どんな英雄にも弱点はある
「こちらとしては、粗方、情報共有ができたし、今後の方向性も定まったと思っていたけど、キミは違うってことかな?」
黒髪の青年は穏やかに微笑んだ。
邪気がない顔に見えるが、その瞳には油断もない。
どれだけ、この整い過ぎた外面に騙されてきた人間がいることだろうか。
あの敵意のない相手を疑わない自分の主人なんかは、あっさりとその手の上で転がされてしまいそうだ。
だが、主従揃って素直に転がされるわけにはいかない。
少しぐらい、警戒されている関係の方が、互いに都合が良いのだ。
『勿論、違いますよ』
できるだけ余裕を持って答える。
全てを見透かすような黒い瞳は、自分を見定めるものへと変わっていく。
『あの場で、ボクが知る全てを話すことは得策ではありませんから』
「へえ……」
自身の主人だけでなく血を分けた弟にすら隠し事の多い青年だ。
だが、それぐらいは想定内だと言わんばかりに微笑んでいる。
その余裕ある笑みを崩したい。
共闘である以上、対等であることを示さねば、一方的に利用されるだけとなってしまうだろう。
自分の主人はそれでも良いと笑う気がする。
だが、自分は素直に納得できない。
あの人が好くて不器用で、立ち回りが下手すぎる不愛想な主人が、誰かに侮られるのは悔しかった。
『ボクはずっと、シオリ様が貴方の一番の弱点だと思い込んでいました』
「栞様が一番の弱点? それはあり得ないな」
自分の言葉に少しだけ意外そうな表情をする。
「俺たちが彼女の一番の弱点なんだよ」
自分たちが主人の一番の弱点だとそう微笑む姿はどこか誇らしげだった。
普通なら、自分が仕えるべき主人の弱点になるなど、恥ずべきことだろう。
だが、この青年にとってはそうではないことがよく分かる言動である。
『そうでしょうね。今回はあの紅い髪の青年でしたが、似たようなことが貴方たちの身の上で起これば、シオリ様は迷わないことでしょう』
あの紅い髪の青年……、アリッサムを消滅させた原因を知る人間は、その全身に禍々しい気配を纏っていた。
人間の思念、精霊族の術なども容易に打ち消す気配。
あれは……、神の欠片だ。
どんな理由や経緯があったかは、シオリ様やヴァルナさんからの過去でしか、読み解けていないのだが、あんなものが欠片とはいえ、この人界に存在し続けていることがおかしい。
神は神界……、あるいは聖神界にしか存在できないのだ。
だが、何かの弾みで、人界にその意識だけが降り立つことがあるという。
アレもその一つなのだろう。
尤も、自分が存在を始めるよりもずっと昔に封印されたはずの神の意識が、今もその形を保っていることは信じがたいとも思う。
神界や聖神界は人界とは時の流れが違うらしい。
だが、人界に下りれば、神もその時の流れに従わざるえなくなる。
だから、封印されてその動きを止められたとしても、多少、風化や劣化をするはずなのだ。
それでも、その神の意識が何千年の時を超えた今も、変わらず保つことができているなら、そこには何か別の意思が介入しているとしか思えない。
だが、今はそんな話はどうでもいい。
関係のない自分が考えることではないのだから。
『それでも、貴方はあの青年が羨ましかったのでしょう?』
「羨ましい?」
質問の意味が分からなかったようで、黒髪の青年は少し考えて……。
「そうだね。羨ましいと思ったことは否定できないかな」
そう結論付けた。
あの光景を見て、心を揺らされなかった人間がいただろうか?
聖女と目される女性は、神の意思に侵されているただ一人の男を救おうと、その全身全霊で祈りを捧げるその姿は、確かにその名に恥じないものだった。
―――― 導きの聖女
その全てを賭けた献身的な行動は、全てを諦めかけていたあの青年の心に、再び希望の光を導いた。
だが、アレはある意味、神に弓を引くものでもある。
神はあの青年を絶望の淵に落とし、その魂を壊した上で、人界で行動するためにあの身体を乗っ取りたいのだから。
神に向かって直接、その矢を向けていないため、怒りを買うことはないだろうが、その意思に逆らう行為ではある。
それがどれだけ恐ろしいことであるか、人間たちには分かるまい。
神の意思には絶対隷従。
それが、自分がこの世界に現れるより遥か昔から、魂に刻み込まれた神と精霊族の約定である。
人生を弄ばれるだけの人類とはその在り方から違う。
神の手足となって働く奴隷として生み出された精霊族。
神を楽しませる玩具として生み出された人類。
発生したその時から、神からの使命を理解する精霊族。
生まれ落ちたその時から、神からの任務を忘れる人類。
神に抗うことは許されない精霊族。
その意思に抗う姿すら神の娯楽でしかない人類。
それは似ているようで、全く違うものであった。
そのためだろうか?
自分もあの二人を見て、羨ましく思ってしまったのだ。
誰かから、あれだけ強く想われた覚えなどない。
だから、主人は浅ましくも分かりやすいほどに嫉妬した。
あれが自分だったらと夢想もしたかもしれない。
付き合いの浅い自分たちですら、そう思ったのだ。
あの女性に、昔からその身も心も捧げ続けている彼ら兄弟が、本当に何も思わなかったはずがないだろう。
「俺としては少しぐらい迷ってもらいたいものだけどね。彼女の特別な存在になれることは嬉しいが、だからといって、その身を削る行為をして欲しいわけではないからね」
『特別な存在であることは認めるのですね?』
「否定する理由もないだろう?」
迷いの無い答え。
それはどんな感情から生まれるものなのだろうか?
普通に考えれば、愛情でしかない。
だが、この青年に限って、そんな分かりやすい理由だとも思えなかった。
心が読めない相手というのはなんともやりにくい。
単純な予想すら複雑な答えを導き出そうとしてしまう。
これが「疑心暗鬼を生ず」というやつなのだろうか?
「キミの言う通り、俺たちにとって彼女が弱点になることはない。その逆はあってもね」
つまり、この兄弟を押さえれば、シオリ様はどうにでもできるということか。
だが、シオリ様を押さえようとしても、手痛い反撃を当人自身から食らった上で、怒り狂った兄弟たちからの私刑が待っている。
未来を視る能力がなくても、それは確定した事実だと言い切れてしまうところが恐ろしい。
特に彼女は、神の欠片をその魂に宿している。
それが、神力所持者の正体だ。
かなり深い部分に根付いていることから、生まれる前から分け与えられたものだと予測している。
そんなモノが本気で反撃に転じれば、確実に消滅させられてしまうだろう。
どうにも割に合わない話である。
それを乗り越えてなんとか押さえたとしても、この兄弟が狂化され、凶暴化されてしまえば、普通の人間など、ほとんど死は免れないだろうし、精霊族でも中級以下であれば、消滅する可能性はある。
自分も、無事でいられる気がしなかった。
兄への煽りに対して、キレかけた弟の動きは全く見えなかったのだ。
兄の動きを注視しすぎて、弟の方に気を配っていなかったことは理由にならない。
考えてみれば、当然の話だ。
彼らは光の大陸神と契約を交わした人間の末裔である。
ただの人類ならばともかく、大陸神の強い加護を持つ人間相手に、精霊族の混ざりモノ如きが適うはずもない。
だが、それをあの場で口にする気はなかった。
その時点で、目の前の青年から信も助力も得られなくなるし、その主人からも確実に怒りを買うことは分かり切っているから。
人間の視点で見れば、隠す理由はよく分からないが、彼らなりの事情があるということで呑み込んでおくことにした。
だから、ここで口にするのは、シオリ様は怒らないだろうと思う言葉だ。
いや、彼女は恐らく気付いている。
だけど口にしない。
口にするまでもないことだから。
『ルーフィスさん、怒らないで聞いてくださいますか?』
「その話の内容次第だね。キミの言葉に対して、俺が絶対に怒らないとは確約できない」
酷い話だ。
だが、尤もな話でもある。
自分のように心を読めるわけではないのだ。
経験を基にした洞察力だけで相手の心理を予測するのにも限度はある。
だが、それが分かっていても、あえて口にした。
警戒させるために。
心の準備をさせるために。
何より、この青年の顔色を変えるために。
もともと腹の探り合いなんてしたことがないのだ。
人間の腹の内なんて、わざわざ探らなくても勝手に漏れてくるものだったから。
『分かりました。では、その上で、ボクの私見を聞いていただけますか?』
それでも臆しないと分かったのか、警戒の度合いが強まった。
気配が突き刺さるほどのものに変わる。
だが、それで退くなら、始めから対面での会話など望んでいないのだ。
だから、告げる。
『貴方の一番の弱点はシオリ様ではなく、弟の方ですね?』
これまで、誰も指摘しなかったであろう事実を。
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