理想の相手
これまで、兄貴はずっと、栞の意思に従ってきた。
勿論、安全性を含めて、いろいろ問題があると思えば、その理由を口にした上で、反対することはある。
だが、それでも真っ向から否定的な意見を口にすることはなかったはずだ。
「いずれにしても、キミの主人は、栞様が受け入れる気になった人間であることには変わりないが、俺が認めた人間ではないとだけ言っておこうか」
だから、その言葉はちょっと意外に思えたのだ。
しかも、その台詞自体にも様々な棘がある。
栞が「受け入れる気になった」とは言っているが、相手を認めているとかそういう意味ではない。
しかも「受け入れる気になった」だけで、「受け入れている」わけではないとも言っている。
そして、兄貴自身は認めていない。
そんな風にはっきりと口にするのはかなり珍しい。
いつもは婉曲な表現を使って、直接的な言葉を避けると言うのに。
オレとしては、栞が後悔しなければそれで良いし、あの黒髪の男は、人間性はそこまで悪くはなさそうだ。
栞を護るにはちょっと頼りない面も見られるが、そもそも栞自身が、大人しく男の背中に庇われ、守られているような女でもない。
それでも、敢えてあの男に対して難を言えば、栞曰く「他に心惹かれている女がいる」ってことぐらいだろう。
アレがオレも引っかかっている。
栞自身は気にしていないと知っているのに。
『まあ、ルーフィスさんにしても、ヴァルナさんにしても、アーキスフィーロ様のことはシオリ様のお相手として認められないでしょうね』
黒髪の精霊族はそう言って、肩を竦めた。
『でも、どんな男性ならば、ルーフィスさんの御眼鏡に適うかは興味があります。参考までにお聞かせ願えませんか?』
さらに、そんな言葉を続けた。
兄貴が認める栞の相手?
それはかなり難しいかもしれない。
先ほどまでの話を聞いた限り、兄貴は、栞を完全に家族目線で見ているらしい。
流石に父親……ではないようだが、少なくとも年長の家族視点ではあるのだろう。
だが、本物の血族である「弟」に対する態度とは随分、違いませんかね? おに~さま?
「そんなに多くのものは求めていないよ。俺が望んでいるのは、主人の無病息災と平穏無事な生活だからね。それに、最終的な決定は当然ながら主人にある。だから、どんな相手を選んだとしても、その決定に従うつもりだ」
その台詞の中にあった一部に、「どんな(に自分が気に食わない)相手」という意味があるように聞こえたのは気のせいか?
尤も、現実問題としては当然だ。
オレたちに栞の相手を選ぶ権利はない。
どんなに好きになれない男でも、そんな相手を栞が選んだのなら、それに従うしかないのだ。
『随所に含みがあるような気がしますが、それは、つまり、アーキスフィーロ様でも問題はないということですよね?』
「いや、問題はあるよ。少なくとも、現時点のアーキスフィーロ様は、彼女の両親が出している条件に合致していないからね」
「『え?』」
彼女の両親が出した条件?
この場合、セントポーリア国王陛下と千歳さんのことだよな?
そんなのがあったのか?
『そこで、何故、ヴァルナさんまで驚いているのですか?』
「俺にしか伝えていないからだろうね」
兄貴はオレが人間界から戻らなかった十年間もずっとセントポーリア城に通っていた。
さらに、今も、定期的にセントポーリア城に戻って報告書は提出していると聞いている。
本来、「伝書」で済ませることもできる報告書をわざわざ手渡ししているのは、口頭でも伝えたいことがあるのだろう。
だから、オレとは信用の度合いが違うのだと思っている。
『そこまで言ったのですから、勿論、それを教えてくださるのですよね?』
「ごく普通の、ありきたりの願いだよ。だが、半端な覚悟でそれを叶えることは難しいと俺は思っている。それでも、あの主人のために聞くかい?」
『はい、シオリ様のご両親の意見とやらにボクも興味がありますからね。是非、ご教授いただければと思います』
将を射んと欲すれば先ず馬を射よという言葉がある。
普通ならば、その両親の望みを叶えれば、その娘を手に入れることは容易だと考えるだろう。
だが、兄貴は言った。
―――― 半端な覚悟でそれを叶えることは難しい
だから、オレには伝えなかったのかもしれない。
いや、彼女の両親の無理難題を飲み込めたところで、始めからオレには無理なのだが。
「父親の条件はただ一つ。彼女が、自分の意思で愛すると決めた男であること」
『それは……』
黒髪の精霊族は、兄貴が告げた言葉に息を呑む。
「今回の話はトルクスタン王子殿下からの紹介ではあるが、栞様も納得はされている。だけど、そこに彼女自身からの愛があるか? と、言えば……、まあ、疑問ではあるよね?」
それは確かに。
栞は、ずっと終始、あの男のことを「契約相手」と言っている。
そこに彼女からの愛も熱も感じられない。
「そして、母親からの望みは真逆だ」
『真逆……、ですか?』
「何をおいても彼女を愛してくれる男」
兄貴の告げたその言葉は凄く千歳さんらしくて、ホッとした。
国王陛下のように条件ではなく、望みという辺りも千歳さんらしい。
「これはアーキスフィーロ様には絶対に無理だろう?」
『そうですね。その通りです』
その遣り取りから、兄貴も、この精霊族も、栞の婚約者候補の男には別に好きな女がいることを知っていることがよく分かる。
まあ、栞でも気付いたようなことだからな。
そして、オレは気付けなかった。
例の発言を直接耳にしていなかったせいかもしれない。
それに、オレが見た限り、あの男は栞を少なからず大事にしているようだった。
そこでまさか、別の女を想っているなんて思わないだろう。
いや、男の中にはいくつもの愛を持っていて、その全てを均等に愛しているとか素面で寝言を口にできるようなヤツがいることも知っている。
だが、あの男はそんなタイプには見えなかったのだ。
「だから今のところ、俺にとっては、主人の理想の相手は、先ほど会った、紅い髪の青年なんだけどね」
兄貴の発言に対して、いろいろなモノを口から激しく噴射するところだった。
具体的には罵詈雑言だ。
兄貴はあの男が栞に相応しいと本気で思っているのか?
『ルーフィスさんはそう思っていても、ヴァルナさんはそう思わないようですよ?』
そして、余計なことを言うな。
「この男は狭量だからね。あの青年のことを、そう簡単には認めないとは思っているよ」
狭量で悪かったな。
栞に比べたら、ほとんどの人間は狭量になる。
あの男は、栞を散々、傷付けてきたのだからな。
『いや~、ボクもこの件に関しては、ヴァルナさんと同意見ですね。どう見ても、あの男だけはないでしょう。ある意味、アーキスフィーロ様以上にありえないと思うますよ?』
黒髪の精霊族はそう首を振った。
『確かに、シオリ様のことを愛してくれることでしょう。この上なく、濃密に盲愛的に。けれど、あの存在も、その思考も、危険人物と言っても過言ではありません。そんな相手では、ルーフィスさんの願う平穏無事な生活はとてもではないけれど、望めないと思います』
千歳さんの望みは満たされる。
そして、栞があの紅い髪を想うことができれば、セントポーリア国王陛下から出されている条件も満たすことができる。
だが、あの男では、兄貴の願いが叶わない。
そして、オレの願いも。
オレは栞にずっと笑っていて欲しいだけだ。
その横にいるのがどんな相手であっても、彼女が笑顔でいられるならば、それで良いのだ。
だが、栞がもし、あの男を選んだのならば、それが叶うとはオレは思えなかった。
栞は必ず泣くことになるだろう。
それは、確信に近いナニかだ。
あの男がその身体に神の妄執を宿している限り、平穏とは無縁なのだから。
「それでも、他の女性を想っている男よりは幸せになれるよ。彼女はそういう女性だからね」
そうだろうな。
栞は感情で変わる。
相手から愛されていると実感できれば、それに応えるためにいつものように全力を尽くすことだろう。
それを想像しただけでなんとなく、ムカついてくる。
栞の婚約者候補の男と一緒にいる時は、そんな感情は湧き起こらないのに、あの紅い髪と側にいる栞を見ていると、そんな不快な思考に陥るのだ。
ああ、分かっている。
恐らく、兄貴に言う通りなのだろう。
栞は、あの男に愛されていれば、幸せになることができるのだとオレ自身も分かっているのだ。
だが、それを認めたくない。
栞自身が幸せになっても、傍目にはそう見えなくなるからだ。
当人たちだけが幸せな世界。
どんなに栞が笑っていたとしても、それをオレは認められないと思っている。
―――― あの男に奪われるぐらいなら、いっそ……。
そんな仄暗い感情が芽生えそうになってしまう。
それこそ、最悪だと分かっているのに、あの男が絡むと、オレは判断力が奪われ、冷静になれなくなるのだ。
勿論、当人の前ではそれを悟られまいと虚勢を張るようにはしている。
だけど、所詮は張りぼてだ。
本物ではない。
『なるほど……』
不意に声が落ちる。
『ルーフィスさんが、何故、改めて素顔を見せてくれる気になったのかを理解しました』
黒髪の精霊族は何故か、オレを見てそう微笑んだのだった。
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