子息は三歳になる
「その貴族子息は、三歳まで二人目の乳母に育てられました。最初の乳母と違い、二人目の乳母はその子息を置いて行方不明になることもなく、ずっとその子息から離れることはなかったのです」
アーキスフィーロさまの話は続く。
生後一月で育児放棄の目に遭い、気まぐれな精霊族の言葉のもと、王家が捜索し、発見するまで、そのことに気付かれなかった。
この時点で、十分すぎるほど壮絶な人生だったのに、まだその先があるらしい。
わたしは、さらに気合を入れてこの先の話に備えることにしたのだった。
****
その貴族子息は、新たに雇われた乳母に育てられることになった。
だが、その乳母も、始めは、その不気味な乳児から距離を取り、最低限の世話しかしていなかったらしい。
それでも、その乳児が泣くたびに、周囲の空気が変わることはすぐに理解できたようだ。
そのため、乳母の仕事は、その子息を泣かせないことが中心となる。
その子息が泣きさえしなければ、魔法を使われるような圧迫感がないのだから。
傍からは乳母の献身的な世話に見えたことだろう。
実際は、乳児を泣かせないようにしていただけで、そこに愛情と呼べるものはなかったのだが。
所詮は、他人の子だ。
それは当然の話だった。
世話をして命を繋いでくれただけでもありがたい話でもある。
だが、誰も気付かない間に、その乳母の様子がおかしくなっていたらしい。
それが、いつからかだったのかは分からない。
毎月提出されていた報告書にも、違和感はなかったとは聞いている。
貴族が我が子のために雇う乳母と呼ばれる育児係は、乳児期のみでその役目を終えることがほとんどであるそうだ。
幼児期に入れば、子守と呼ばれる保育係に代わり、その後、家庭教師と呼ばれる教育係へと子育ての役割を引き継いでいく。
そして、一般的に乳児期とは、離乳が終わる時期だと言われていた。
人間界では、1歳ごろまでが目安だとされているが、この世界では、半年ほどで離乳が完了することも珍しくないと聞いている。
そのため、乳母と呼ばれる職種の雇用期間は、生後半年から一年と短い期間であることが多い。
その間、自分が産んだ子と一緒に世話をすることもあるが、今度の乳母も平民であったため、貴族の家に連れてくることは許されなかったらしい。
その乳母は、乳離れした我が子を自分の夫たちに預け、住み込みでその子息の世話をしていたという。
長くても一年の仕事だ。
だが、その子息の二人目の乳母は、何故か、三年もの間、乳母であり続けたという。
その子息の離乳が完了しなかったわけでない。
その乳母が、世話をしている子息のことを、片時も離さなくなったためだった。
やり取りは最低限、その乳母が部屋から出るのは、二人分の食事を受け取るために厨房に行く時のみ。
例の報告書については、当主に命令された家令が、子息が過ごしている部屋まで取りに行っていたらしい。
その時に、子息の健康状態も確認されていたそうだ。
だから、誰もその異常に気付くことがなかった。
意外にも、そのことに気付いたのは、その子息の兄だったらしい。
歩けるようになったはずなのに、いつまで経っても、抱き上げられている弟の状態と、その乳母の表情を見て、異様だと思ったそうだ。
その兄は、弟の部屋に来たことはなかった。
だが、食事を受け取るために乳母が、子息を抱いて厨房まで下りてくる姿を、何度か見かけたらしい。
見も知らない女性が、幼子を抱えて我が家にいたために、そのことを侍従に確認したそうだ。
同時に、その女性に抱き上げられていたのが、自分の弟ということも、告げられたとも聞いている。
そして、それを聞いた兄が癇癪を起こしたことで発覚したらしい。
兄は、離乳後、すぐに乳母から離され、子守に世話を任された後、家庭教師がついた。
ごく普通の、貴族子息が育つ流れである。
だが兄は、自分は貴族子息として基本的な教育を施されるようになったというのに、いつまでも乳母に甘えてばかりの弟はズルいと思ったそうだ。
子息とその兄の年齢差は4歳。
7歳ならば、教育はもう必須である。
早ければ、貴族子息は2,3歳から教育を施され、遅くとも5歳になる頃は、そのほとんどが学び始めている。
兄はそれが気に食わなかった。
幼い弟は甘やかされ、自分は勉強と言う名の苦行を背負わされていると思い込んだのだ。
だから兄は、その子息が「実弟ではない」と言い始めた。
それまで会ったこともなかったために、子供の言い分としては、分からなくはない。
そんな七つの子供の言葉など捨て置けば良かったのだが、父親である当主も、何か思うところがあったのだろう。
見れば、乳母の様子は確かにおかしい。
その表情は、単純に幼い子供を愛でるような目ではないことは分かる。
さらに、抱き上げたままの子息をその腕から降ろさせようとしただけで、貴族が相手だと言うのに、半狂乱になるなど、既にまともではなかった。
そして、その子息は三歳にして「親子の証明」と呼ばれる儀式をすることになる。
その儀式に臨むのは、子息とその両親。
立会人は、数人の神官。
貴族の儀式として、神官が立ち会うことは珍しくない。
だが、その中に一人の女性の神官……、神女がいたことで、状況が悪化した。
その神女は、子息を見るなり、なんといきなり抱き上げ、頬擦りを始めたらしい。
それまで落ち着いていた女性が、その子息を見ただけで変貌したのだ。
だが、幸いにして、中心となってその儀式を執り行うことになっていた若き正神官の手により、その場が混乱することはなかった。
様子が変わってしまった神女を制し、その部屋から退室させることで、事態の収束を図ったそうだ。
その神女も、子息から離れたことで、落ち着きを取り戻したらしい。
そして、その正神官の口から、その子息の眼には一部の精霊族が持つという「魅惑の魔眼」が備わっていることを告げられたのだ。
純血の精霊族ではない上、子息の肉体は人間であるために、その魔眼は完全ではなく、効果があるのは人間、それも異性のみにしか効かないと言われたことは、今でも鮮明に覚えている。
それだけ、その正神官は印象強い存在だった。
あれ以来、数名の神官を見たが、あれほどの神官には未だ会ったことはない。
その正神官によると、先ほどの神女も、子息の二人目の乳母である女性も、その眼によって、精神異常を引き起こしたとも言っていた。
当時三歳の子息には、その意味がまだ分からなかった。
それまでまともに教育をされていなかったため、言葉そのものは覚えることができても、理解ができなかったのだ。
子息があの時の正神官の言葉を本当の意味で理解できたのは、それからかなり時間をおいてからとなる。
そんな状況の中で儀式は行われ、結果として実子の証明はなされた。
その子息は、間違いなくこの家の子だったらしい。
だが、子息は、初めて会う「父親」と「母親」という人間たちに対して、何の感情も抱かなかった。
そんな存在がいることも知らなかったのだ。
子息が知るのは、二人目の乳母だけ。
それ以外では、厨房の料理人ぐらいだろう。
本当ならば、部屋を掃除する女中ぐらいには会ってもおかしくはなかっただろうが、それらは乳母が全て行っていた。
三年にも亘り、子息に「魅惑」されていたその乳母が言うには、子息との時間を誰にも邪魔されたくなかったから……らしい。
だが、その生活環境の異常さも、世間を知らない子息には分からなかった。
だから、初めて両親に会った時も、変な顔をしていたことだろう。
尤も、父親は苦々しい顔を崩さず、母親はそれ以降一度も顔を合わせていない。
始めから親子関係としても破綻していたのだ。
そうでなければ、「親子の証明」などという儀式も行うことはなかっただろう。
そして、実子と証明された子息の生活はこの日から一変する。
その乳母から引き離されることは当然だったが、三歳にして、貴族の教育が始められることになったのだ。
それは当主の意向でもあった。
長子は勉強嫌いだった。
そのために七歳になったというのに、遅々として進んでおらず、読み書きすら怪しいほどだったらしい。
勉強嫌いはともかく、最低限の知識を持つ意識もなければ貴族の子息として、社交の場に出すことは難しくなる。
まだ七歳ではあるが、その時点で学ぶ姿勢を持たないのだ。
そして、この時期の基礎を疎かにすれば、その先に繋げることが、難しくなることは分かりきったことである。
勿論、後に努力してそれらを覆す人間はいる。
だが、その長子は、当主の目から見ても、そんなタイプには見えなかった。
他者を蹴落として自分をよく見せようとする。
今回の話の発端も、自分と四つも下の弟と比較しての訴えだった。
長子は、今後も期待はできない。
そのため、次子にも教育をする必要があると当主は考えた。
跡継ぎは兄に据え、弟にはその補佐をさせて家を回せば、問題なく家督継承することもできるだろう。
だが、その使い方は勿体ない。
なにしろ、次子は神官が認める「魅惑の魔眼」持ちだ。
そして、三歳の時点でそこまで容姿も悪くない。
何より、王家からも、生まれて間もない頃から、何故か目を掛けられていた。
その上で、高度な知識を身に着けさせれば、高位の家であっても、令嬢の方から嫁入り、婿入りを懇願されることも考えられる。
多少、気味が悪い息子でも、家のために利用できると判断したらしい。
そんな当主の甘い考えは、半分当たって、半分外れることになる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




