一時停止
何が起こったのか、分からなかった。
それは本当に六十分刻にも満たないほど短い時。
『大丈夫かい?』
そう言いながら、黒髪の青年がわたしの肩を抱いたことだけは、はっきりと分かった。
「えっと……?」
だけど、どうしても気になってしまう。
『ちょっ!? マジか!? 待っ!? 怖っ!? おっ!? ストッ!! 当たるっ!! 今のはヤベェ!! 待て!! 話せば分かっ!!』
途切れがちに聞こえてくる、悲鳴のような懇願が聞こえるからだ。
いや、その声には少し余裕はある感じだけど、その方向を黒髪の青年が綺麗に隠しているため、本当に余裕があるかは分からない。
「雄也の背後から叫び声が聞こえるのですが?」
『まだ当てていないから大丈夫だよ』
わたしの角度からは隠れているけれど、もう一人の護衛が何かをやっているのだろう。
でも、殴打音を含む打撃音は聞こえないから、本当に当ててはいないのだと思う。
そうなると、寸止めだろうか?
「これから当てる予定ってことですか?」
『どうだろう? 床を殴打している愚弟の気分次第……、いや、手が滑ったり、目測を誤ることは未熟なヤツにはたまにあることだし、その近くにたまたまいた彼もそれを避けようとしているから直に当たるかな』
どうやら、床を殴っているらしい。
そう言えば、ここの床は音が鳴らなかったね。
『これ以上は無理だっ!!』
『じゃあ、観念して当たれ』
『その勢いだと、多分、死ぬからな!?』
『これぐらいで死ぬかよ』
声に焦りはあっても、やはりどこか余裕はある。
でも、この黒髪の青年が言う通り、手が滑ったり、目測を誤ったりすることはあるだろう。
それは、未熟とか関係ない話だ。
人間だから、失敗はある。
「死とか不吉な単語が漏れ聞こえましたが?」
『ああ、うん。愚弟のストレス解消でもあるからね』
さらりととんでもないことを言われた気がする。
『聞こえたぞ! 番犬!! そして、そろそろこの狂犬を止めろ、飼い主!! お前の夢の中で俺が死んだら確実に恨むぞ!!』
あくまで犬扱いを止めない紅い髪の青年。
でも、いつもよりも勢いがない気がした。
何と言うか、年相応? いや、もうちょっと若い感じの反応?
そして、死なないとしても、暴力沙汰は良くない。
「雄也、行きます」
『承知。でも、気を付けて』
わたしの肩から黒髪の青年が手を離し、そして、一瞬だけ目を細めた。
その視線から、多分、黒い穴を改めて見たのだと思う。
自分からでは角度的によく分からない黒い穴。
先ほど腕が生えたのはこの場所だったから、多分、背中にも同じような穴があるのだろう。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
「九十九、ストップ!!」
紅い髪の青年に対して馬乗りになり、殴りかかっているようにしか見えない黒髪の青年の方に声をかけると、その手を止めた。
まるで、動画を一時停止したような状態。
ちゃんと聞こえていることは分かるが、本当に当たっていないんだよね?
「まずは、ライトから下りて。そのままじゃ、話にならない」
『断る』
断られてしまった。
「じゃあ、せめて、一度こっちを見て」
わたしがそう言うと、渋々、黒髪の青年はこちらに顔を向けて、目を見開き、その表情を変えた。
『ちょっ!?』
そして、弾け飛ぶように、こちらに来る。
『こいつからやられたのか!?』
掴みかかるように……、いや、しっかり、両腕をがっしりと掴まれながら、そんなことを聞いてくる。
「違うから」
『だが、さっき……』
「だから、話をしようって言ってるじゃないか。本当にライトから貫かれたなら、この程度で済むはずがないでしょうに」
あと……、胸元を見るのは止めていただきたい。
黒い穴に目線を向けていると分かっているのだけど、その視線の先はわたしの胸に固定されているようにしか見えなかった。
「九十九のえっち」
『はい!?』
思わずそう呟いてしまったわたしの言葉が聞こえたのか、黒髪の青年は目を丸くする。
聞こえてしまったなら仕方がない。
言葉を続けさせてもらおう。
「あなたの見ている先は、思いっきりわたしの胸なんだけど、その自覚はある?」
わたしが改めてそう口にすると、黒髪の青年は、一気にその顔色を青から赤へと変えた。
『わ、悪い!! そんなつもりはなかった!!』
そう言いながら、慌てて目を逸らしながら離れてくれる。
本当に何も意識していなかったらしい。
『中坊かよ……』
『精神的にはそう変わらないだろうから仕方ないね』
黒髪の青年……、護衛兄が手を差し出すと、意外にあっさりその手を借りて、紅い髪の青年は身体を起こす。
『聞こえてるぞ、そこ』
もう一人の黒髪の青年……、護衛弟は不機嫌な声でそう言った。
『そんなことより、栞。痛みは? その位置は心臓よりちょっと上だと思うが、無事か?』
わたしの方を見ないようにして、護衛弟はそんなことを確認してくる。
まあ、確かに鎖骨のすぐ下であり、心臓からはちょっとずれているようだけど、少しぐらい掠めていてもおかしくはない場所でもある。
「夢の中だから、心臓の状態は分からないなあ……」
穴より少し下に触れても鼓動が分からない。
もともと、夢の中では触感がないのだ。
「でも、痛くないよ」
まるでゾンビのようだとも思う。
人間は胸部に風穴が開いた状態では、あまり長く生きることはできない。
まあ、夢だからね。
状況的に、彼らは外部からの侵入者であって、わたしの夢の中の登場人物ではないと思う。
つまり、意識だけで作られているわたしだけが偽物ってことだ。
『そんなことって言うけど、こっちは夢の中で臨死体験するところだったぞ』
『最初以外、当ててないのに、死ぬかよ』
紅い髪の青年の言葉にも、護衛弟は律義に反応している。
そして、最初の音はやはり殴打音だったらしい。
『心臓が止まったら、人間、死ぬんだぞ? ショック死って言葉を知らんのか?』
『キミなら死ぬ前に意識を戻すことができるから大丈夫だよ』
それは、他人の夢の中でも死ぬことがあるってことでしょうか?
『鍛え方が足りねえんだよ』
護衛弟はそう言い切る。
そう言えば、意外にあっさりと馬乗りになっていたね。
『他人の夢の中で大暴れする非常識と遭遇するとは思っていなかったからな』
『身体強化を含めて、オレは魔法を一切使ってねえぞ』
「『え?』」
驚きの声はわたしだけでなく、紅い髪の青年の方からも出た。
「え? わたし、あなたの動き、見えなかったよ?」
どこからか突然、現れて、そのまま、紅い髪の青年を殴り倒したから、てっきり身体強化をしたのだと思っていた。
『ちょっと待て? 本当に? いや……、他人の夢の中で魔法は使えないのは確かだ』
『弟は空手をやってたからね』
紅い髪の青年の言葉には護衛兄が答える。
ああ、小学校の時、習っていたね。
懐かしい。
『そんなレベルの動きじゃなかったぞ!?』
だが、紅い髪の青年は納得しなかった。
わたしもそう思うけど、この世界の人たちは、筋力も体力も、人間界の人たちより上なのだ。
魔力の封印を解放した後の高田栞でもその実感があった。
それならば、ずっと封印されることなく鍛え続けていた護衛弟がとんでもない動きをしても……、それが戦闘民族の宇宙人だからと言われてしまえば、ほとんどの人間は納得してしまうだろう。
まさに護衛弟はそれ!
戦闘民族な宇宙人!!
こんな心の声が聞こえてしまえば、確実に否定を伴うツッコミが入るだろうけど。
『……変なことを考えていないか?』
「正直な感想は抱いているけれど、変なことは考えていないかな」
流石に高田栞に詳しい男である。
あるいは、心の声が漏れ聞こえてしまっているのかもしれない。
『栞ちゃん、俺も背中を見せてもらっても良い?』
少し離れた場所にいた護衛兄からの申し出。
「え? またズボッとやられちゃいますか?」
文字通り、心臓に悪い光景だった。
あれはあんまり何度も見たくはない。
『やらないなあ……』
困ったようにそう笑われる。
だが、自分の身体から手が生えるというのは、かなり衝撃的な絵面だったのだ。
あんなの少年漫画だけにしていただきたい。
だが同時に、状況を客観的に見せるための引いた構図でなく、自分視点からだとこう見えるのかと、思わず筆記具と紙が欲しくなってしまったのは高田栞の習慣のせいだと思う。
こんな時にも絵かよ! と、思ってしまった意識は悪くない。
『女性の身体を正面から見るのは、あまり褒められた行いではないからね』
護衛兄が苦笑しながらそう言うと、護衛弟が不服そうな顔をする。
護衛兄から皮肉を言われたと思ったのだろう。
そして、その感覚は間違っていないと思う。
「承知しました。それでは、どうぞご覧ください」
くるりと護衛兄に背中を向ける。
護衛兄のことだから、いきなり身体を貫くようなことはしないだろう。
しないよね?
しないって言ってくれたからね。
どんなに好奇心があっても、一言、何か言ってくれるよね?
『髪を少し、上げてもらえるかい?』
「ああ、邪魔ですからね。よいしょっと」
自分の髪を手でポニーテールするように持ち上げる。
こうすると、結構、伸びたことが分かる。
ストレリチア城から出た時は、肩よりも少しだけ長かった髪はいつの間にか、肩甲骨を隠すようになっていた。
切った方が良いかな?
でも、ローダンセに暫くいるなら、長いままの方が良いのかな?
お貴族さまの髪って、長いものだよね?
自分の髪の毛を結ったりする必要があるのだ。
だが、あまり長くし過ぎると、結うと重くなってしまうし、円舞曲を踊る時に気を遣わなければならなくなる。
尤も、それを考えなければならないのは、高田栞であって、わたしではないのだけど。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




