Eine kleine Nachtmusik
最初に来た時と同じように、従僕の手によって、扉がゆっくりと開かれる。
その時は側に守るべき存在があったが、今はそれすらもない。
その代わりにトルクスタン王子殿下の従者はいるが、彼は自身を確立しており、俺の手など借りずに身を護れるものだろうと思っている。
品の良さを思わせながらも、その立ち振る舞いには隙が無い。
恐らくは、本来、護衛を兼ねた従者だろう。
不意打ちで襲い掛かっても、逆に制圧されるような未来が予測できる相手というのは、俺にとってもかなり珍しく思える。
重厚な扉を開けると、世界が変わった。
ギラギラと光り輝く照明の下で、ドロドロとした醜い悪意を内に秘めた人々が群れを成している。
見た目だけは煌びやかだが、そこには腐臭が漂っていて吐き気がする。
今は、三拍子の円舞曲が流れているため、人々は、踊ったり、歓談をしたりしているようだ。
そのため、俺が戻ってきたことにも気付かれていなかった。
注目を浴びなかったことは幸いだろう。
万一、すぐに見つかれば、確実にハイエナたち集りにくる。
本日社交デビューしたばかりの「歌姫」の詳細を知るために。
彼女が衆目に晒されることになったのは、王族の嫌がらせが発端ではあった。
だが、俺の相方として現れた以上、ある程度、人目に付くことは避けられなかっただろう。
それでも、誰にとっても予想外の結果ではあったと思う。
だから、これ以上、印象付けたくもなかった。
幸いにして、正妃殿下の侍女の手で、化粧と髪を整えられたためか、シオリ嬢は雰囲気がかなり違ったのだ。
デビュタントボール時は、いつもと印象は違うものの、シオリ嬢らしさは残されていたので、これは侍女の違いによるものだろうと思う。
尤も、ルーフィス嬢はシオリ嬢の専属侍女だ。
付き合いは短いかもしれないが、一緒にいる時間は、俺などよりも遥かに長い。
だからこそ、シオリ嬢の良さを最大限に引き出せるのだろう。
ある意味、あのままでなくて良かったのかもしれない。
俺の相方としてよりも、社交デビューしたての令嬢として目立つ可能性があったから。
この国で、一定年齢以上の貴族籍に身を置く者たちは、俺のことを「黒公子」と呼んでいるらしい。
貴族の息子であるため「公子」の表現に間違いはない。
だが、そこに見え隠れする嘲り。
それに気付けないほど鈍くはない。
一見、この髪と瞳を表している愛称。
だが、違う。
ロットベルク家の汚点。
不吉な影を纏う人間。
瞳に何も映さない。
そんな意味が込められているそうだ。
いろいろと考えるものである。
今まではそれを気にすることもなく生きてきた。
だが、これからはそうはいかなくなる。
自分の身だけを後生大事に護っていれば良い時期は過ぎたのだ。
一人の男性が、俺に気付いたようだ。
そこから、広がっていく不躾な視線。
これぐらいは覚悟の上だ。
嘲笑も、くだらない噂も、好きにすれば良い。
俺を見ることで、その間に少しでもあの「歌姫」から目と頭を逸らすことができれば、十分過ぎることだろう。
「トルクスタン王子殿下」
先ほどとは別の場所で寛いでいた王子殿下に声をかける。
どこにいても、この方が目立つのは、王族だからだろうか?
それとも自信に満ち溢れた立ち振る舞いのためだろうか?
「来たか、アーキスフィーロ」
「はい。お呼びでしょうか?」
琥珀色の瞳が俺に向けられた後、背後に視線が流される。
「一人か?」
「はい。申し訳ございませんが、そのためにトルクスタン王子殿下の忠臣をお一人、お借りしました」
こんな場所にシオリ嬢を連れて来ることなどできない。
彼女は俺と違うのだ。
人の悪意に晒されることも、好奇な視線を向けられることも、貶めるような話題に上げられることもできれば避けてもらいたい。
「それは構わないが、お前も、存外、過保護だったんだな」
「過保護?」
お前「も」ということは、他にも誰かがいるのだろう。
だが、過保護?
無関心、冷血漢、人でなしなどは言われたことはあるが、それと対極の位置にありそうな言葉を言われたのは多分、初めてだと思う。
「彼女はそんなに弱くないぞ」
トルクスタン王子殿下の言葉に思わず、顔を顰めたくなった。
「強い、弱いの話ではなく、この場に連れてくることは、私が嫌だっただけです」
彼女が強いことは分かっている。
多少の悪意ぐらいではものともしないことも。
だからといって、悪意を向けられる姿を俺が見たいわけではないのだ。
「それが過保護だというのに。お前の婚約者候補となったのだから、ある程度、環境に慣れさせるべきだろう?」
「こっ!?」
別方向から声がした。
その声に覚えがある。
大分、久しく聞いていなかった声。
「ああ、アーキスフィーロ。ジュニファス王子が、お前と話がしたいらしい」
今頃、気付いたかのようにそう言ったが、呼び出されたのはその件だった。
忘れていたはずがない。
だが、殿下が驚きの声を上げなければ、もう少し放置していた可能性はある。
もともとトルクスタン王子殿下にとって、俺とこの王子殿下を引き合わせるのも気が進まなかったはずだ。
この人が好い叔従父は、この王子殿下に対して良い印象を持っていないのだから。
「お久しぶりでございます。ジュニファス王子殿下」
「あ、ああ、久しぶりだね、アーキスフィーロ」
俺の方から声をかけると、分かりやすく表情が変わった。
ホッとしたような顔だ。
昔は、その穏やかな顔立ちに救われていたところはあるが、成長した今となっては、そんな感情も残っていない。
「お話があるとのこと。何の御用でしょうか?」
「あ、いや、ここでは……」
トルクスタン王子殿下の方を見ながら、王子殿下は気まずそうな声を漏らす。
俺と二人だけで話したいらしい。
愚かだな。
そんなことをすれば、ヤツらの餌になることも分からないようだ。
いや、この時点で十分、突き刺さるような視線を感じている。
「トルクスタン王子殿下。従者をこのまま、お借りできますか?」
俺は先ほどから付き添ってくれているトルクスタン王子殿下の従者を見ながらそう言った。
「正気か?」
何故?
トルクスタン王子殿下の言葉の意味が分からない。
いきなり正気を疑われるようなことを言ったか?
俺は従者を連れてきていない。
だから、先ほどから気配を完全に消すことができる彼をお借りしたいと思っただけなのだが……。
「ああ、いや、その男は癖が強いが大丈夫か?」
トルクスタン王子殿下は言葉を言い直した。
「はい」
「まあ、お前が良いなら、俺は止めないが……」
王族と二人だけで会うなど、自分の言葉をどう曲解されるかが分からない。
もともと高位の人間が周囲から人を下げて、会って話そうという方がおかしいのだ。
だが、俺の従僕はセヴェロしかいない。
ヤツは登城できるほどの身分を持っていないのだ。
そして、トルクスタン王子殿下が邪魔だというのなら、その従者に立ち会ってもらうしかなくなるだろう。
「アーキスフィーロ、僕は……」
「この場で話すなら、俺がいても良いのではないか?」
王族の言葉を遮るのはあまり歓迎されることではないが、その相手も他国の王族である。
しかも、正妃……、いや唯一の王妃の子であり、今、最もカルセオラリアの国王陛下に近い存在でもあった。
つまりは次期国王陛下だ。
カルセオラリアが中心国でなくなったとしても、側室の子でしかないジュニファス王子殿下よりは立場が上と見なされる。
「どうされますか? ジュニファス王子殿下。私はこのままここで話をしても問題ありませんが、もし、場所を変えたいのなら、トルクスタン王子殿下の従者を付けることだけお許しください」
俺の言葉に暫く茫然としていたジュニファス王子殿下だったが、そこが妥協案だと判断したのだろう。
「分かった。君の意思に従おう、アーキスフィーロ」
そう返事をしてくれたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




