信頼の利用
「臭え」
オレは開口一番、正直な感想を口にする。
「もう少し、言葉を選べ」
目の前の黒髪、黒い瞳の男は、心底嫌そうにそう言った。
「事実だ。まさか、その状態で主人に会う気か?」
オレがそう言うと、黒髪の男……、兄貴は少し自分の周囲を見回して……。
「そんなに分かるか?」
困ったように笑った。
「分かる」
寧ろ、それだけの気配を漂わせてなんでバレないと思うのか?
「主人にも確実にバレるぞ。兄貴以外の自己主張が強すぎる」
「彼女は気にしない」
「いつもならな? だが、その気配は、馴染みのある人間に少しだけ似ている」
栞は、基本的に兄貴の行動に口を出さない。
ただ「無理するな」と、何度も念を押す。
それはオレに対しても同じことだった。
だが、今回のソレは明らかにバレると良い気はしないだろう。
「そうか……」
流石に兄貴も気まずい顔になった。
良くないことをしている自覚はあるらしい。
「主人に『嘗血』させただろ? わざわざ自分の気配を分かりやすくしてしまったんだから、その危険も考えろ」
「気付いていたのか?」
「いつからかは知らん。だが、ローダンセに行ってからだとは思っている」
栞が、以前よりも兄貴の気配に気付きやすくなったから。
「だが、お前もそうだろう?」
ぎくっ。
「何のことだ?」
「この国からリプテラに戻った後だな? 主人も気の毒に。四六時中、お前の気配を感じるなど、俺には苦痛でしかない」
オレの方もバレていた。
だが、四六時中、オレの気配を感じているだと?
ちょっとニヤけそうになる。
苦痛という単語も聞こえた気がするが。
「だが、主人からの報告はなかった。いや、それ以上にお前の方が先なら、俺から申し出た時の反応も、もう少し抵抗がなかっただろう」
兄貴の目が鋭く光る。
「お前……、主人が気付かぬうちに血を含ませたな? いや、お前なら料理に混入することもできるのか。あの期間、円舞曲の練習のために、借りた管理者の別館で毎日三食準備していたからな」
「…………」
思わず閉口してしまった。
どうやら、バレバレのようである。
大聖堂で、大神官が栞と意識を繋いだ話を聞いた後、思わず、そうしたくなってしまったのだ。
オレの嘗血はまだ完成していなかった。
一方的に栞を傷つけ、その血を舐めただけだったから。
だから、もっと強い絆が欲しくなったのだ。
いや、だが、そんな毎日混入していたわけではない。
偶にだ。
本当に偶にだ。
万一、気付かれても、調理中のミスで誤魔化そうと思っていた。
「図星か。とんだ劇薬混入事件もあったものだな」
「劇薬って言うな」
「お前の血液など混入して、料理が変化したのではないか?」
「そんなヘマはしない」
オレがそう言った時だった。
「認めたな?」
「あ……」
劇薬発言までは問題なかった。
だが、その後の流れは確かに、料理に異物混入を認めたことになる。
「主人の許可も得ずに、こそこそとみっともない真似を……」
さらに兄貴の目が細められた。
この様子だと兄貴はちゃんと栞の許可をとったのだろう。
だが、どういえば良かった?
何をどんな言い方をしたところで、「オレの血を舐めてくれ」なんて、ただの変態としか思えない。
兄貴なら巧い言い方もできただろうが、オレにそんな芸当などなかった。
「主人の信頼を利用して、無様な真似をするな。何より、後になって知れば、今ある信頼が根こそぎなくなるぞ?」
「分かってるよ」
バレなきゃ大丈夫だと思っていた。
だが、オレは兄貴が嘗血してもらったことに気付いたし、兄貴もオレの血が混ざった料理を食わせていたことに気付いたのだ。
もしかしたら、栞自身に気付かれている可能性もある。
見逃されているうちに謝罪した方が良いだろう。
それからオレは暫く、どう伝えるかを悩んでいた。
だから、すっかり忘れていたのだ。
いつの間にか、兄貴の件の方は有耶無耶になっていたことに。
****
「臭え」
いつぞやのように、銀髪碧眼にその姿を変えた弟が、開口一番、あまりにも正直すぎる感想を口にする。
「もう少し、言葉を選べ」
何を言いたいのかは理解できるが、その指摘の仕方は些か品がないと思う。
この男は、自分の兄も心無い言葉に傷付くことがある人間だということを、時々、本気で忘れていないか?
「事実だ。まさか、その状態で主人に会う気か?」
耳に痛い言葉を吐きながら、明らかに軽蔑するかのような視線を俺に向ける。
「そんなに分かるか?」
「分かる」
俺の問いかけに対しても、即座に回答する。
どうやら、人間界にいた時は見逃してくれていた弟も、今は看過できなくなったらしい。
「主人にも確実にバレるぞ。兄貴以外の自己主張が強すぎる」
「彼女は気にしない」
俺たちの主人は、基本、それぞれの行動に関して口を出さない。
ただ「無理だけは絶対にするな」と、何度も念を押す。
信用がないわけではないが、無理を重ねていないか、気になってしまうのだろう。
だから、余計に頑張ろうと弟が奮起してしまうことに彼女が気付いているとしたら、随分、強かになったものだと思えるのだが、残念ながら、主人にそんな意図はない。
純粋に心配してくれているだけだ。
「いつもならな? だが、その気配は、馴染みのある人間に少しだけ似ている」
「そうか……」
主人はこの世界に来て、魔力の封印を解放してから、少しずつではあるが、他者の気配に敏感になっている。
特に弟の気配に対する感覚は、俺よりも上だろう。
そして、俺に対しても、普通よりは鋭くなっている。
つまり、俺に、それ以外の気配が混ざれば、嗅ぎ取ってしまうのだ。
弟が気に掛けているのはその部分なのだろう。
セントポーリア国王陛下の気配に少しだけ似ている微弱な気配が俺から漂っているのだ。
それに気付いてしまった主人が、それを全く気にしないとは、確かに思えなかった。
そう思ってしまうのは、一種の自惚れかもしれないのだが。
「主人に『嘗血』させただろ? わざわざ自分の気配を分かりやすくしてしまったんだから、その危険も考えろ」
「気付いていたのか?」
「いつからかは知らん。だが、ローダンセに行ってからだとは思っている」
なるほど。
気付いていた……と。
そして、こいつがそれを指摘するなら、俺も遠慮は要らないと判断する。
「だが、お前もそうだろう?」
俺がそう問えば……。
「何のことだ?」
口調と表情こそ、そのままだが、身体のこわばりまでは誤魔化せていない。
「この国からリプテラに戻った後だな? 主人も気の毒に。四六時中、お前の気配を感じるなど、俺には苦痛でしかない」
俺がそう口にすると、弟は分かりやすく顔を緩めかける。
これは「四六時中、気配を感じる」という言葉に喜んだな?
単純な男め。
「だが、主人からの報告はなかった。いや、それ以上にお前の方が先なら、俺から申し出た時の反応も、もう少し抵抗がなかっただろう」
つまり、気付かれないように血を舐めさせるか、呑ませるかをしているはずだ。
このへたれな男は、主人から拒まれることを予想して、交渉するのを避けたようだ。
そして、こいつならソレが可能な立場にある。
「お前……、主人が気付かぬうちに血を含ませたな? いや、お前なら料理に混入することもできるのか。あの期間、円舞曲の練習のために、借りた管理者の別館で毎日三食準備していたからな」
「…………」
弟が言葉に詰まった。
どうやら、読みは外れていないらしい。
「図星か。とんだ劇薬混入事件もあったものだな」
「劇薬って言うな」
他者の血など、劇薬以外の何者でもない。
自分自身の血液ですら、飲み過ぎれば鉄分過剰摂取により、死に至るものなのだ。
だから、身体が毒物と判断して、呑まぬように口に入ると咽たり、吐き気を催すこともあると聞く。
それに血液など細菌の温床でもあるのだ。
他者の血液を少しでも口にすれば感染症などの恐れもあるから、普通は数滴でも落とさないように気を配る。
まあ、その辺りに関しては、この男が気を配らないはずもないから、そこまで心配はしていないが。
「お前の血液など混入して、料理が変化したのではないか?」
それについても全く心配はしていない。
この男が料理に関して、そこまで気の抜いた物を主人に食べさせるなんて微塵も思えないから。
それでも、あえて問いかけたのは……。
「そんなヘマはしない」
その言葉を引き出すためだった。
「認めたな?」
「あ……」
劇薬発言の受け答えまでは許容範囲だった。
だが、今の発言で、この男は自分で認めたことになる。
自身の血液混入した料理を作ったことを。
そして、それだけで十分だ。
「主人の許可も得ずに、こそこそとみっともない真似を……」
俺の言葉に、流石に罪悪感があるのか、弟が狼狽えている。
そんな表情をするぐらいなら、始めからしなければ良いだけだ。
あの懐が深過ぎる主人は、必要とあれば、多少のことは受け入れてくれる。
それが、普通の女性なら耐えがたいようなことであっても、理由を説明し、そのことに対して納得すれば、強い心で受け止めてくれるのだ。
そんなことは、この男が一番理解していると思ったが、主人への私情を自覚した途端、見えなくなったことも増えたらしい。
「主人の信頼を利用して、無様な真似をするな。何より、後になって知れば、今ある信頼が根こそぎなくなるぞ?」
「分かってるよ」
一度、失ってしまえば、もう取り戻せない。
それも、この男は分かっているのだろう。
だから、失いたくなくて、逆に保身に走ってしまうのだ。
一度は失いかけたのだから。
その気持ちは痛いほど分かるため、これ以上の追求は止めておいてやろう。
彼女に対して、いろいろ後ろめたい気持ちがあるのは、お互い様だからな。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




