籠から出た小鳥
「くしゅっ!!」
俺が迷っているうちに、包み込んでいたタオル生地の下から可愛らしいくしゃみが聞こえた。
これまで感覚がなかったところに、急激な温度変化があったためだろう。
「水から上がったせいか……。栞ちゃんは、動けるかい?」
このままの恰好でいつまでもいさせるわけにはいかない。
だが、今はこれ以上、下手に動けないのは事実だ。
「はい」
彼女はそう返答した後……。
「少し、タオルケットを動かしますよ?」
さらにそう続けてから、ゆっくりと動き始めた。
その動きに合わせて、少しだけ、包んでいた力を緩める。
完全に緩めると、掛けているタオル生地が落ちるかもしれないという不安があった。
思春期のガキのようなことをしている自覚はある。
だが、主人に恥をかかせたくはない。
それが分かっているのか、彼女も慎重に行動している。
後ろを向いて、主人を動きやすくさせる方が良いと分かっていても、この状態の彼女から目を離すこともできなかった。
頭を出す瞬間、少し引っかかったようだ。
その弾みで、左肩からタオル生地がずれて、隠されていた艶めかしい項がその姿を現し、その女性らしさを訴えている。
健康的な男には目に毒な光景だ。
見続けることが申し訳ない気がして思わず顔を逸らす。
もう一度思う。
俺は思春期のガキか? と。
だが、普段は感じない異性の魅惑的な姿を見せられて、全く何も感じないのは、感受性が鈍い不感症か、異性に興味を持てない同性愛者ぐらいではないだろうか?
どう切り出すか迷っていると、下から視線を感じた。
非難されても仕方がない。
俺は彼女から離れながら……。
「これでは、弟のことを責められないな」
口を押さえつつ、そんなことしか言えなかった。
それでも、いきなり逃げ出すような醜態を晒すつもりはないが。
「いやいや! わたしが、勝手に脱いだだけですから!!」
彼女はタオル生地を押さえつつ、そう主張した。
弟の方は完全に不可抗力だった。
森に迎えに来たら、何も身に着けず横たわっていた主人の姿があったと愚弟は言っていたのだ。
そんな事態は、大神官ぐらいしか予想ができなかっただろう。
だが、先ほどの場面は違う。
彼女は泳ぐと言っていたのだ。
それは、脱ぐと言っていたも同然で、それを具に見ていた俺がおかしい。
考えみれば、この湖には「神水」とやらが湧いていることを、俺は弟からの報告書で知っていたのだ。
だから、ミタマレイルという霊草が育つ、と。
その水が、実体化していなかった彼女に何らかの影響を与える可能性を全く考慮しなかった俺が悪い。
「お目汚しを、申し訳ございません」
そう言いながら、主人は頭を下げる。
その声は明らかに震えていたが……。
「お目汚し?」
その言葉はとてもではないが、受け入れることができなかった。
ましてや、彼女から謝罪をされる理由もない。
「先ほどの栞ちゃんのことなら、全然、そんなことないよ」
あんなにも綺麗な姿を見たのは初めてだった。
女性の身体を見たというのに、気持ち悪いとも、吐き気がするとも、全く思わなかったのだ。
あの瞬間、俺は無様にもただ見惚れてしまい、身体を動かすことも、思考することすら放棄してしまった。
「いや、わたしは少しばかり貧相なので……」
その発言で、彼女が何を気にしているかを理解する。
確かに大きいとは言えない。
そんな嘘を口にしても慰めにはならないだろう。
尤も、個人的な趣味嗜好を口にするなら、その部分が大きいというのは、気持ちが悪いとさえ思っている。
柔らかくはあるが、それだけだ。
そこまで考えて、俺は大きくない方が好みらしいことを、今、知った。
だが、いきなり、そんな性癖を口にされても困るだけだろう。
「俺はそう思わなかったけれど……」
少なくとも貧相だとは思わない。
普段、隠されているその身体は十分すぎるほど女性らしい丸みを帯びていて……。
「先ほど、水から出た瞬間の栞ちゃんは、言葉を失うほど綺麗だったよ」
その事実だけを口にする。
実際、言葉を失ったのだ。
少女だと思っていた主人は立派に女性として成長していることを理解しているつもりだったが、それは頭の中だけのことだった。
その全身で女性らしさを訴えられるまで、それを意識していなかったのだ。
俺の言葉で、彼女はその顔、いや、全身を真っ赤に染め上げる。
その姿に何かを感じた時……。
「何をしている?」
そんな低い声の雑音が入った。
まあ、彼女が実体化したなら、その気配に過敏なこの男が気付かないはずがない。
どうやら、のんびりした時間はここまでのようだ。
思考を切り替える。
「九十九……」
主人が弟の名を呼ぶ。
その声と表情から、弟が何に怒りを感じているかが分からないようだ。
なんのことはない。
ただの嫉妬だ。
昔からこの辺りは変わらない。
主人の恋人でもないのに、彼女に対して好意を向ける男に対して、殺気を叩き込む。
独占欲と執着心が強すぎるのも考え物だ。
せめて、主人に劣情を抱く人間だけにして欲しい。
だが、随分、殺気を向ける標的を絞れるようになったものだ。
この肌に突き刺さるような痛みを、近くにいる主人は全く感じていないことだろう。
いや、彼女の表情を見る限り、弟の体内魔気の状態で、それと似た感覚が伝わってしまっているかもしれない。
それは良くないな。
主人が弟に向かおうとする気配があった。
だが、弟を甘やかしてはいけない。
彼女の気持ちは理解しているが、そこで弟に変に期待を持たせるわけにはいかないのだ。
「ああ、来たか」
だから、俺は弟に向かってそう告げる。
「丁度良い。お前を呼ぼうと思っていたところだった」
その言葉は嘘ではないが、同時に、もう少しだけ待って欲しかったとも思っていた。
少なくとも、俺は弟が来た時に、邪魔をされたとも思ったのだから。
「あ?」
だが、ヤツにはそれだけでは伝わらなかったらしい。
鈍い男だ。
この状況で、俺がお前を呼ぶ理由など、それ以外にはないだろうに。
「急いで栞ちゃんの着替えを一式出せ。俺は全てを預かっていない」
「あ?」
「へ?」
残念ながら、俺は彼女の私物を預からせてもらっていなかった。
俺が所有しているのは、服の一部だ。
腰枠、補整下着はあるが、普段使いの物はないのである。
だが、弟と離れた時を想定すれば、俺も少しぐらいは持っておくべきだろう。
サイズの問題もあるため、後で当人に相談していた方が良いかもしれない。
肌に直接身に着ける物は、サイズが分かっても、着け心地や好みはあるだろう。
「袋の指定をしろ」
そこまで言えば、弟も理解したらしい。
彼女に向かって、感情の込められていない言葉を告げる。
「へ?」
だが、足りなすぎる弟の言葉に、主人が目を丸くした。
せめて、何の袋か言ってやれ。
「お前の服が入っている袋だよ」
「ああ。えっと、黄緑、青、赤で」
彼女がそう指定すると、弟は手慣れた様子で三色の袋を取りだす。
その間に、俺は更衣室を出す。
少し迷ったが、鏡付きの物が良いだろう。
女性は、着替えた後、自分の姿を確認しようとするからな。
「そこに着替えができる場所を出したよ」
「ありがとうございます」
そう御礼を言いながら、主人は三色の袋を引き摺って、その更衣室の中へと消えていった。
「兄貴……」
その姿がなくなると同時に、弟の方から声を掛けられる。
「なんだ?」
用件は分かっていたが、俺は言葉を返した。
「栞はいつから実体化していた?」
「先ほどだな」
その言葉に嘘はない。
「何故、すぐ呼ばなかった?」
「阿呆。彼女の混乱が落ち着くのを待っていたのだ」
多分、弟の声を聞くまでは、確実に混乱していた状態だっただろう。
言い換えれば、弟の声を聞くことで落ち着いたとも言える。
「……見たか?」
やはり、その点が気になったのだろう。
視線と声に鋭さが増す。
「申し訳ないことではあるがな。実体化した時、彼女はあの装置から出ていたのだ」
だが、同時に思う。
彼女はそこの湖で泳いでいる最中に、実体化している。
そのため、時間の経過によって戻ったのか、湖の水に触れたためかの判断ができない。
「なんで、鳥籠から出した?」
腰枠の形は、その独特な形状から鳥籠型とよく言われる。
あるいは、ドーム型か。
この男ならズコットケーキ型と言いそうな気がしていたが、骨組みや仕組みを考えれば、鳥籠型と言う表現が一番、近いかもしれない。
「自由を望む小鳥に、俺の声は届かなかった」
「ああ、兄貴が出したんじゃなくて、栞が勝手に出てきたのか。あの女は、ホントに! 男を舐めてるとしか思えないな」
その原因の一端を作り出している男は、そんなことを言った。
尤も、彼女が無防備、無警戒になるのは、俺たち兄弟と大神官、クレスノダール王子殿下、それと多分、あの紅い髪の青年の前だけだろう。
それ以外の異性の前では、警戒心がかなり強い気がしている。
共通点は、異性を意識し始める年代よりも前に会っているという点か。
紅い髪の青年に関しては、彼女自身が忘れた時代に出会っているらしい。
だから、本能が警戒しないのだろう。
それをこの場で口にする気はないが。
そして、その直後……。
俺と弟は彼女の悲鳴を聞くことによって、そんな会話を中断することになる。
さらに、その後に更衣室で行われた女性たちの会談によって、弟は頭を抱え、俺はどう説明したものかと思案に耽ることになるのだった。
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