始まりの言葉
「ふぎゃああああっ!?」
栞の珍妙な叫び声が聞こえたので、思わず顔を上げた。
今、彼女は目の前にある簡易更衣室で着替えをしていたはずだ。
直前まで、変な気配はなかった。
そして、この森には小動物を含めて生き物の気配は植物ぐらいしかない。
何より、虫やちょっとした爬虫類を見たぐらいでは悲鳴を上げるような女なのではないのだ。
何があった!?
「栞!? 開けるぞ!!」
いきなり開ける勇気はなかった。
着替えを持って更衣室に入った人間がすることなんて一つだろう。
ましてや、栞はタオルケット一枚を巻き付けただけの状態だった。
下着すら身に着けていなかったのだ。
それならば、まだ着替え中の可能性がある。
「ストップ!! 待って!! 着替え中!!」
案の定、そんな叫びが聞こえた。
触れていなくても、オレが開けようとした扉が震えたのが目に見えて分かる。
多分、扉を押さえつけたのだろう。
全力で抵抗されたらしい。
まあ、栞が物理的に押さえつけたぐらいでは、オレは簡単に開ける自信はあるのだが。
「今の叫びは!?」
開けはしないが、状況の確認ぐらいはさせて欲しい。
何もなく、意味なく、悪戯心で叫ぶような女ではないことは知っているから。
「大丈夫!! ちょっとしたホラー要素!!」
「全然、大丈夫じゃねえ!!」
逆に心配になった。
ちょっとしたホラー要素ってなんだ!?
それで、どうして大丈夫だと言い切れるのか?
「大丈夫だから、開けるの待って!!」
だが、重ねてそう叫ばれた。
「本当に、大丈夫なんだな?」
本人はそう言うが、最初の叫びの理由が分からない。
そして、ちょっとしたホラー要素の意味はもっと分からない。
「うん。後で話すから、少しだけ待っていてくれる?」
「……分かった」
後で話してくれる気があるなら、今は引き下がった方が良い気がした。
自分の手に余ると判断したなら、栞はオレを呼んでくれるだろう。
聴覚強化をして中の様子を確認したいとも思ったが、着替え中の音を拾ってしまうのはどうかという話だ。
いろいろ妄想してしまうじゃないか!!
「……って、兄貴は何しているんだよ?」
オレは下がったが、兄貴は逆に更衣室に近付こうとしていた。
兄貴に限って、開けるなと言われた更衣室の扉を不用意に開けるとは思えないが、それでも今、その場所に近付く意味が分からない。
「声を落とせ。気付かれたくないからな」
だが、兄貴は口に人差し指を立てて静かにしろと言った。
気付かれたくないのは栞か?
それとも……?
そんなことを考えている間に、兄貴は更衣室の正面の扉ではなく、背後に回った。
すると……。
『そこが開いたらワタシは姿を消すつもりだったよ』
そんなどこかで聞いたことがある声が聞こえてきた。
ちょっと待て?
今、そこにいるのか?
だが、その気配は感じなかった。
精霊族でも混血、純血に関係なく気配はある。
それは、これまで種族に関係なく幾人もの精霊族に接したことからも明らかだった。
だが、今、この更衣室から、栞以外の存在の気配を感じない。
これはオレが栞の気配に過敏だからではないはずだ。
『ワタシは必要以上、人類に接触するのは好まない』
さらに、声は続く。
どうやら、兄貴は更衣室に何か仕掛けをしていたらしい。
魔法の気配はなかった。
そうなると、元々の機能だと思うが、何の目的でそんなモノを付けたんだ!?
『本体は当然だけど、力を分けた分身や力から作られた幻影であっても、その相手にどんな影響があるか分からないからね』
分身や幻影?
この気配の無さは、そういうことか?
「今、この更衣室の中を切実に覗きたい」
だが、今、オレが乱入すれば、会話が終わるだろう。
「それだけ聞くと、変質者の言葉だな」
そんな意味で呟いたわけではないと分かっているはずなのに、兄貴はそんなことを言う。
「更衣室に妙な仕掛けをしていた兄貴に言われたくねえ。どんな事態を想定していたら、こんな機能が必要なんだよ?」
「こんな事態だな。更衣室という特性上、中に踏み込むのを躊躇うこともある。だが、最低限様子を窺いたい時に、中を見ることはできずとも、音を拾うぐらいなら、主人も許してくれると判断した」
ああ、栞なら許しそうな気がする。
そして、実際、その機能が役立ってしまっているのだ。
簡単に兄貴の話術に丸め込まれて、承諾してしまうだろう。
普通に考えれば、とんでもない話なんだけどな!?
「そこまで過剰に反応するほどのことか?」
兄貴は平然と言ってのける。
そこまで堂々とされると、オレの感覚の方がおかしい気がしてくるのは何故だろうか?
「衣擦れの音だけで興奮する性癖でもない限り、問題ない機能だと認識しているのだが?」
悪かったな!!
音だけで妄想するような変態で。
オレの表情から何かを理解したのか……。
「半童貞はいろいろ大変だな」
憐れみの視線と、そんな腹立たしい言葉を頂戴した。
これはオレが半童貞だからだろうか?
いや、この中にいるのが栞だからだろう。
そういうことにしておいてくれ。
『暫くは今代の聖女の夢に渡ることも難しそうだからねえ。悪いけど、鏡像をちょっと借りたよ』
鏡像ってことは、鏡に映った像ってことか。
借りたってことは、鏡に映った栞を使った?
それは確かにホラーかもしれない。
栞が叫んだ理由が理解できた気がする。
だが、夢に渡ることが難しい?
どういうことだ?
当人の問題か、それ以外の要因かが分からない。
別系統の力だが、同じようなことができる兄貴なら分かるのか?
『でも、表の坊やの反応が早かったのは誤算だったかな。あの様子だと、いつまで『待て』ができるか分からないね』
オレのことか。
犬扱いされたことは分かる。
いや、別にいいけど。
実際、踏み込もうとしたのは事実だ。
咄嗟に栞が止めてくれなければ、間違いなく踏み入っていただろう。
『いやいや、結構、結構。じゃあ、話してあげようか。時間はなさそうだから、手短に言うよ。今の今代の聖女の状態は、魂の修復が完了して、魔力を少しずつ身体に馴染ませているところ。ここまでは良いかい?』
魂の修復?
やはり、魂にまで影響があったことだったのか。
あの紅い髪のために?
その事実がどうしようもなく腹立たしい。
それを平然と受け入れている栞にも。
『いつもなら問題ないのだけど、魂が少し弱った直後だからね。本来の魔力が身体に馴染んでからじゃないと、魔法力の回復が始まらないんだ』
「本来の魔力?」
栞の言葉よりもオレは別の部分が気になった。
これは経験の違いかもしれない。
魔法力はどんなに枯渇状態になっても、回復量に違いはあるが、生命力が残っている限り、回復が始まらないことはないはずだ。
少なくとも、オレにはそんな経験がなかった。
何度か枯渇状態に追い込まれたことがあるが、どんな状況、体力でも、魔法力の回復は確実に始まっていた。
『少し前まで、その肉体にあった今代の聖女の魔力と神力にちょっと別種の神力が混ざっていたからね。そのため、体内を巡る魔力がいつもと異なる性質になっているんだよ』
体内魔気が変化したってことか?
だが、今、感じているのは、間違いなく栞の気配だ。
ここで発見した直後はどうだった?
気配よりもその姿の衝撃の方が強かった気がする。
『ある程度、魔法力が体内に残っていれば多少混ざったところで、それでも回復できるんだけど、今回は完全に枯渇してしまっていたからね。肉体が魔力の変質を感じ取って慣らすことを優先しちゃって、魔法力の回復に時間がかかっているんだよね』
他の人間の魔力が干渉しているようなものか?
その結果、魔法力回復の機能を阻害しているってことは分かる。
魔法封じをされた状態に近いかもしれない。
「別種の神力?」
栞はそこが疑問だったようだが、それが何であるかは考えるまでもないだろう。
あの時、あの場にいた神力所持者など、栞以外では一人しかいないのだから。
『ああ、別種の神力は、あの紫の坊やの物だよ。接触した上に、神への言葉……、祝詞を合唱したせいだろうね。その時、ちょっと混ざったみたいなんだよ』
混ざった……。
体内魔気の感応のようなものだと思うが、その表現は嫌だった。
「ライトは無事なんですよね?」
そう言えば、栞はあの男があの後どうしたかを知らなかったか。
倒れた上に拉致られているからな。
オレはこの時、踏み込むべきだったのだ。
ここから先、精神的にかなり疲労すると分かっていたら、踏み込んでいた。
だが、もう遅い。
全てはこの一言から始まってしまったのだから。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




