死の幻視
「それで? その弟のどこがこの俺の一番の弱点になるんだい?」
そう楽しそうに自分に問いかけてきたその表情が……。
『十分、弱点でしょう。主人以上に貴方の人生を変える存在。いえ、正しくは、は……』
そんな言葉であんなにも変わるとは思わなかった。
しかも、最後まで言わせてもらうことすら叶わなかったのだ。
自分の口が物理的に塞がれた上、喉元に銀色の小さな刃を突き付けられてしまったから。
「なかなか大胆な誘いだったね」
至近距離で蠱惑的な黒い瞳が揺れる。
「だが、相手は選んだ方が良い。特に俺のようなヤツには洒落にならないからね」
ああ、これはセントポーリア王妃が骨抜きにされるのも分かる気がする。
大胆なのに繊細さを秘めたその心と、理性と思考を蕩けさせるほど甘い声で自分の魅力を存分に理解している言葉を吐く。
何より、その妖しいまでに冷たく鋭い瞳に射抜かれた女は多いだろう。
だが、幸いにして、自分はまだ性別が確定していない。
今は女でなくて良かったと心底思った。
いや、男でも今の表情を見れば、それだけで腰が砕けるバカもいるだろう。
両性を惹き付ける変な性フェロモンでも出ているんじゃないだろうか?
「ああ、すまない。今は口がきけなかったか」
そう言って、自分の口を覆っていた左手を外される。
ようやく、呼吸ができる気がした。
いや、それは錯覚か。
自分の首元に突き付けられた小型の刃物はまだ動いていない。
これだけの動きがあったというのに。
『正直、今のは死んだと思いました』
二重の意味で殺された気がした。
今の動きは、確実に来ると分かっていて最大限に警戒していたにも関わらず、全く見えなかった。
その上で、アレだ。
心も身体も完全に敗北したと言って良いだろう。
「死にたかったのだと思ったよ」
そう笑う表情は何処までも蠱惑的だ。
どこか翳のある危険な男を好む女なら、確実に今の笑みにやられると思った。
『いえいえ、貴方の主人の敵とならず、なおかつ、利用価値がある間は、生かしてくれると信じていますので』
あの黒髪の女性が、この国にいて、自分の主人の側にいてくれる間は、折檻されることはあったとしても、消滅させられることはないと思っている。
『感情のままに消すよりは、生かしておいた方がボクはお役に立ちますからね』
「そうだね。だけど、まだキミは言い足りないのだろう?」
『え? まだあんなことやこんなことを口にしても良いのですか?』
「内容によっては、この刃物を押し込めて振り切るだけだから、俺は構わないよ」
なんと困った誘惑だろう。
だが、一番困るのは、この状況を楽しんでいる自分の性質だ。
自分が告げる言葉で、この青年の表情がどれだけ変化するのかを見てみたいと思ってしまう。
その先が奈落だと分かっていても、好奇心が抑えられなくなる。
「言ってごらん? 俺もキミが何を知っているのか、興味があるから」
それは、幼子に言って聞かせるような優しい声。
だが、これを口にすれば、喉元の刃物は、躊躇なく前に進み、そのまま振り切られるだろう。
それだけのことを口にしようとしているのだから。
『ボクが知る事実というよりは、予想となりますが、構いませんか?』
そう告げると、黒髪の青年は目を細める。
「構わないよ。キミのことだから、単純な憶測ではないだろうからね」
そう単純な憶測ではない。
全てが分かっているわけではないが、これまで少しずつ漏れ聞いた事実だけを慎重に積み重ねていくと、そんな結論になるだけだ。
だが、言葉を慎重に選ぶ必要がある。
今から、踏むのはどんな魔獣の尾か分からないのだから。
少し迷って、こう切り出した。
『ルーフィスさんは法力の才能がありますよね?』
「どうだろう? 大神官猊下に直接、確認したことはないな。弟はないとはっきり言われたようだけどね」
『あの『神扉の護り手』の基準は正神官になれるかどうかです。ヴァルナさんにもその基準に届かない程度の法力はあると思っています』
大神官と呼ばれる「神扉の護り手」は、彼の弟に、法力の才はないと言っているが、法力を全く持たないとは言っていない。
昔、渡した法珠と呼ばれる珠を始めとする法力が込められた道具を、使いこなしているのがその証だ。
全く法力を持たない幸せな人間ならば、その力の起動すらできないはずなのだから。
『けれど、ルーフィスさんには、法力の才能があるとも思います。さて、それは一体、どういう理由でしょう?』
ただの人間ならば分からない話。
だが、彼らは不幸にも、聖女の卵と関り、その結果、真実を知ってしまっている。
人間の綺麗ごとに隠された裏の話。
闇に溶け込み、表沙汰にされていない法力という能力の真実。
いや、自分も知らなかったのだが、聖女の卵である女性も、その護衛も信じられないぐらい詳しく知っていたのだ。
聖女の卵である女性の過去は近年ぐらい……、せいぜい、10年ほどしか読み切れなかったが、護衛の方は隅々までしっかり見せてくれた。
……ある意味、主人よりも警戒心がないのではないだろうか。
まあ、それは、主人はともかく自分の方は大したことがないと思い込んでいることから起因していることは明白なのだろうけど。
あるいは、自分に情報を寄越す手っ取り早い方法だと判断したか。
そうだとしたら、思ったより冷静で合理的な面があると評価を改める必要がある。
この兄弟はいろいろ予想外だ。
尤も、主人の婚約者候補の女性ほど、予想から大きく外れることはないのだけど。
「それについて、心当たりがなくはない」
黒髪の青年は、その黒い瞳で自分を見据える。
ここで目を逸らさないのは流石だ。
どれだけ、胆力があるのか。
「だが、それをキミがどこで知ったかは興味があるな」
『単純な話ですよ』
そう、それは本当に単純な話。
『眠っている時は、貴方も無防備なようですから』
ただそれだけの話だ。
近付く気配に敏感な人間でも、眠ってしまえば、完全に思考を押さえられるものではない。
人間が夢を見る理由としては様々な説がある。
情報の整理だったり、精神の安定だったり、表層心理の表れだったりするそうだ。
いずれにしても、生理現象……、本能的なものであるため、意識して制御することはできないらしい。
だから、意識がある時に心を読まれないための鍛錬をしていたとしても、眠っている時はほとんど無意味となる。
それでも、彼らは眠っている時でも法具や、それに近しい手段を用いて、ある程度、心を読まれないような対策をしているようだが、それでも、意思が強すぎるため、心の声が大きすぎるのだ。
「ああ、なるほど。眠っている時に思考が漏れていたのか」
流石に、精霊族との付き合いがあったためか、先ほどの言葉だけでその意味を察してくれたらしい。
「だが、それは情報の全てを知ることはできるわけではないだろう?」
『貴方の側にいた精霊族は気遣い屋だったのでしょうね』
そう言うと、黒髪の青年はその形の良い眉を顰めた。
『思い出したくもない悪夢を何度も夢で見てしまう気分はどうですか?』
一閃。
見えたのは横に流れる一筋の細い光。
いや、それすらもこの目には、残像や幻だとしか思えなかった。
高速……、いや光速で振り抜かれた刃の筋は風を伴い、自分の髪を揺らしたことだけは理解する。
『お見事です』
感嘆するしかなかった。
刃を振り抜く速度も。
最後まで、掠ることすらさせなかったその精神力も。
何より、全く表情を変えることもないままに、それらを行ったという事実にも、驚嘆という言葉が相応しい。
最後まで、この青年は余裕ある笑みを崩さなかったのだ。
どれだけの覚悟を持って、精霊族と対峙しているのかも分かる。
『まあ、それらの理由から、貴方の最大の弱点は、弟だと判断した次第です』
確かにあの主人に知られることは本当に気にする必要はないだろう。
あの女性は、恐らく、その事実を知ったとしても、驚愕や同情することはあっても、失望や幻滅することはないと分かっているから。
だが、あの弟は違う。
あの事実を知れば、どう受け止めるか予測ができない。
だからこそ、ひた隠しにするしかない。
この青年がこれまで守り続けたものを壊さないためにも。
自分を「兄」にしてくれた「弟」を失わないためにも。
この青年が恐れているのはそれだ。
主人よりも、あの「弟」を失うことに対して恐怖心を抱いている。
それも無理ならぬことだろうけど。
「言われてみれば、確かに弟が弱点と言えなくもないのか」
得心がいったようにそう呟いた。
「いろいろ教えてくれてありがとう。それについては、俺自身も気付いていなかったからね」
手にした銀色の刃物を手で弄びながら、黒髪の青年が笑う。
「御礼に、俺も知っていることをキミに教えてあげよう」
背中が――――――――ゾクリとした。
「他人の過去は、そう簡単に暴くものじゃないよ?」
それはどこまでも酷薄で、どこまでも妖艶な笑みだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




