未来の幻視
「お帰りなさいませ」
夜遅くに戻った俺を迎えてくれたのは、黒髪黒い瞳の女性ではなく……、青み掛かった薄い緑髪に紅い瞳を持つ顔の整った侍女、ルーフィス嬢だった。
一瞬、何が起こったのか分からず、困惑する。
魔獣退治から帰った後に「お帰り」と言われた記憶などない。
しかも、女性から。
それだけで、自分の私室であるはずなのに、全く知らない場所へ来たような違和感があった。
『ただいま、戻りました、ルーフィス嬢。ほら、アーキスフィーロ様も帰宅後の挨拶!!』
後ろから、従僕に足蹴を食らって、俺も状況に気付く。
この侍女は、俺たちの戻りを待っていてくれたらしい。
「ただいま、戻りました」
それだけをなんとか口にする。
誰かに向かってただいまなど、ほとんど口にしたことがない。
昨夜、シオリ嬢に言ったぐらいだった。
「2時間前までなら、主人も起きていたのですが、その……」
気まずそうに目を逸らすルーフィス嬢。
確かに夜も更けている。
令嬢が起きているような時間ではないだろう。
『あ~、シオリ様も待たせていたのか~。アーキスフィーロ様、だから、もっと早く戻ろうって言ったじゃないですか』
そうは言われても、目標額まで稼げた自信がなかったのだから仕方ない。
折角、魔獣を狩っても足りなかったら意味がないではないか。
『ルーフィス嬢。シオリ様は平均、何刻くらいで眠られますか?』
セヴェロが余計な確認をする。
「そうですね。主人は午後10時には寝入るようです」
『早っ!? 何ですか? その健康優良児っぷりは』
確かに早い。
この国の平均就寝時間は日が替わるぐらいだと聞いている。
しかし、健康優良児と言えるほど早いとは思わなかった。
「汗を流されますか?」
「いや、このまま……」
寝ると言いかけて、自身が魔獣の返り血塗れであることに気付く。
「そのままでは寝具を汚してしまうかと存じます」
女性は血を見るのも嫌なものだと聞いていたが、先ほどからこの侍女はいつもと同じ表情のまま、会話を続けていく。
「そうだな。セヴェロ、湯を浴びる」
『おや、珍しい。血濡れの寝具も気にしない御仁が』
確かに気にしたこともなかった。
だが、自分以外の人間から指摘されたことを、無視するわけにもいかない。
「御許可を頂ければ、私がご準備いたしますが」
「いや、シャワーを浴びるだけだから、一人で大丈夫だ」
気が変わって、湯船に浸かりたくなっても、お湯を張るぐらいのことはできる。
「承知いたしました」
ルーフィス嬢は一礼して後ろに下がる。
しかし、そこで奇妙なものが目に入った。
「く~」
……ここは、書斎である。
だから、厳密に言えば私室ではないのだが、そこでシオリ嬢が何故か、眠っていたのだ。
「ルーフィス嬢?」
念のために確認する。
これが幻覚ではないことを祈って。
「2時間前までは起きていらっしゃったのですが……」
「それは先ほど聞いた。だが……」
眠ってしまう前に部屋に連れて行くのが、侍女の仕事ではないだろうか?
そして、それをこの有能な侍女が考えないとも思えなかった。
「どうしても、ここで待ちたいとおっしゃられて……」
「それでも、女性がこんな……」
無防備な寝顔を晒しても良いとは思えなかった。
いくらなんでも、警戒心がないにも程がある。
主人も、その侍女も。
『良いじゃないですか~。せっかく待っててくださったのですから、そう固いこと言わなくても』
場を読まないような声。
『愛ですよ、愛。素直に受け止めましょうよ~』
そう言いながら、シオリ嬢に向かって行く従僕。
「待て。セヴェロ。何を企んでいる?」
『何って……、シオリ嬢を運ぶんですよ。このままにしておけないし、ルーフィス嬢に運ばせるわけにはいかないでしょう?』
きょとんとした顔を向けるが、その口元は笑っている。
「お前なんかに任せられるか!! 俺が運ぶ!!」
そんな危険なことはさせられなかった。
この精霊族は何が気に入ったのか、俺には従う。
だが、危険がないわけではなかった。
『え~、でも、シオリ嬢にべっとりとその返り血を付けるんですか?』
「そのまま!! すぐに戻る!!」
『仕方ないな~。40秒ほどで戻ってくださいね~』
そんな無茶を口にしたが、無視した。
どこの映画の影響だ?
人間界に行ったことがないお前は観たことがないはずだよな?
****
『それで? 何を企んでいるんですか?』
「企みなど……。私は、主人のありのままの姿をお見せしたいと思っただけでございます」
『ありのまま……、ねえ』
黒髪の従僕は、エメラルドグリーンの髪の侍女に向かって薄い笑みを零す。
『眠ってしまったシオリ様も、貴女なら部屋に運べるのではないですか? ルーフィス嬢』
普通に考えれば、侍女にそんな力仕事などさせられないだろう。
起きている人間ならともかく、眠っているのだ。
それだけで重さは激増する。
「勿論、運べますよ」
だが、この侍女は即答した。
できるのにしない。
寝姿を異性に晒したい淑女などいるはずがないし、それを許す侍女など論外だ。
それでも、この侍女は平然としている。
そこに何の意味があるのか、従僕はすぐに分からなかった。
「ただ、それではアーキスフィーロ様の意識は変わらないでしょう?」
『確かに』
従僕はクッと笑う。
これまで、この部屋で、あの黒髪の主人を待つ人間は誰もいなかった。
だが、今は、違う。
彼の帰りを待つ者が、彼の無事を祈る者がいるのだ。
先ほど、そのことに気付いたあの主人は、確かに今後変わっていくことだろう。
これ以上、心配させたくないと思うのなら。
『一体、どこからどこまで、貴女たちの思惑通りなんですかね?』
そう顔を近づける従僕。
だが、侍女はその瞳を逸らすことなく笑みを返す。
「全ては敬愛すべき主人のためです」
そして、決して曲がることない思いを口にする。
『ヴァルナ嬢を見張りに付けたのは、貴女ですか?』
さらに重ねて問う。
「いいえ。あれは、ヴァルナが勝手にしたことですよ」
この侍女は行先と目的を告げただけ。
たったそれだけで、あの濃藍髪の侍女は、自ら、夜にこの家から出たという。
それを俄かに信じられるかと問われたら、信じるしかないのだろう。
『それでも、ヴァルナ嬢を止めなかったですよね?』
「止める必要性を感じませんでしたから」
そう言いながら、互いの息がかかるほどの距離であるにも関わらず、侍女は優雅に微笑んだ。
―――― 食えない
従僕にあるのはそんな感想であった。
この美しい侍女はただそこにいるだけで、精霊族の血を引く従僕を圧倒する。
常に微笑んでいるため、もう一人の侍女ほど警戒心が強そうには見えない。
だが、他者を踏み込ませない迫力を覚えるほどに。
―――― いっそ、そこで寝ている主人の姿に変えてやろうか?
水鏡族はその姿も性別も自由に変えることができる。
すぐ近くにモデルがいる人間の姿にその身を変えることなど、難しくはない。
だが、それをすれば、間違いなくこの侍女の怒りを買うことだろう。
最近、結ばれたばかりの主従とは思えないほど、この侍女の忠誠は既に、長年のそれにしか見えないから。
精霊族の血が濃い自分を殺すことなど容易ではないはずだが、本気になったこの侍女を前に、何故か生き延びる未来が幻視できなかった。
つまりは、それだけの実力を隠しているということだ。
まるで、暗殺者のような、侍女。
それが、この邸内に二人もいる。
そのことが、この従僕の判断を迷わせている。
従僕が外で、もう一人の侍女の気配に気付けたのも偶然に近い。
魔獣を狩る主人を観察したかったのか、監視したかったのかも分からないが、恐らくは、「遠見」を使ったのだと思っている。
離れた場所からでも、その場所の様子を窺おうとするなど、並の人間の発想ではない。
本来は、守護兵など、警備する人間が習得するような魔法だ。
あまりにも、自然に偽装されていたから、すぐに気付けなかったのは、不覚としか言いようもなかった。
少なくとも、侍女には不要の能力だと思う。
護衛?
いや、やはり彼女たちの本業は暗殺者だろう。
気付かれずに標的の背後に忍び寄り、その命を迷わず刈り取る人間。
『ルーフィス嬢。あまりアーキスフィーロ様を追い詰めないでくださいね。あの人、本当に脆いですから』
思わず、従僕はそう口にしていた。
そんなことを言っても無駄だと知りながら。
「アーキスフィーロ様が我が主人を裏切らない限りは、そんなに酷いことをする予定はないですよ」
その返答を耳にして、従僕は思った。
―――― 主人の未来は厳しいモノになる
と。
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