非日常感
「酷い目に遭った」
主に身内のせいである。
いや、未熟なオレが悪いのだけど。
もし、この場に栞がいたら、どうなっていただろうか?
今、栞の姿は魔石を使った結界の中に在る。
さらに、掛けられた布団にも結界を施しているので、オレたちの魔法程度では布団が吹っ飛ばないようにしていた。
あれから、何度も兄貴から地に叩きつけられた。
いや、やられっぱなしではないのだ。
兄貴自身を地に叩きつけてもいる。
だが、勝率は以前よりもずっと下がっていた。
それだけでも、光属性魔法限定の勝負にすると、明らかに兄貴の方に分があることが分かる。
いや、恐らく、光属性に限らず、何の属性でも一つに限定してしまうと、兄貴の方が強くなってしまうう気がした。
オレは使える魔法の種類だけならば、兄貴に負けていないと思っている。
そうなると、単に、使い方が悪いのだろう。
オレの方が、魔法を応用できる幅が狭いのだ。
水尾さんからは、オレの魔法は種類が多く、器用だとよく言われるが、それはあの人が、兄貴が魔法を使っている姿を見ていないためだろう。
そして、それらをどれだけ臨機応変に扱えるのかも知らないからだと思っている。
そんな兄貴は、今、城下の書物館へ行っている。
以前のオレの話から、城とは別の書物があることを知ったらしい。
意外にも、兄貴は城下の書物館に行ったことがなかったそうだ。
城の書物庫以上の情報はないと思っていたが、別方面の情報があったことを知って、行く気になったと言っていた。
その間、オレは栞が完全に隠されている布団を任されたのだが、落ち着かない。
兄貴がいる時は、本当に気にならなかったのだ。
だが、いざ、この場に残されてしまうと、嫌でも意識してしまう。
オレの真横に在る、この布団の中に栞が何も身に付けていない状態で眠っていることを。
布団の中という言葉が比喩ではない点がなんとも言えない。
穏やかで眠っているような顔だったが、本当に眠っているかも分からない状態である。
目を閉じて、実は意識だけはある可能性もあった。
だが、ここから何をすれば実体化して目が覚めるかも分からないのだ。
加えて、夜でもないのに光ったままの、このミタマレイルの花の存在も気になっている。
これまで、何度もこの花が咲いている状態は見たが、昼に光っている状態を見たのは初めてだった。
間違いなく、栞の存在が影響していることは分かるが、何故、そうなっているのかが本当に分からない。
城下の書物館にも、城内の書物庫も行ったが、そこにミタマレイルの花についての記述がある書物はなかった。
栞の識別結果が一番、詳しかったぐらいだ。
「オレには分からないことだらけだ」
思わず、情けない声が零れる。
ここに誰もいないせいだろう。
いや、真横の布団の中に栞はいるのだが。
しかも、全裸で。
その非日常感が、ますます、現実味をなくしていく。
なんで、そんな恰好なのだろう?
少なくとも、あの「暗闇の聖女」が連れ去った時点では、栞は、兄貴が見立てたボールガウン姿だったはずだ。
そうなると、「暗闇の聖女」が脱がしたことは間違いないだろう。
いや、それ以外の人間が脱がしていてもかなり困るが。
そして、恐らく大神官はそれを予測していたのだと思う。
兄貴は慣れているけれど、オレが「正視できない姿」という言葉はそういう意味なのだろう。
少しだけ見てしまった栞の姿は、綺麗だったと思う。
「発情期」の時は、そう思う余裕すらなかった。
あの時も、綺麗だと思った覚えはあるが、同時に、それを穢したくなる気持ちがずっと強かったのだ。
自分の手や口、舌がその肌に触れることによって、これまでに見たこともない反応を返す栞をもっと見たいとも思った。
もう二度と見ることはできないと知っていたから。
それが、今は……?
今は、全く穢したいとは思わない。
いや、正直、見たい気持ちはあるし、触りたいとか思ってしまうし、それ以上のこともしたいとは考えるけれど、そこはその、健康的な青年男子としては、真っ当な思考回路だろう。
だけど、そんなことをして、嫌われてしまう方がずっと怖いのだ。
ぼんやりと布団を見る。
動くこともなく積まれた布団。
その下ではなく、中にいる栞の姿を幻視する。
この状態はいつまで続くのだろう?
そう思いつつも、どこかで、このままなら良いと思ってしまうのだった。
****
どのくらい時間が過ぎただろうか?
朝に栞の姿を発見し、それから、模擬戦闘を繰り返した後、昼食を食べてから出かけた兄貴は、まだ戻らない。
そろそろ夕暮れだろう。
ミタマレイルの花の光が増えた。
よく見ると、光っていたのは布団の周囲だけで、それ以外の場所で咲いていた花は、今から光り出すようだ。
読んでいた本を閉じて、布団の様子を見る。
流石に捲るようなことはしない。
右腕だけが見えている状態なので、その腕の様子だけ見ようと思った。
人間、寝ている時は寝返りを何度もするものである。
実際、いつもの栞なら、寝返りを繰り返すし、寝言だって口にする。
だけど、今はそんな気配もなく、身動ぎ一つしないのだ。
呼吸確認はできない。
どうしても、肺や腹の動きを見ることになるから。
栞の右腕に向かって、手を伸ばす。
兄貴は、視えないこともあっただろうが、その右腕の場所を伝えたけれど、触れなかった。
それでも、気配は感じたらしい。
オレはこの距離で気配は感じている。
さらに手を伸ばすと、風属性の塊に……、いや、栞の気配に触れた。
これは、人体の感触ではない。
だが、明らかに栞の気配だった。
濃密な大気魔気の中に、境界線を引いたかのように、ここだけ、種類が違う風属性の気配がある。
これが栞だ。
それが分かることが嬉しい。
「ここにいるんだな」
思わず、そう呟いた。
この空間だけ、ぬるま湯のように、少しだけ温もりがある気がするのは、栞の腕がオレの眼には視えているせいだろうか?
「ニヤけ面」
「うるせえ」
背後に忍び寄っていた兄貴の声に、反射的に言葉を返す。
兄貴が戻ってきていたのは気付いていた。
「言っておくけど、布団にすら触ってねえからな」
「分かっている。仕掛けが発動していないからな」
……信用されていたわけではないらしい。
何を仕掛けていた?
だが、それを確かめることはできない。
「変わらず……か?」
「そうだな。この腕も全く動いていない」
まるで、本当に人形のようだ。
だが、人形にこんな気配はない。
物体に魔力を付加したり、魔法を付与したりしたところで、やはり、生物のソレとは異なるのだ。
「主人の血は通っているか?」
「肌の色は普段と同じように見える。ただ脈が計れないから、体内を血液が巡っているかは判別のしようがない」
栞は色が白い。
だから、皮膚の下を通っている血管が見えやすいのだ。
動脈と違って、静脈は皮膚に近いため、青い血管が透けて見える。
この腕が人形と違うものだと思えるのも、その血管が見えているからだろう。
「とりあえず、飯にするか」
「あ、オレが……」
オレは自分が準備すると言いかけて……。
「お前は主人の様子を見てくれ。残念ながら俺には視えないのだからな」
兄貴に止められる。
兄貴も料理ができる人間だ。
やはり、それは情報国家の国王陛下が口にしたとおり、母親の血なのだろうと思う。
オレ自身は母親の料理を口にしたことがなかったが、兄貴はあったのだろうか?
そして、兄貴がオレを止めたのも、今の栞の様子を見ることができるのはオレしかいないからだ。
それ自体はおかしなことではない。
だが、見えるのに触れることができないのは意外と苦痛だと思った。
いや、ここのところ、ずっとそうだった。
見えるのに、触れられない。
こんなに近くにいても、触れてはいけない。
それは分かっているけれど、手を伸ばしたくなる気持ちは止めることができない。
そんな気持ちを、ローダンセに行ってからずっと味わっていたのだ。
分かっている。
これが最良だと。
栞自身も覚悟を決めて、兄貴もいろいろ呑み込んだというのに、オレがそれを壊すわけにはいかないのだ。
そんなことを考えていたせいだろう。
ずっと微動だにしなかった栞の右腕が微かに動いたことにオレは気付かなかった。
「あ……?」
そして、そんなオレは忘れていたのだ。
寝ている人間が、目を覚ました時、最初にどんな行動をとるのかを。
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