の言葉を被せて防ぐのは、余裕がない時だ。
満足するまで吐き出させた上で、更に、その上から反論する隙もないほどの正論で叩き潰した方が効果的である。
「ふむ。ルカがどんどん不利になる」
「どうしても、他国での下手な動きは内政干渉になるからね」
「あ~、それで、トルクにしては慎重論なんだ」
いや、トルクはこの国を気にして慎重になっているわけではない。
この双子を気に掛けて、関わらせたくないだけだろう。
付け込むのなら、この部分だな。
「議論が白熱してきたところ悪いけど、横から口を挟んで良いかい?」
そんな俺の言葉に……。
「「え?」」
双子は声を揃え……。
「駄目だ」
トルクスタンは苦々しい顔で断りを入れた。
「お前は絶対、俺の味方をする気はないだろう? 女に甘い男め」
「その発言も感情的な言葉だな」
分かりやすく俺を警戒する姿勢に笑ってしまう。
だが、未来のカルセオラリア国王陛下が、俺如きの言葉を捌けなくてどうする?
「どちらかの味方をするわけではない。単に、見解の相違があることを教えようと思っただけだ」
「見解の相違?」
「このままでは平行線だからな」
俺の言葉にトルクスタンが少し警戒を解く。
「ルカ嬢。トルクスタン王子殿下は、どんな形であってもこの大陸で起きる集団熱狂暴走に関わって欲しくないと言っている。そこは理解できるかい?」
「それは分かる」
俺の言葉に水尾さんが頷く。
「そして、トルク。ルカ嬢は、集団熱狂暴走ではなく、魔獣退治に行かせて欲しいと頼んでいる。この二つの意見は並び立つものだと思うが違うか?」
「それはスタンピードとは違うのか?」
俺の言葉にトルクスタンが確認する。
「ち、違うっ!! この大陸の集団熱狂暴走はまだ起きていない。起きる前に少しでも魔獣の数を減らして、万一、集団熱狂暴走になった時は、この国の人間に任せるつもりだ!!」
トルクスタンの言葉に勝機を嗅ぎ取ったらしい。
水尾さんが攻勢に出る。
集団熱狂暴走には関わらない。
自分は魔獣退治をして数を減らしたいだけ。
その主張をトルクスタンがどう受け止めるか?
簡単に結論を出せないのか、トルクスタンは考え込んだ。
俺を睨みながら。
睨まれても仕方ない。
見解が違うまま、討論したところで互いに不満がたまるだけだろう。
暫く時間を置いて、トルクスタンは……。
「駄目だ」
改めてそう口にしたのだった。
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