ただ、運が良かっただけ
あまり広くはない部屋の中で、ぺらり、ぺらりと、紙をめくる音だけがする。
その間、オレは胃の痛くなるほどの緊張を強いられた。
今、大神官の手にあるのは、兄貴からの報告書だ。
挨拶の後、オレが口頭で報告をした後、改めて手渡したものである。
兄貴は挨拶の後、予定通り、すぐにセントポーリアに向かった。
その読む速度はかなり速い。
だが、一度では足りなかったようで、二度、三度と繰り返されている。
兄貴のように気になる部分に戻るのではなく、一度、最後まで読んだ後、再び、最初から読み返すという繰り返しだ。
だから、大神官はどこが気にかかっているのかも分からない。
オレの胃はもつだろうか?
「いつものことながら、栞さんには本当に驚かされますね」
三度、読み返した後、大神官は困ったように微笑みながらオレを見た。
「本来なら軽率な行動を窘めるべきでしょうが、今回は仕方がないというしかありません」
どうやら、栞の判断は、大神官の目から見ても、悪くはなかったらしい。
いろいろ言いたいことはあるだろうけど、それらを全て飲み込むことに決めたようだ。
「まさか、あの神珠をすぐに使う事態になるとも思っていませんでした。尤も、栞さんがあの方を見捨てられない以上、こうなってしまうのは当然の結果なのでしょうね」
つまり、悪いのは栞ではなく、あの場に現れた紅い髪の方らしい。
そして、栞が身に着けていた御守りに付いていたのは、ただの法珠ではなく、神珠だったようだ。
やはり、普通の珠ではなかったのか。
その神珠というのがどんなものかは分からないが、恐らく、法珠の上位版ってことなのだろう。
「この前、お会いした時に、神珠を混ぜていて正解でした。九十九さんからのお話と、これらの報告書を読んだ限りの判断となりますが、法珠だけでは、栞さんの魂を削っていた可能性はありますから」
改めて、危ない橋を渡っていたことを理解する。
魂を削ると言うのが、どれほどの事態なのかは正直、よく分からんが、その言葉から生命力を削るようなものだろうと推測できた。
大神官の機転のおかげで、栞は助かったのかもしれない。
「栞さんをお連れする際に、私の許へ来るようにお伝えしてください。この報告書によると、法珠も神珠も全て使い切ったようですから、補充しなければなりません」
「承知しました」
もともとそのつもりであったから、それは問題ない。
法珠のない御守りなど、ただの装飾品でしかないからな。
「しかし、『略拝詞』とは……。栞さんは、神式……、神道に明るい方だったのでしょうか?」
「母親が人間界の神社……、いえ、神職の娘だったと聞いております」
オレがそれを知ったのは割と最近の話だ。
千歳さんが、人間界で生まれ育ったことを聞かされたのは、人間界であったが、兄貴のようにその出自を確認するなんて思い至らなかった。
いや、兄貴の場合、別の目的もありそうだ。
だが、結果として、千歳さんの兄に会った上、今でもその人と交流さえしているという。
どんな人なんだろうな?
「人間界で育った栞さんにとっては、神に対抗する手段となったことでしょう。しかし……」
そう言うと、大神官は身体を少しだけ震わせる。
「まさか、人間界での神への信仰が、この世界の神に対抗する手段として使われるなど、ふふっ……、失礼、誰も考えなかったことでしょうね」
それは、今にも笑い出しそうな表情だった。
いや、これはしっかり笑っている。
それもかなり楽しそうに。
大神官のこんな表情は、恐らく、栞も若宮も見たことがないと思う。
いや、嬉しくない。
全くもって嬉しくない。
これで、そのまま高笑いされてみろ?
どこの魔王かと思うだけだ。
「ですが、次回はないでしょう。必ず、それを言い含めてください。今回は、偶然が重なり合っただけです。尤も、そのことは栞さん自身も気付いてはいることでしょう。それでも、九十九さんが改めて注意することに意味があると思います」
オレが言ったところであの女が聞き入れてくれるとは思わないが、次はないと言われたら、流石に言わないわけにはいかない。
「承知しました」
オレの言葉なんかでどれだけ効果があるかは分からないけどな。
言わないよりはマシだろう。
「それにしても、事態は予想より遥かに良くないようですね」
大神官が難しい顔をしながらそう言った。
この方の目から見ても、今の状況はかなり良くないらしい。
「大神官猊下にお伺いしたいのですが、その件の男の中にいる神は、どうなったのでしょうか?」
ちゃんと封印されたのだろうか?
だが、あの男は見た目には消えているが気配は残っていると言っていた。
つまり、完全に封印はできていないということだと思う。
「分かりません」
大神官は俯いて首を横に振った。
「ただ、現段階で言えることは、見た目に消えていても、その当人が気配を感じるなら、封印は表面上のものということでしょう。診てみないことには断言できませんが、恐らく、体内の奥底で眠っている状態になっているのだと思います」
「神も眠るのですか?」
それは意外だった。
なんとなく、神は24時間年中無休で起き続けているイメージがあったから。
「神々は、私たちのように生命を維持するための定期的な睡眠については、必要とはしません。ですが、神格や神霊、神気を回復するために一時的な休眠状態に入ることはあります」
つまり、神も一時的ではあるが、眠るってことか。
「栞さんが全身全霊を懸けた祈りだったでしょうからね。神格の低い神ならば、長期休眠させることもできたでしょう。ただ、今回は、相手が悪かったとしか言いようがありません」
そう考えると、神の封印というのは、休眠状態にさせるってことなのか。
でも、人間側からすれば、それでも上出来ではある。
本来、神は退けることもできないのだ。
そんな存在を一時的とはいえ、機能停止に追い込むだけ、とんでもない話だと思う。
だが、過去にそれを行った人間がいるのだ。
そのおかげで、今の平和が保たれている。
「主人はまだ『封印の聖女』に及ばないのですね」
六千年前、「大いなる災い」と呼ばれた神を封印し、この世界を救ったという聖女。
神々への敬意が今よりも残っている古い時代の方が、王族たちの魔力が強くても驚きはない。
そして、今、蘇ろうとしている神はその「大いなる災い」と呼ばれた存在なのだ。
それでも、栞では封印することができなかった。
器自身の祈りを乗せても、大神官による法力の補助があっても、栞ではその神に勝てないということになる。
それは、その「封印の聖女」にもまだ手が届いていないと言うことに……。
「いいえ」
だが、目の前の神を識る者はそれを否定する。
「生まれた時代、生きた時代が違うので、比較のしようもありませんが、栞さんが『封印の聖女』に及ばないとは、私は思っておりません」
その目も口調も力強く……。
「記録からの推察となりますが、どちらかといえば、現時点で魔力や魔法力ならば栞さんの方が上回っている可能性すらあります」
「は?」
大神官の言葉に、あまりにも短すぎる言葉しか返せなかった。
「『封印の聖女』は栞さんのように日常的に魔法を使うことがなく、模擬戦闘を含めて戦闘経験もほとんどなかったようです」
いや、栞も日常的に魔法を使っているわけではないのだが、確かに以前よりは魔法を使う機会は増えている。
その上、模擬戦闘の経験も少しずつ増えてきた。
「今よりも王族が崇拝され、護られていた時代です。王族が魔法を使う機会など、『大いなる災い』が生まれるまではなかったでしょうね」
言われてみれば、「封印の聖女」はどこかの「聖女の卵」と違って、正真正銘、箱入り王女だったと聞いている。
だから、警戒することもなく、好みの顔をした王子に優しくされたぐらいで、簡単にコロリと落とされてしまうのだ。
そんな深窓の王女が、ずっと頑張り続けている栞よりも上だとしたら、才能以外の言葉はありえない。
「そのため、『封印の聖女』はただ、運が良かっただけ。私はそう思っております」
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