青の記憶
『頑張れ、頑張れ、が、ん、ば、れ~』
「セヴェロ、煩い。気が散る。黙れ」
『え~? せっかく、応援しているのに~』
契約の間に入って暫く……。
こんなやりとりが何度か続いていた。
セヴェロさんは日本語が読めないし、書くこともできない。
だから、日本語の書物を調べながら、ウォルダンテ大陸言語で文章を纏めることができないのだ。
そして、暇になると、どうしても話がしたい人らしい。
まあ、それはアーキスフィーロさまの書斎にいた頃から知っていたことなので、気にならない。
わたしは、自分に任された仕事をするのみである。
目の前の書類に向き合って、ルーフィスさんが出してくれた書物を捲りながら、ウォルダンテ大陸言語に書き直していく。
この独特の文字がなんとも書きにくい。
そして、アルファベットよりも数が多いために、ちゃんと翻訳できているかが不安になってしまう。
そこでふと思い至った。
「セヴェロさん、お時間があるのでしたら、わたしの文章の推敲をお願いできますか?」
わたしは日本語を読めるし書くこともできるけど、ウォルダンテ大陸言語については、まだ勉強中である。
それならば、もっとウォルダンテ大陸言語を知っている人に文章を推敲してもらえば、間違いが減るだろう。
『え~? シオリ様の文章、推敲、要ります? アーキスフィーロ様の方なら分かるのですが』
「先ほどから、ルーフィスさんより誤字脱字の指摘を何度も受けております」
そう言いながら、既に何ヶ所か赤ペン……いや、赤色インクで訂正の入ったわたしの文章を渡す。
『あ~、これは、文法的な話ではなく、単語的な部分ですね。承知しました。シオリ様の文章を逸早く、ボクが見せていただきましょう』
もっとごねるかと思えば、意外にもセヴェロさんは引き受けてくれた。
それだけ、暇だったのかもしれない。
まあ、変な応援ソングを自作されるよりはマシだと思う。
『しかし、これは何ですか? 魔獣?』
「いえ、人間界の生き物です」
わたしがセヴェロさんに渡したのは、「ウサギ」について記録したものだった。
いや、お題が、「愛玩動物としてのウサギについて」だったから、仕方ない。
ルーフィスさんから渡された動物図鑑を片手に、ペットとしてのウサギについていろいろ書いたのだ。
『特徴として耳が長い……。長耳族でしょうか?』
思わず、褐色肌の青年を思い出す。
確かに耳は長いが、ウサギとはまったく違う。
「えっと、ウサギというのは、この本に……」
『シオリ様』
わたしが動物図鑑を開いて見せようとしたら、何故か、セヴェロさんに止められた。
「シオリ様が描いてください」
え?
思わず、そう返答しかかった。
『シオリ様は絵がお上手なのでしょう? それならば、ボクは、それが見たいです』
「絵は趣味の範囲でしかないですよ」
ルーフィスさんが持っていた動物図鑑はカラーの写真付きだった。
だから、わざわざ絵にするよりは、ずっと正しい姿を見ることができるのだ。
それに、わたしが絵を描くなんて一体、どこから……って、セヴェロさんならわたしの身内の心の声を聞くだけで良いのか。
『趣味の範囲で良いのです。単純にボクが、貴女の絵を見たいだけですから』
なんで、皆、わたしが絵を描くと知ったら、それを見たがるのだろう?
この世界には娯楽が少ないから?
でも、筆記具は充実している。
黒だけでなく、かなりの色数もあるのだ。
それに、肖像画家を生業にしている人だっている。
それなのに、素人の絵を見たがるなんて、本当に不思議だよね。
でも、見たいと言うなら、描くけど……。
『そんなに悩まれるとは思いませんでした』
「いえ、素人の絵で良いと言う理由が分からなくて……」
「「『素人? 』」」
何故か、三人の声が重なった。
『あ~、シオリ様。本当の素人は、人と会話しながら、この本に載っている絵を丸写しする技術なんて持ってないと思いますよ?』
セヴェロさんはどこか呆れながら……。
「シオリ嬢は絵が上手なことは知っていましたが、ここまでとは思っておりませんでした」
アーキスフィーロさまは感心したように……。
「栞様は、自分の能力を過小評価していると思われます」
そして、ルーフィスさんはいつものように微笑みながらそんなことを言った。
「でも、見たままを描くだけですよ?」
わたしは、話しながら完成した絵を見せる。
そんなことはルーフィスさんだってできることだ。
寧ろ、わたしよりも技術があるだろう。
ヴァルナさんは、どうも棒人間を描くイメージがなかなか抜けない。
多分、真面目に描けば上手いだろうと思っているのだけど、描いてくれないのだ。
『シオリ様の目には複写機でも備わっているのですか? その見たままを描くことが難しいと言うのに。アーキスフィーロ様なんて、チュウガクの時、第五王子殿下の顔を描くという課題で、「ムンクの叫び」を描いたとまで言われたらしいですよ?』
おおう。
ノルウェーの画家であるエドヴァルド・ムンクの名作ですね。
逆にあの絵を描ける方が凄いと思うのです。
だけど、第五王子殿下の御顔は、あんなに絶望的な叫びを聞いた人のような顔はしていなかったはずだ。
「余計なことを言うな、セヴェロ」
『え~? アーキスフィーロ様が、ビジュツというものが苦手なのは、本当のことでしょう? 不器用なんですから』
あれ?
それは意外。
なんでも器用にこなしそうなのに。
『小学校の頃、ズガコウサクの時間に、ハンガ? ……を、小刀で彫ろうとして……』
もしかして、これは痛い話に続くのでしょうか?
不器用さんの御約束ではある。
そして、版画なら、使うのは小刀ではなく、多分、彫刻刀ではないだろうか?
『力を入れ過ぎて、数箇所、板を貫いてしまったらしいです。その中の二箇所は手の施しようのない状態になってしまい、自腹で、新たに板を買うことになったとか』
彫り過ぎはあると思うけれど、手の施しようのない状態ってどれほどなのか?
それはそれで、見てみたいと思う。
「なんで、お前がそんな話まで知っているんだ!?」
『やだな~。ボクは貴方の記憶を隅々まで視た精霊族ですよ? 全てを理解していなくても前後の状況や言葉から、それをシオリ様にお伝えすることなんて、造作もないことです』
悪びれる様子もなく、セヴェロさんはそんなことを言った。
『シオリ様の絵のことを知ったのも、その時代の主人の記憶です』
「え?」
あ、つい、言ってしまった。
『チュウガクイチネンセイの時、廊下に静物画が貼りだされたことがあったでしょう? その記憶を視ました。あの絵が、もう、6年も昔の話だと知って驚いたのです』
中学一年生の時に貼りだされた絵?
ああ、アレだ。
確か、古代ローマ風な石膏像を鉛筆や木炭デッサンの次ぐらいに描いた水彩画のことだろう。
わざと皺を寄せた布の上に、自分で好きに並べた果物や瓶の絵を描いたことを思い出した。
実は、美味しそうなリンゴや形が独特なレモン、意外と描くのが大変だったバナナよりも、瓶の透明感や光沢、布の皺に全力を尽くした覚えがある。
まだ見たままよりも、イラストのような絵に近い時代だった。
中学生らしい妙な自己主張と技術の未熟さが表れていたような絵で、今にして思えば、アレが誰もが見る場所に貼りだされていたのは、かなり恥ずかしいことだったのではないだろうか?
そして、廊下に貼りだされたことで、変に自信を持っちゃったんだよね。
もっと絵が上手い人なんていっぱいいるのに。
でも、なんでそんな絵がアーキスフィーロさまの記憶に残っていたのだろうか?
「あの絵に使われていた青が……」
アーキスフィーロさまがポツリと呟く。
青?
「ローダンセの象徴色にとても、よく似ていたのです」
あの時の絵に使った青は……、確か、瓶だった。
ジュースとかお酒、化粧などの瓶が家にあれば持ってくるようにという話だったので、母が持っていた青い綺麗な日本酒の瓶を選んだ覚えがある。
今にして思えば、あれ、中身は既になかった。
いや、中身があれば持たせないか。
そして、化粧品、香水などのお洒落な瓶を持って来た女子生徒が多い中で、日本酒の瓶を持って行ったわたしは浮いていたかもしれない。
お酒の瓶も綺麗なのが多いのだけどね。
しかし、家に瓶がなかった生徒のために教師が準備していた瓶は、ワインとか、ビールはまだ分かるのだけど、胃腸薬の瓶とかはどうかと思うのです。
微妙に中身が残っていたラッパの印が付いた薬瓶を渡された生徒は困っていたよ。
わたしが持って行った日本酒の瓶は、青玉のような色合いだった。
それが、ローダンセの象徴色に見えたのか。
国旗や王家の紋章にも使われる色だし……、玉座の色でもある。
確かに謁見の間にあった玉座の色は、似ていたかもしれない。
あんな拙い絵でも、アーキスフィーロさまの記憶に残った理由としては納得できるものだった。
「その絵は、私、残念ながら見たことがありませんね」
他校の生徒でしたからね。
逆に見ていた方が驚きます。
母が持っている可能性があるから、見る機会はあるかもしれないけど。
「ごく普通の絵ですよ」
わたしがルーフィスさんに向かってそう言うと……。
「そんなことはありません。実に綺麗な絵でした」
横から、アーキスフィーロさまがそんなことを言ってくれた。
自分や友人たち以外の目に止まることがないと思っていたけれど、その頃、交流もなかった人が褒めてくれるのは素直に嬉しい。
「お褒めくださりありがとうございます、アーキスフィーロさま」
だから、素直に御礼を口にしたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




