経験の有無
「それは残念だな。俺のことで、本気になってくれる栞様を見ることができる貴重な機会だったんだけどね」
そんなことを軽く言う兄貴に対して……。
『歪んでますね』
そう思ったのはオレだけじゃないらしい。
『わざと主人を傷つけて楽しもうなんて、どんな性癖の持ち主ですか?』
紛れもなく嗜虐趣味だと思う。
「その場合、繊細な主人を傷付けるのは俺ではないからね」
そんな言葉を笑顔で吐くなよ。
そして、誰の言葉によっても、栞が傷つけられるのは、オレは嫌だぞ。
『うわあ。被害者のフリをする加害者って本当にいるんですね』
この精霊族をここまでげんなりとした顔をさせられる人間もそう多くないだろう。
「それに俺があれぐらいのことで、傷付くはずがないだろう?」
堂々とそう言い切る兄貴の図太さが羨ましい。
『いや、普通の人間は、真っ当な神経を持ったごく普通の人類は、先ほどの言葉で少なからずショックを受けるものですよ?』
わざわざ言い直しやがった。
でも、その気持ちも分かる。
兄貴の神経は太すぎるだろう。
いや、太いと言うよりも、オレと神経の材質が違う気がする。
―――― 大切な人間を殺した憎い相手を抱くことができるはずがないでしょう?
オレの前で、あんなことを言われても動揺も混乱もしなかったのだ。
勿論、兄貴自身からそのことを聞いた覚えはない。
簡単には言えるはずがない話だ。
兄貴が、ミヤドリードの仇であると思われるセントポーリア王妃を抱いたことなんて。
だが、この精霊族から言われなくても、オレはなんとなく気付いていた。
兄貴がこの世界へ行って、人間界に戻るたびに漂ってくる気配は、本人以外のモノが纏わりついていたことを今でも覚えている。
そして、その中には、自分の記憶にあった気配があったことに気付けないはずがない。
セントポーリア国王陛下に少しだけ似ているのに、気持ちが悪くなるあの気配を。
オレ自身、あの気配を忘れないようにしていた。
シオリとチトセ様に敵意を向け続けていたあの女の気配を子供心に覚え込もうとしていたのだ。
幼少期とはいえ、その記憶力は侮れないと言うことだろう。
魔力成長期である15歳から25歳の間なら、多少、変質したかもしれないが、オレが視た時点で、チトセ様やミヤドリード、国王陛下よりも年上だったあの王妃は25歳をとっくに超えていた。
だから、そう大きく変化することはない。
実際、数カ月前、セントポーリア城でオレに絡んできたあの女の気配は、ほとんど変化がなかった。
兄貴の周囲に纏わりついていたあの女の気配も、一度や二度なら気のせいだと思えたかもしれない。
だが、兄貴は余程気に入られてしまったのだろう。
高校時代になると、かなりの頻度でその気配を纏っていた気がする。
あれで気付くなという方がおかしい。
多分、出会った頃、水尾さんが兄貴を毛嫌いしていたのも、その辺りにあるのだろう。
何より、兄貴自身が、毎回のようにしかめっ面をしたまま、地下から風呂場に直行していた時期がある。
アレで何もないなんて思えない。
近付いただけで斬られる気がしたから、あの頃は変に声が掛けられなかった。
その兄貴が落ち着いたのはいつ頃だっただろうか?
気付けば、今の兄貴に近くなっていた。
『少しぐらい、ルーフィスさんの動揺を誘えるかと思ったんですけどね。まさか、ルーフィスさんよりヴァルナさんの方がボクの発言に怒りを覚えるとは思いませんでした』
「弟は半童貞だからな。この辺りの割り切りはできまい」
「うっせえ!!」
兄貴ほど簡単に割り切ることができないだけだ。
これは経験とか関係なく、性格の問題だろう、多分。
『半童貞? ああ……』
「また何か腹立たしいことを口にする気か?」
『いやいや、ボクも復活できるとはいえ、時間はかかるだろうし、あまり痛い思いはしたくないんですよね~。それに本当に復活できるかはまだ試したこともないので』
試したこともないのに、兄貴に喧嘩を売ろうとしたらしい。
ある意味、命知らずだ。
それを買ったのがオレで良かったな。
兄貴はオレを止めることができたが、兄貴が本気で動けばオレには止めることはできないだろう。
それでも、あの頃の兄貴を知っている身としては、そう簡単に踏み入って欲しくない部分ではあるのだ。
自暴自棄になっていないのが不思議だったあの兄貴を。
『やはり、人間の過去を視ることができて、少しぐらい心を読めたぐらいでは、思考の予測は難しいようですね。貴方方はボクの予想とは違う方向に進む』
「それこそ経験不足だろう」
『失敬な。貴方方より、ボクは経験豊富ですよ?』
何の話だ?
「いいや、経験不足だよ。ある意味、そこの半童貞よりもね」
兄貴は皮肉気に笑う。
「アリッサムに囚われ、解放された後も、この箱庭で、特定の人間としか時間を共有していない。それでは、不特定多数の思考を理解することはできないだろうね」
『そういうことですか……』
黒髪の精霊族は何かに気付いたようにオレを見た。
『そう言った意味では、確かにそこの半童貞よりも、経験不足の感は否めませんね』
ちょっと待て?
今、「半童貞」と書いて「ヴァルナさん」と読まなかったか?
オレはそっち方面の経験が足りてないが、そこまで言われるほどじゃねえぞ?
『ヴァルナさんを揶揄うと、反応が面白くて、つい?』
「ついじゃねえ!!」
『ボク、経験不足なので、ヴァルナさんが何を怒っているのか分かりませんね~』
そこまでキラキラ光っているヤツが何を言うか!!
『まあ、ルーフィスさんが言いたいことも分かりました。喧嘩を売る相手を選べ、とそういうことですね?』
「そういう話だったか?」
そして、何故、その結論になったかが分からん。
いや、道理だとは思うけど。
兄貴を敵に回すべからず。
これは、昔からオレが考えていることである。
それでも、万が一敵に回った時は、全力で迎え撃つつもりだけどな。
『では、言葉を変えましょう。貴方方を警戒しすぎて、余計な波風を立てるよりは、お互いに利用し合った方が良い。こう言えば伝わりますか?』
「『利用し合う』か。『協力する』わけじゃないんだな?」
『分かりやすいでしょう? 利害関係で結ばれている間は互いに裏切ることはありませんから』
まあ、確かにここで、変に情が移っても困る。
今後、やりにくいだろう。
兄貴は、この主従を利用し倒すつもりでいるようだからな。
『それに共闘関係を解消したくなければ、自分の商品価値を吊り上げる提案をするしかなくなるでしょう? お互いに良いこと尽くめじゃないですか』
「それを良いこと尽くめと言うんだな?」
『良いことでしょう? 自分の価値を売り出すには、自分を認めること……、自己肯定から始まるんですから。まあ、この辺りに関しては、そちらに有利過ぎる話ですけどね』
黒髪の精霊族は兄貴を流し見る。
「丁度良い機会だろう?」
『うっわ~、その返し。腹が立つけど、勉強になります』
この精霊族はオレたちの方が有利な共闘関係だと言った。
だが、違う。
時間が経てば経つほど、こいつらの方が有利となる。
そんな気がした。
この精霊族は先ほどの兄貴からの言葉で、経験を重ねるようになるだろう。
そして、栞の婚約者候補の男は、環境に恵まれていないだけで、もともと出来ない男ではない。
飲み込みは早いし、相手の意見も聞ける。
人間界に行っていたためか、この国の男としては珍しく、女の言葉にも素直に頷けるヤツだ。
他人の助言を聞き入れることができるヤツは情報の取捨選択さえ間違えなければ大いに伸びる。
何より、あの栞が傍で支えると決めたのだ。
変な劣等感を拗らせない限り、否が応でも成長するだろう。
『…………』
「なんだよ?」
『いや、ボク、ヴァルナさんのそういうところが大好きですよ』
黒髪の精霊族はそう言って笑う。
でも、どうせなら、女の姿で言われたい。
いや、別の人間から言われたい。
そんな願いが叶うことはないと分かっていても、微かな期待を抱いてしまうのは、オレが半童貞だからなのだろうか?
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