否定はしないけれど
「栞様が誰かを害することはあり得ないな」
兄貴が笑いながらそう言った。
オレもそう思っている。
栞の意識がある限り、誰かを害することはできない。
彼女は他人を傷つける行為を酷く恐れているから。
そのため、本来身を守るための「魔気の護り」すら、手加減をしてしまうのだ。
「だから、キミが心配していることにはならない。尤も、その逆に、アーキスフィーロ様によって、栞様が傷つけられてしまうことはあるかもしれないけどね」
さらに、分かりやすく挑発的なことを言う。
『まあ、シオリ様よりもアーキスフィーロ様の方が、誰かを害する可能性は圧倒的に高いことは理解していますよ。最近では大分、マシになったとはいえ、魔力の暴走を起こしやすい人であることには変わりはありませんからね』
黒髪の精霊族はそう肩を竦める。
『でも、ボクが言いたいのは、そういう意味ではないのですよ』
そして、何故か、オレを見ながら、そう言った。
「栞様がアーキスフィーロ様に害意を向けることはないし、魔力の暴走を起こしたぐらいでは、あの栞様を傷つけることはできないよ」
兄貴は笑う。
「魔法耐性だけなら、彼女はこの世界でもトップレベルだ。今の彼女を傷つけることができるのは、物理か精神攻撃以外ではありえない」
簡単に言うが、物理でもかなり厳しいと思っている。
特に栞は無意識に身体強化をするタイプだ。
警戒している時は、オレたちが二人がかりでも、無理だろう。
攻撃は当たるだろうが、通らない。
それは、あの「音を聞く島」で既に証明されている。
オレと兄貴が斬りかかっても、武器破壊をされた上で、同時にふっ飛ばされたのだ。
この世界に来て、たった三年で、彼女は瞬く間に成長してしまった。
引き離されないようにしがみ付くのがやっとだ。
『ああ、ルーフィスさんは精神攻撃、お得意そうですもんね』
「それについて、否定はしないよ」
黒髪の精霊族の言葉も兄貴は動じることなく笑顔で返す。
頼むから、そこは否定して欲しい。
いや、否定された所で、兄貴が光り輝くだけなのだが。
『アーキスフィーロ様が魔力の暴走を引き起こしても、シオリ様を害せないなら、どうやって……? ああ、確かにシオリ様を精神的に傷つけることはありますね。アーキスフィーロ様は他人の心の機微にかなり疎いので』
兄貴に問いかけようとして、すぐに納得したらしい。
だが、人の心に鈍感でも、栞の婚約者候補の男も、栞と同じように誰かを傷つけることは苦手そうな印象がある。
それならば、一体、兄貴は何を懸念しているのだろうか?
『他者の気持ちに鈍いだけでなく、無自覚な男はタチが悪いと言う話ですよ、ヴァルナさん』
何故、オレを名指しした?
理解していないからか?
「そもそも、アーキスフィーロ様は始めから完全に栞様を否定されていた。栞様は気にされないように振舞っているが、それなりに傷付いたと思うよ」
『まあ、「妻として愛することができない」……ですからね。本当にそう思っていても、わざわざ出会ったばかりの当人に向かって、宣言するのはどうかとボクも思います』
それを誠意と取るか、気を使えない男だと取るかは受け取り方次第だろう。
少なくとも、栞は誠意と捉えた。
会って間もない自分に対して、嘘を吐かない男だと。
『でも、お互いに愛がないのですから、問題ないのでは?』
「愛情の有無に関係なく、自分の主人を蔑ろにされて問題ないと言えるほど、俺は人間ができていないものでね」
その口調こそ変わらないものの、兄貴の声の温度が1,2℃ほど、下がった気がした。
低音ボイスではなく低温ボイスだと栞なら言いそうだ。
尤も、彼女の前でこんな声は出さないだろう。
これはかなり怒っている時だ。
オレも人生において、数回ほどしか聞いたことがない。
『思ったより、心が狭いんですね』
「自分や弟のことは何を言われても気にならないんだけどね。自分の大事な人間を無意識にとはいえ、等閑にされるのは存外、腹立たしいらしい」
兄貴の言いたいことは分かる。
オレも自分のことは良いけれど、栞のことを軽んじられたり、雑に扱われたりするのは腹が立つ。
だが、どさくさに紛れて、自分だけでなく、「弟」まで追加するのは止めてもらえませんかね?
オレは兄貴を馬鹿にされるのも割と腹立たしいんだぞ?
兄貴を馬鹿にできるようなヤツは少ないけどな。
「そんな理由だから、キミも気を付けてくれ。自身だけでなく、主人の言動次第では、軽い冗談だったとしても、俺も自制しないかもしれないからね」
『おや、意外です。ルーフィスさんがそこまでシオリ様に惚れ込んでいたとは思いませんでした』
本当に予想外だったのだろう。
黒髪の精霊族は目を丸くする。
だが、意外でもなんでもない。
少なくとも、兄貴はその身体を張る程度に栞のことを想っていることは、カルセオラリア城でも証明されている。
「敬愛する方々の大切な御子だ。愛しくて堪らないのは当然だろ?」
……マジか。
思っていた以上にあっさりとその言葉を口にしやがった。
いや、これは違う。
「愛しい」にも種類があるのだ。
そして、現状、オレと兄貴では同じ「愛しい」という単語の中に込められている熱の種類も温度も違うことは分かっている。
何より、兄貴が栞のことを好きなのは、千歳さんの娘だからと言った。
その言葉は開き直ったようではあるが、ある意味、逃げている気もした。
オレが警戒しすぎているだけかもしれないが。
「それにどんなに惚れ込んでも、恋愛にはならない。彼女は生まれた時から、いや、生まれる前から俺の妹のようなものだったからね。彼女の母親の胎内にいる時期から知っているんだよ。そんな妹のような女性を、恋愛的な意味で好きになる兄なんて少ないだろう?」
その言葉は、先ほどの発言以上に、オレの心臓を刺激する。
オレは知らなかったけれど、栞はオレの乳兄妹らしい。
それを知ったのは、この世界ではない不思議な場所だったけれど、あの衝撃をオレは忘れることはないだろう。
だけど、オレよりも二つ上の兄貴は、そのことを知っていた。
いや、覚えていたのだ。
シオリが生まれた頃に、チトセ様がオレの乳母になってくれたことを。
先ほどの話からも、チトセ様は、シオリを妊娠中から、兄貴やオレの父親と付き合いがあったことが分かる。
まあ、そうでなければ、母親が死んだ直後に、すぐ乳母になることなんて難しいか。
オレがシオリと出会った後、それを見た兄貴が涙を零したのは、誰かに会えてホッとしたからだとずっと思っていたが、そんなオレたちの関係を知ると、違った意味にとれる。
短い期間とはいえ、母親代わりとなってくれたチトセ様と、妹のように育っていたシオリ。
何故、二人が離れたかは、詳しくは聞かされていないが、何らかの事情で、二人はセントポーリア城に戻ったのだと思う。
そして、再び、オレとシオリが出会った。
もう二度と会えないと思っていた母娘と再会したのだ。
それを見て、当時5歳の兄貴が、何の感情も抱かないほど、人間を辞めていたとは思わない。
恐らく、そこにあったのは、愛とか恋とか、乞いたかったとか会いたかったとかの単純な想いではなかっただろう。
もっと筆舌に尽くし難い複雑な感覚だったはずだ。
あの頃の兄貴にどれだけ、マセた感情があったかは分からない。
ただ3歳で父親と死に別れたオレよりも、もっと早い段階で、大事な人間ができ、そして、別れも経験していることは確かだった。
『ああ、そうでしたね。貴方方は、シオリ様の幼馴染でしたっけ』
誰の心を読んで、それを知ったのかは分からない。
だが、黒髪の精霊族は酷く複雑な顔をしていた。
『そんなに人間にとって、幼い頃から知っている存在というのは特別なのでしょうか? 生まれた時から独りだった精霊族のボクには分からない感情です』
幼馴染が特別な存在だということは否定しないが、オレは幼馴染だから、「高田栞」を好きなのではないし、兄貴も恐らくそうだろう。
何より、「シオリ」と「高田栞」は気配が同一なだけの、完全に別の人間だとオレは思っている。
だが、兄貴は黒髪の精霊族の問いかけには答えず……。
「いずれにしても、キミの主人は、栞様が受け入れる気になった人間であることには変わりないが、俺が認めた人間ではないとだけ言っておこうか」
栞の婚約者候補について、初めて否定的なことを口にしたのだった。
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