視界に入る
ずっと、この場所で誰かに呼ばれている気がした。
寂しそうで、切なそうで、聞いているだけで心が苦しくなりそうな声で。
―――― キミを連れて行くことはできない
この場所でそう言ったのはダレだったか?
―――― オレのことは忘れてくれ
愛していると言ってくれたその口でわたしに別れを告げたのは……。
本当は分かっていた。
あの人が戻る気なんてなかったことを。
だから、無理と分かっていても、連れて行って欲しかった。
嘘でもいいから、一緒に行こうと言って欲しかった。
それなのに、初めてあの人に言った我儘は、届かなかった。
嘘を吐けないあの人は、最後の最後まで、わたしに本当のことを言ってくれなかった。
死ぬ気だったのに、それを口にすることなく、去ってしまった。
これはそう、もう誰も知らない遠い昔の物語。
そんなことを思い出していたためだろう。
わたしは、自分の状況を忘れていたのだ。
だから、目を開けた時、最初に視界に入った暗闇に、恐怖を覚えてしまった。
また、置いて行かれたと錯覚してしまったのだ。
彼らはいつだって、わたしを待っていてくれたのに。
『嫌だ!!』
そう思って飛び起きて、目に入ったのは鮮やかな緑と……、黒い瞳。
『あれ?』
それが何であるか?
そして、今の状況を理解するよりも先に、その黒い瞳の持ち主が、上から下に視線を動かした後、一気にその顔を朱に染めて……。
『あ…………』
這う這うの体というのは、こういう時に使うのだろう。
彼にしてはバタバタと珍しい動きをして、そのまま、姿を消してしまった。
いや、この場合、消えたいのは、わたしの方ではないのだろうか?
今、わたしは何故か、服を身に纏っていない状態だった。
そんな姿でいる時に、何故か、九十九がここにいたのだ。
いつ、来たのかも分からない。
いや、この場合、いつ来たのかは何も問題はないのだ。
問題は、今、思いっきり見られたことである。
あの視線の動きから、今のわたしの姿を、顔から胸までしっかり見られたことは間違いないだろう。
しかし、わたしは何故に布団に埋まっているのだろう?
それも比喩表現ではなく、本当に布団からわたしの胸の下部から上の部分が突き出ているような状態なのだ。
だから、下半身はセーフ!
全部は見られていない!!
だけど、そのまま、九十九は転がるように逃げ出したのだ。
しかも、何も弁明も弁解もないままに。
後に残されたわたしはどうすれば良いの?
この恰好のまま、放置ってどういうこと?
わたし、すっぽんぽんなんですけど!?
そんな状態なのに、わたしの服のほとんどを持っている人が逃げ出したんだよ?
まさかの全裸放置とか、事件でしかない!!
いや、わたしを全裸にした犯人は九十九じゃないってことは分かっているのだけど、それでも、結構、酷くない?
主人を全裸のまま置き去りとか、護衛の所業とは思えない!!
拳を握って、そう思った時だった。
その場に、もう一人いたことに気付く。
思わず、反射的に身を引いて、自分の胸を両腕で覆い隠した。
先ほど、わたしから逃げ出した黒髪の護衛とは別の黒髪の護衛が、ぼんやりとした視線をこちらへ向けていたから。
いや、少しだけその視点はわたしからズレている気がする。
これって、雄也さんにはわたしの姿が視えていないってことだろうか?
じゃあ、さっきの九十九も?
いや、九十九の視線は間違いなく、わたしを捉えていた。
それに、視えていなければ、あんな風に逃げる理由もない。
あんなに慌てふためきながら逃げる九十九って、初めて見た気がする。
そんなに見たくないものだった?
いや!
その前に九十九は顔を真っ赤にした!
だから、逃げた理由は違うだろう。
そうなると、わたしから怒られると思った?
まあ、状況的に仕方ないよね?
でも、九十九が逃げ出さなければ、わたしは怒るよりも先に、悲鳴を上げていたとは思う。
一度、上半身に限れば、九十九が「発情期」の時にガッツリ見られているし、その時、素肌にも触られているし、それ以上のことも、されてしまっている。
確かに初めて見られたわけではないのだけど、それでも、やはり、不意打ちで裸を見られたら、叫びたくなるのは乙女心だろう。
わたしは一応、女なのだから。
だが、そんな風に状況を把握する前に、逃走されてしまったのだ。
わたしは、呆気にとられるしかなかった。
でも、一体、どうすれば良いのだろうか?
雄也さんは近くにいてくれるけれど、わたしが視えていないみたいなのだ。
何か話しかけてくれているような口の動きをしているけれど、わたしはどこかの護衛兄弟のように、唇の動きを読んで相手の言葉を理解する読唇術など持ち合わせていない。
そして、雄也さんにはわたしの今の姿が視えていないと分かっていても、なんとなく、布団に潜ってしまう。
いや、雄也さんなら九十九みたいな反応はしないって分かっていても、やはり、異性に自分の裸を見られるのって嫌だよね?
同性だって落ち着かないのに。
それにしても、この状況って何だろう?
布団を突き抜けているってことから、わたしに実体がないってことは分かる。
そうなると、九十九だけに視える幽霊みたいなもの?
あれ?
つまり、わたしは死んじゃったってこと?
いや! それはない。
モレナさまは、わたしの命を助けるために、精霊界へ連れてきたって言っていた。
だから、そのまま死ぬなんてことはないと思う。
人を揶揄うことは好きだけど、モレナさまは嘘を吐けない人だということも、わたしはちゃんと知っているから。
『わたしは、モレナさまを信じる』
そのモレナさまは言っていた。
この精霊界は、人界を映す鏡のような世界だと。
鏡に映ったモノは、見ることはできても触れることはできない。
鏡面自体に触れることはできても、それに映し出されている鏡像には触れることはできないのだ。
そして、同時にこうも言っていた。
空間の層とやらがずれている状態だから、ここに来た人間の姿が見えても、普通は向こうから視えないって。
そうだ。
わたしはまだ精霊界にいる状態だから、人界の人間には視えないのだ!!
あれ? でも、同じ人間であるはずの九十九には、なんで視えたの?
―――― でも、神眼所持者とかなら分からないかな
え?
ちょっと待って?
九十九は法力の才はないって……。
違う!!
神眼と法力は違うものだった。
わたしは法力なんて多分、ない。
でも神力は間違いなくある。
神眼を持つ人間に法力所持者が多いだけで、神眼を持っているからって、絶対に法力遣いであるはずがないのだ。
それに、九十九の母親は元正神女だとも聞いている。
神官、神女の中には、精霊族の血を引いている人も少なくない。
大神官である恭哉兄ちゃんだって実はそうだったし、長耳族の血を引くリヒトにも法力の才はあった。
それならば、九十九の母親も精霊族の血を引いている可能性もあるのだ。
法力は遺伝するものではないらしいが、種族の血はしっかり受け継がれていく。
九十九に、もし、その神眼があったら……?
でも、九十九本人は、以前、精霊を視ることはできないとも言っていた。
ううっ、訳が分からないよ。
すぐ近くにいる頼りになる御仁に声を掛けたい。
でも、聞こえないだろうね。
―――― まず、彼らの名前を呼びなさい
不意に、恭哉兄ちゃんの言葉を思い出した。
珍しく強い口調だったあの言葉を。
―――― 感応症が働き合うほど繋がりが強ければ、脳に直接届きやすくなります
さらにそう続けられた。
あの「音を聞く島」で嘗血をする前から、雄也さんとは感応症も働いていたと思う。
近くにいても、居心地は悪くなかったから。
九十九とは別種の落ち着きがあったと思う。
そうなると、九十九ほど意識していなかったけれど、わたしは雄也さんとも感応症が働いていたのだろう。
考えてみると、雄也さんもワタシの幼馴染なのだ。
それはおかしくない話だった。
それなら、呼んでみようか?
意識がなくても、魔名を呼ぶことは魂への呼びかけなのだという。
それが聞こえなくても、届かなくても、わたしががっかりするだけの話だ。
『雄也さん』
わたしはその名前を口にした。
すると―――― ?
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