正射必中
両足を肩幅の感覚で外八文字に開く。
―――― 足踏み
開いた足に体重を乗せ、姿勢を真っすぐに伸ばしながら、ゆっくりと確実に呼吸を整えていく。
呼吸の乱れは心の乱れだ。
気持ちを落ち着かせながら、頭から爪先、指の先端まで全て意識して、構える。
―――― 胴造り
「取懸け」で右手を整え、左手の形である「手の内」を作る。
そして、頭を固定し、標的を見定めた。
―――― 弓構え
形を崩さないように肩の力を抜いた状態で、両拳を頭の上まで持ち上げる。
弓はないため重さはない。
だが、この両手はその感覚を記憶している。
―――― 打起し
打起こした位置から弓を押し、弦を引いて、両拳を左右に均等に開きながら引き下ろす。
―――― 引分け
引分けが完成し、後は、機会を待つのみ。
ただ無心に、見えない弓の弦を引き続ける。
もう何千、何万回と繰り返した動作と形。
そこにソレらがなくとも、この身体が覚えていた。
―――― 会
そして、手から矢を離すために……。
「激流の矢」
「離れ」となる、最後の一言を紡ぐ。
だが、当たらない。
俺の放った魔法は、当たる直前で回避されてしまったのだ。
矢が当たる映像は見えていたのに、実際の標的は、大人しく静止をしていなかった。
その事実に、思わず、舌打ちをしたくなる。
「おいおい、そこまで残心を崩しちゃ、品格が足りねえって判断されるぞ?」
その言葉で、気付いた。
その単語は、日常生活に使うことなどほとんどない。
―――― 残心
総仕上げとも言える心得。
確かに、今回は、それができていたとは言い難い。
気を抜いたわけではなかった。
だが、これは弓道ではなく、魔法だ。
だから、「残心」や「残身」に拘る必要はないのだが……。
「貴方は一体……?」
そう口にしていた。
それを知る人間は限られている。
ソレに拘る人間も。
少なくとも弓道経験者……、弓道を知る者でなければ、反応しない部分だ。
そうでなければ「残心」という言葉に対して、「品格」と結びつけることはないだろう。
「面白いモノを見せてくれたな。その礼をくれてやろう」
だが、俺の問いかけを無視して、紅い髪の男が両足を開いて立つ。
「なっ!?」
その形に見覚えがあった。
いや、忘れるはずがない。
人間界で何度も見て、繰り返しこの両の目に焼き付けた。
瞼を閉じても浮かび上がる基本姿勢であり、自分が思い描いた理想形でもある。
「あ、貴方はまさか……」
だが、ソレを言い終わることはできなかった。
男の手から、黒い炎の矢が放たれる。
だが……。
『何、ボーっとしてるんですか、貴方は!?』
そんな声によって、その矢は掻き消されてしまった。
「せ、セヴェロ!? お前、さっきから……」
助けられたことは分かっている。
だが、一言物申したくなった。
紅い髪の男は、俺のお返しとばかりに射法八節の動作をしたのだ。
そして、種類は違うが、俺と同じように弓矢ではなく魔法を放った。
心得のある人間たちによる似たような動きではあったが、見る目がある人間が見れば分かることだろう。
同じ「射法八節」であるはずなのに、そこには天と地ほどの差があった。
その技術、知識的には大差がないと思いたいが、その根底となる精神が全く違ったのだ。
そして、セヴェロがあの魔法を掻き消さなければ、俺はまともに魔法を食らっていたことだろう。
だが、明らかに威力があると分かっているその魔法を食らってでも、あの完成形を見たかったと思ってしまうのは仕方ない。
人間界で、弓道という世界に足を踏み入れた人間ならば、先ほどの形がどれほど完成されたものだったのかが分かるはずなのだから。
まさに、心技体が揃った理想の姿勢。
目の前で整えられた現代の主流とも言われている正面打ち起こしの射形は、経験者から見れば、まさに、「正射必中」の名に相応しい形と言えた。
そして、余計な介入がなければ、先ほどの俺のような中途半端な形ではなく、その残心にまで注意を払ったことだろう。
それを思えば、惜しかったと思う。
もっと見たかったとも思ってしまう。
もう二度と見ることができない、自分以外の人間が弓を引いた姿だったのだから。
それは郷愁にも似た思い。
『どう見たって格が違う魔法でしょう!? なんで、そんな人に正面からぶつかろうとしているんですか!? ルーフィス嬢やヴァルナ嬢の手加減された魔法とは違うんです!! 当たれば、アーキスフィーロ様だって、その身体に傷が入りますよ!!』
だが、その邪魔をしたセヴェロは俺の胸元を掴んで持ち上げた。
本気で怒っていることは分かるが、俺だって怒りたい。
何故、もっと見せてくれなかった?
もう二度と見ることはできないのに。
形だけ真似はできても、その精神までは似せるどころか、近付くことすらできる気がしない。
「この国の宰相の親類か?」
だが、そんな俺の気持ちを無視して、紅い髪の男はセヴェロに向かって問いかけた。
『いいえ、違いますよ』
セヴェロは当然のように答える。
実際、血縁関係は皆無のはずだ。
だが、何故、この男はそう思った?
そこで、あることに気付く。
紅い髪の男は、俺ではなくセヴェロの顔をじっと見ていたことに。
そして――――。
「ああ、なんだ。お前は、アリッサムから解放された実験動物か」
そんな言葉を口にする。
アリッサム?
消えたと言われている魔法国家の名前だ。
何故、この男はそう思った?
そして、「トムラーム」とはなんだ?
だが、俺の胸元を掴んで持ち上げていたセヴェロの手が不意に緩んだ。
『あ?』
低い声。
あまりにもいつもと違い過ぎて、それが目の前の従僕の口から出たと気付くまでに数秒を要した。
その腕を中心に冷気が漂っている気がするのは気のせいではないだろう。
「その反応なら、間違いないな。アリッサムの『実験動物』。それも、運良く、宿主を見つけたタイプか」
冷え冷えとした空気の中、紅い髪の男はまるで面白い玩具を見つけたかのように笑った。
『何のことか分かりかねますね』
セヴェロはその青い瞳も相まって、酷く冷えた視線を男に向ける。
三年以上の付き合いではあるが、この従僕のこんな瞳は初めて見る気がした。
その顔で、そんな瞳はして欲しくない。
「粗方、回収させたはずだったんだがな。5匹、逃げられたと聞いている。尤も、飼育されていたヤツが野生で生きていけるはずもなく、3匹は既に魔獣の餌になったらしい」
紅い髪の男は楽し気に語っているが、これは、まさか、セヴェロの話か?
そう言えば、出会った時はかなり弱っていた。
だから、俺と契約することになったのだ。
だが、出会う前の話は聞いたこともなかった。
誰にだって、語りたくない過去の一つや二つはあるだろう。
だから、あえて聞かなかったのだが……。
『お前、ヤツらの仲間か?』
それは、これまでのセヴェロの声ではなかった。
だが、どこかで聞いたことはある。
あれは確か……?
「『ヤツら』がどこにかかっているか分からんが、アリッサムの精霊族研究者を名乗っていた男のことは知っている」
『そうか……。ヤツらの……』
セヴェロの手が完全に俺から離れ……。
『できれば、会いたくなかったんだがなあ……』
ゆらりと紅い髪の男を向く。
明らかに普通ではない様子のセヴェロを見て、紅い髪の男はその口を歪める。
―――― 嫌な予感がした。
「セヴェロ、待て!!」
さっきはセヴェロが俺を止めていた。
だが、今度は、逆だ。
俺がセヴェロを止めるために声を上げ……。
「太古の契約に基づき、闇の大陸神の加護を受けし血族が告げる」
その言葉で、全ての時が止まった気がした。
動こうとしていたセヴェロだけでない。
近くにいた俺も一緒に。
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