忘れられないこと
【兄貴が言ったことは至急忘れろ。良いな?】
九十九からそんな紙を突き付けられた。
目の前すぎて、却って、今はその文字が見えないが、突き付けられる前にそんな感じの文字が並んでいた気がする。
『忘れろと言われても……』
簡単に忘れられることでもないだろう。
彼だって、それは分かっているはずだ。
わたしは今、衣服を身に着けていない。
謂わば、露出狂の痴女である。
いや、好きでこんな状態なのではないのだけど。
そして、九十九はうっかりそれを見てしまったから、まあ、殿方の大変な事情になったらしい。
すぐに彼が退避してしまったから、わたしはその現場を見ていない。
でも、雄也さんから説明されて、九十九がそんな状態になっていたことは理解した。
彼からすれば、わたしに知られたことは恥ずかしいことなのだろう。
わたしからすれば、いろいろ思うところはあるのだけど、不意打ちなら、ちゃんと女として見られることは理解した。
『九十九……』
わたしが声を掛けると、九十九がこちらを向く。
『とりあえず、わたしは事故だと理解しているから、お互いに忘れよう?』
多分、それが一番、良い。
九十九はわたしの裸を見たことを忘れ、わたしはその結果、彼が大変なことになってしまったらしいことを忘れる。
何もなかったことにすれば、これまで通りでいられるだろう。
【お前はそれで良いのか?】
九十九は、わたしにそう書いた紙を見せる。
今度は近くない。
『今回は本当に不幸な事故だからね。九十九は何も悪くないよ』
これは双方にとって、不幸な事故だ。
だが、彼は納得した様子がない。
困った。
どうすれば良い?
そんな風に互いに一歩も退く様子がない時だった。
九十九が何かに気付いて、顔をそちらに向ける。
わたしもそれに釣られるようにして、同じ方向を見た。
『あ……』
思わず、小さな声が出た。
先ほどまで、湖に潜っていた雄也さんが姿を見せる。
濡れた黒い前髪を右手で掻き上げるその仕草は、まさに、水も滴る良い男ってやつだろう。
ちょっと自分の中にあるナニかが刺激される。
『おかえりなさい、雄也』
嬉しくなってわたしが声を掛けると、雄也さんがこちらを見て笑ってくれた。
九十九がここに戻ってきて、わたしに謝りだした後、雄也さんはそこの湖に潜った。
以前、湖の底に固定されていた魔石に、彼らの父親の気配がしたことを、九十九はちゃんと報告していたらしい。
そのため、気まずい状態で九十九とわたしは残されてしまったのだ。
さらに、声が届きにくいこともあってか、わたしからの言葉も上手く伝わっていないようにも思える。
わたしのもどかしい気持ちは、九十九にも伝わっていたのだろう。
彼も、どこか暗い表情だったから。
だから、雄也さんが戻ってきた時、本当に救世主に見えた。
周りのミタマレイルの花が光っていることもあって、幻想的なこともあっただろう。
いや! これは、雄也さんの魅力が大爆発! ってことなったのかもしれない。
ああ!
今、切実に絵が描きたい!!
こんな衝動、久しぶりだ!!
ワクワクが押し寄せてくる!!
ローダンセに行ってからも絵は描いていた。
でも、図鑑の写真や図を写すことが主だったためか、自分の好きな絵は描くことができなかった。
一人になる時間がなかったわけではないけれど、どこか自分の心に余裕がなかったということもある。
やはり、時間と心に余裕がないと、楽しんで絵を描くこともできないようだ。
いや、時間に余裕がなくても、絵は描けた。
テスト前とか、テスト中とか、授業中とか、絵って妙に描きたくなる時があるよね?
同士、求む!!
そんなアホなことを考えていたためだろう。
わたしの目の前にひらりと紙が下りてくる。
【今のお前に渡せる紙と筆記具はないぞ】
『そうだった!!』
思わず叫んで、その場に崩れ落ちる。
悔しい。
こんなに素敵なモデルを前に、今のわたしは……、無力だ。
『でも、今の雄也は良かったと思わない?』
そう言いながら、わたしは、身体を起こして体勢を立て直した。
さっきの雄也さんを見て、心揺らされない人間がいるだろうか? いや、いるまい!!
それは弟である九十九にも分かってもらえると思う。
いや? 分からないかな?
弟だから見慣れているだろうし、何より、彼も負けていない。
ああ、わたしの護衛たちは本当に魅力的だ。
だけど、その魅力的な護衛の一人は……。
【見えそうになるから、あまり動くな】
割と、残念な言葉をわたしに書いて見せた。
見える?
自分の視線を下にずらして、気付く。
今のわたしは痴女……、もとい、裸だったことに。
先ほども興奮するあまり、立ち上がっていたら、いろいろアウトだった。
素直で真面目な護衛は、それを指摘しただけ。
彼は何も悪くない。
それでも……。
『えっち!!』
思わず、そう叫ばずにはいられなかった。
いや、どう考えてもこの場合、変態なのはわたしの方なんだけど!
【アホか。本当に変態ならいちいち指摘しねえよ】
だが、わたしの叫びを物ともせずに、九十九はそう書いた。
『確かに!!』
わたしは両手を打った。
九十九はできるだけ見ないようにしてくれているし、ちゃんとそれを伝えてくれた。
本当にえっちな殿方なら、わざわざ教えてくれないだろう。
少なくとも、わたしの裸を見て、「発情期」でもないのに九十九は反応してしまったのだから、彼自身は女性に興味がないわけでもないことも分かっている
それでも、九十九はわたしに注意してくれる人なのだ。
『わたしの方が動きに気を付けなきゃいけないね。ちょっとだけ、注意しておく』
わたしが反省してそう言うと……。
【大いに注意してくれ】
九十九はそう書いてくれる。
うん、わたしの護衛は真面目で良い人だ。
満足してそう頷くと、九十九はさらに変な顔をした。
だけど、雄也さんが近付き、そのまま二人は会話を始める。
その声は全くわたしには聞こえない。
こんなに近くにいるのに。
そのことが酷く淋しい。
人間って贅沢だ。
独りだった時は、姿を見ただけで嬉しかった。
声が聞こえなくても、二人の顔を見ただけで安心できたのだ。
それなのに、今度は声が聞きたくなっている。
だが!
声が聞こえなくても、二人を想像することはできる。
二人の美声は、わたしのこの耳にしっかり張り付いているのだ!!
多分、九十九が雄也さんに上着を着るように言ったんだろうな。
雄也さんがパーカーを羽織り始めたから。
雄也さんの水着姿もその上にガウンを着た姿も大聖堂で見たことはあるけど、今回はパーカーだった。
フード付きの上着って、なんで、可愛く見えるんだろうね?
その雄也さんが、こちらに来て……。
【栞ちゃん、そこにいる?】
わたしにそんなことを書いた紙を見せるものだから……。
『はい、結構なものを拝ませていただいております』
思わず、手を合わせて拝んでしまった。
いや、本当に眩しいぐらいなんですよ!?
周囲がミタマレイルの花で光っていることもあるけれど、雄也さん自身も光っている気がしてならない。
【結構なもの?】
そう書いた紙を見せながら、雄也さんが不思議そうに首を傾げる。
なんで、今日は、ちょっと可愛らしい路線なのでしょうか?
ちょっと幼く見えるパーカーマジック?
『明るい所で、雄也の半裸を見ました』
わたしが目の前にいる御仁にそう告げると、背後の九十九が焦ったような顔をした。
ああ、うん。
口にした後でちょっとえっちくさいって気付いたよ。
だけど、少し前に大聖堂のお風呂場で見た半裸姿とはまた違った魅力があるんですよ!!
あの時の雄也さんは、状況的に余裕がなかった。
だが、今の雄也さんは余裕がある大人の男性で魅力増し増しなのだ!!
いや、余裕のない雄也さんもこういろいろなモノを刺激されるような感覚はあったんですけどね?
【今は、そんなに明るくないと思うけれど】
だけど、雄也さんの方は、そんなわたしの様子を全く気にした様子もなく、そう答える。
確かに今は夜っぽい。
だけど……。
『ミタマレイルの花の光があります』
湖の周辺に咲き誇る夜だけ光る不思議な花がある。
勿論、そんなに明るいものではない。
だけど、その光は、この森の雰囲気と相まって、幻想的な光景を演出してくれているのだ。
【もっと明るい所で、じっくりこの身体を見たいならそれでも構わないよ?】
ぬ?
どういうことでしょうか?
【栞ちゃんが望むなら、弟とセットで全部見せても良いかな】
なんと!?
これは、もしかしなくても、モデルの申し出ってこと?
しかも、全部?
全部って……、全部!?
え?
本当に全部?
流石に、九十九が焦って雄也さんに抗議しているっぽいけど、何か言われて下を向いてしまった。
ひょっとして、こんな突然の申し出の理由って、先ほど九十九がわたしの身体を見たから?
九十九自身が気にしているだけでなく、雄也さんも気にしていたってこと?
でも、アレは事故だった。
だから、互いに忘れることにして欲しいと願ったわけだけど、雄也さんはその部分を聞いていないし、九十九自身も納得した様子はなかった。
そして、かなり心惹かれる申し出でもある。
よっぽどのことがない限り、わたしは殿方の裸体を拝む機会はないだろう。
しかも、極上のモデル!
それも二人!!
そこで、全く揺らがない絵描きは絶対にいないと思う。
だけど……。
―――― シオリ嬢
わたしを「妻として愛することはできない」と、あの人はそう言った。
だけど、それでも、尊重され、かなり大切にされていることは鈍いわたしでも分かっている。
それなら、やはりこの申し出を受けてはいけない。
そこに浮気心とかが全くなくても、他の男性の裸をじっくり、隈なく見たとか聞いたら、良い気分にはならないと思う。
『あ~、心惹かれる申し出ではありますが、それについては辞退します』
だから、わたしは、揺れる心を隠して、雄也さんに向かってそう返答するのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




