存在の確認
「それにしても、不可解だな」
兄貴が、「モカコーヒーに似た味の飲み物」を口にしながらそう言った。
尤も、兄貴が記憶している味と香りとは少し違うらしいが。
モカはかなり種類が多い。
イエメン共和国にあるモカ港から船積みされたコーヒー豆が由来で、この時点でイエメン産とエチオピア産と産地が分かれている。
山の一部地域で育てられたものしか認めないブルーマウンテンコーヒーとは対照的だ。
さらに無限のブレンド配合があるため、モカブレンドと言われたら、それぞれ抱く味と香り、イメージはかなり変わるだろう。
いや、そんな話はどうでもいい。
「何がだ?」
オレも同じ物を口にしながらそう確認する。
「知れたことだろ?」
それならば、栞のことだろう。
だが、栞に関することで不可解なことなど山とあるのだ。
そのどれを確認したいのかが分からない。
「お前のことだ」
「あ?」
オレのこと?
あまりにも意外な方向の言葉を口にされた気がする。
「初めてでもあるまいし、あそこまで取り乱すものでもないだろう?」
「何の話だ?」
「主人が寝ている場でいちいち無様に騒ぐなという話だ」
その言葉に少し、かちんと来た。
兄貴からすれば、本当に何でもないことだろう。
だが、オレからすれば、アレだけでも大変な事態だったのだ。
自分が惚れている女が、森の中で、全裸のまま横たわっている。
その一文だけでも、大事件でしかない。
幸い、一目見て、事件性はないと思うことはできた。
目を閉じている栞の顔も身体も綺麗すぎたし、何より、あの「暗闇の聖女」が守っているのに、事件に巻き込まれるなんてことはあり得ないだろう。
だが、事件だとか事故だとか、そこではないのだ。
「無様で悪かったな。まともに見たのが初めてだったんだから仕方ねえだろ?」
「あ?」
オレの言葉に兄貴が怪訝そうな顔をする。
「栞に限らず、女の全裸を生で見たのなんて初めてなんだよ」
ガキの頃は知らん。
シオリと一緒に風呂に入れられた覚えはあるが、その頃、そんなにしっかり見た記憶はない。
3歳から5歳の期間だ。
その年代に性差を意識するガキなんて末恐ろしいだけだろう。
ここで、生以外ならあるのか? と突っ込んではいけない。
人間界には写真やVTRと呼ばれるものが数多く存在し、人間界の男子中学生という生物は、大多数がそう言ったモノに興味があるとだけ言っておこう。
「お前、『発情期』はどうした? 最後まではしていなくても、途中までは行ったのだろう?」
嫌なことを穿り返すなよ。
「上半身しか見てねえ」
下半身はまだ下着までだった。
それでも十分すぎたけどな!!
「ついでに言っておくが、初めての方は、本当に記憶にない」
悲しいぐらいに記憶にない。
いや、別に良いんだけどさ。
「アリッサム城は? 女たちに止血栓を使ったのはお前だと聞いていたが?」
「発見した時は、部屋の入り口からすぐに布を被せたから、まともに見てねえ。それ以外も基本的に目隠ししていたって伝えたはずだが?」
あの場所は、ずっと嫌な予感がしていたから、警戒していたこともあった。
最初の部屋は特に酷かったから、布を投げ付けてすぐ、水尾さんを追い出したのだ。
そして、すぐに目隠しをしてずっと対処していた。
欠損していた女たちに対する手当も、基本は目隠しをして、その気配を頼りに治癒を施していたのだ。
それでも、どの女に対しても、止血栓を使った時の嫌な感触は忘れられない。
まあ、つまり、まともに見たのは、先ほどの光景が本当に初である。
嬉しくない。
いや、ちょっとは嬉しいけど、状況的には素直に喜べない。
「阿呆極まりないな」
「あ?」
今、酷いものを極めさせられた気がする。
「いや、お前らしいと言っただけだ」
「せめて、文字数ぐらい合わせていただけませんかねえ?」
まあ、変に突っ込んでも「半童貞」と、揶揄われるだけなんだろうけど。
「どちらにしても、検証しなくてはな」
兄貴はコーヒーカップを置くと、布団の方へ向かう。
「あ? 検証?」
何をする気だ?
「俺には主人の姿が見えん。だが、お前はここにいると言った」
「いるからな」
これは実体ではない、映像のような物だと思う。
何も全裸である必要はないと思うが。
だが、それでも何故か気配はあるのだ。
ここに来てそれがはっきり分かった。
いや、姿と気配しかないとも言える。
これは、まるで残留思念が明確な形を作ったかのようでもあった。
残留思念は基本的に、人の意識のようなものであるため、半透明だったり、全体的な輪郭がぼんやりしていたり、人の形ですらないモヤだったりする。
だが、その布団に文字通り埋まっている栞は、そこに肉体があるかのように形作られていて、一瞬、本物だと錯覚してしまった。
だから、迷いもなく布団を投げ付けたのだが。
「お前の言葉をそのまま鵜呑みにすれば、残留思念のようなモノだと思うが、それならば、俺に視えない理由が分からないな」
残留思念は誰かが抱いた強い想いが、人や物、土地に残った魔力だと言われている。
だから、ある程度、魔力を視る眼があれば、視えるものだ。
だが、ここにいる栞の気配と姿はオレにしか分からないらしい。
栞を前にしたオレの反応よりも、こっちの方が不可解と言えば不可解だろう。
「そのため、少々、検証をしたい。付き合え」
「検証?」
この場合の検証って何をする気だ?
「今の主人に触れられるかどうかだ」
「ああ、なるほど……」
印付けした布団に含まれる魔力など、そう多くはない。
だが、人間は体内魔気という魔力が体内に多く含有している。
それならば……。
……。
…………?
……って、触れる?
「触れる?」
思わず、声に出ていた。
「接触が一番、この世界に在るか分かりやすいだろう?」
兄貴は「居る」ではなく、「在る」と表現した。
いや、そこじゃなくて……。
「待て? それは、その状態の栞に触れるってことか?」
「検証だからな」
兄貴には栞の姿が視えていない。
だが、オレには視える。
その意味は……。
「捲るなら、手前を数センチだけにしろ」
「俺には視えないのだが?」
「オレには丸見えなんだよ!!」
兄貴を主導にしては危険だということだった。
「いや、待て! その布団はオレが動かす!!」
そう言いながら、兄貴を押しのける。
栞を埋めている布団は7枚。
誰がこんなに掛けたんだ?
オレだよ、オレ!!
流石に7枚を端だけ捲ることはできない。
まず2枚だけ下ろして、そこから上の5枚を崩さないようにずらして、栞の右腕だけが出るようにした。
2枚の羽毛布団から突き出している右肩から腕だけの状態は栞に言わせれば「ちょっとしたホラー」、あるいは「事件性を思わせるサスペンス」だろう。
オレから明らかに女の細腕にしか見えないソレは、そういった不気味さも、妙な艶めかしさを感じることはなかった。
栞の腕であることは間違いないのだが、人間の腕と言うよりも、どこか作り物の……、人形のように見えるからだろう。
「布団の、この場所から栞の腕が生えている」
オレは指で差し、布団を突き抜けている栞の腕の位置を教える。
できれば、地面に何らかの印を付けたかったが、この森ではそれはできない。
傷を付けようとしても、自己再生する森だ。
地面に何か書くことはできない。
いや、地面に何か書かなくても、紐か何かで大まかな位置づけすることは可能か。
だが、オレの言葉を聞いて、兄貴が奇妙な顔をしている。
「兄貴?」
「いや、主人の腕が布団から生えているという表現が、衝撃的だっただけだ」
「『右肩から先が布団から突き出ている』という表現の方が良かったか?」
だが、この状態は「突き出ている」というよりも「生えている」の方が近いと思ってしまったのだから、仕方がないだろう。
突き破っているわけではなく、本当に元からそうであるかのように布団から出ているのだから。
「お前は、触れないのか?」
「あ?」
兄貴の言葉の意味が分からず、短く聞き返す。
「いや、余計なことだったな」
そう言って、兄貴はオレが指定した場所に手を伸ばす。
あまり、見たい光景ではないな。
まあ、腕しか見えていないから気分的にはかなりマシだろう。
「風の気配がここだけ不自然なぐらい濃密だな」
もともとこの城下の森は、風属性の大気魔気が濃密である。
それこそ、各国で最も濃いはずの城内並と言っても過言ではないだろう。
だから、改めて兄貴がそう言った意味が分からなかった。
「なるほど。確かにお前が言うように、ここに主人がいるようだ」
「まだ腕に届いてねえぞ?」
やはり、兄貴にはこの腕が視えていないらしい。
「触れることができなくても、ここにいると知れるだけで良い」
「それは、オレの言葉を疑っていたってことか?」
「阿呆。お前が彼女のことで誤魔化すことはあっても、嘘は言わない。それぐらいは分かっている。ただ、自分の感覚でも存在を確認したかっただけの話だ」
兄貴がオレを疑っていたとは思っていない。
だが、なんだろう?
なんとなく、オレも兄貴の意思を確認したくなったのだ。
栞の気配を感じ取った瞬間の兄貴の驚きとその直後の安堵した顔を見てしまったからかもしれない。
それに「検証」と言ったからには、もっといろいろ確認するかと思っていたのだ。
だが、気配を感じただけで満足した兄貴がよく分からない。
いつもなら、もっといろいろな角度から調べるだろうに。
「まあ、暫くは様子見だな」
そう言った兄貴はいつもと変わらなかった。
だが、そのこと自体に違和感を覚えたのは何故だろうか?
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




