ジュ・トゥ・ヴー
ゆったりと、どこか眠くなりそうな曲が終わった。
今は、栞の婚約者候補の男も、兄貴すらいない。
それなら、許される気がした。
「踊っていただけませんか? オレの主人」
オレがそう言いながら栞に手を差し出した。
本当は、舞踏会場で誘いたかったのだが、こればかりは仕方ない。
ある意味、縁がなかったのだ。
「そこは、淑女じゃないの?」
栞が困ったように笑いながらも、オレの手を取る。
「貴女は私の主人ですから」
流石に、そんな誘い方は許されないだろう。
この場には水尾さんも真央さんもいるのだ。
生温かい目を向けられているのは分かっているが、二人とも口を出さない。
まあ、オレの気持ちはだだ漏れているらしいからな。
見逃してくれるのだろう。
ありがたい。
「いや、女性をワルツに誘う言葉としての話だよ」
栞が窘めるようにそう言った。
「……確かに」
言われてみれば、ワルツの誘いとしては良くなかったかもしれない。
だが、今更、栞に向かって「淑女」なんて言いにくいから、やり直さないことにした。
「わたし、化粧も落ちているけど、良い?」
「練習の時は化粧をしていなかったじゃないですか」
今更だ。
それにオレは、先ほどまでの化粧よりは、素の栞の方が良い。
曲の前奏が流れ始める。
あまり練習してはいないが、聞き覚えはある曲だった。
「この曲は確か、『ジュ・トゥ・ヴー』だったよな?」
珍しく、兄貴が日本語訳を言わなかったから、日本でもその曲名なのだろう。
だから、逆に頭に残った。
「うん。エリック・サティ作、『ジュ・トゥ・ヴー』だよ。可愛い曲だよね」
栞が照れくさそうに笑った。
そうか。
栞はこんな曲が好きなのか。
確かに、可愛い曲ではある。
「なんで、この曲はカタカナなんだ? 他の曲は日本語訳されているよな?」
栞なら知っているのだろうか?
「日本人には気恥ずかしい意味だからじゃないかな?」
気恥ずかしい?
なんでだ?
だが、どうやら、意味は知っているらしい。
「なんて意味だ?」
一瞬、変な間があった。
だけど、栞は顔を上げ、オレの瞳を見ながら……。
「『お前が欲しい』」
どこか潤んだ瞳でそう言った。
「なっ!?」
完全なる奇襲攻撃。
予想もしなかった言葉と表情に、一瞬、オレの思考は真っ白になった。
「『Jeteveux』は、確か、フランス語でそんな意味だったはずだよ。英語なら、『I want you』?」
だが、続く言葉がオレを現実に戻す。
どうやら、先ほどの質問に対する答えだったらしい。
焦った。
慌てた。
思わず、抱き締めそうになった。
そんな衝動を我慢したオレの理性は褒められても良いだろう。
いや、本当のところは、思考が停止してしまっただけなのだが。
栞の言葉がもう少し遅かったら、ちょっと危なかったかもしれない。
「お前の発音はどうして、そう微妙なのだ?」
苦し紛れに、そんな言葉を捻り出す。
「そんなこと言われても困りますな~。わたしは自分が思ったまま、伝えただけなのに」
「思ったままって……」
ちょっと待て?
それはどういう意味だ?
翻訳の方か?
それとも、意味の方か?
それだけ聞くと、「オレが欲しい」って意味にも取れるぞ?
そのままくるくると回り続けた。
オレの思考もぐるぐる回る。
周囲にはまだ散り続けている先ほどの花。
ヴィーシニャとか言ったか。
この大陸固有の植物のようで、オレは知らなかった。
後で、調べてみても良いかもしれない。
まるで、栞のようだ。
くるくると無邪気に笑いながら、オレを翻弄し続ける白い花。
それが今、この腕の中にいる。
「綺麗だな」
思わず、そう口にしていた。
「うん、凄く綺麗だよね」
伝わらない。
この状況で、周囲の花だと思うのは何故だ?
オレは栞を見て言ったのに。
「お前のことだよ」
「ほへ?」
何故か、不思議そうな顔をされた。
「その白いボールガウン。お前に似合っているよ」
ずっと、そう言いたかった。
本当に可愛らしく、今、15歳だと言われても納得してしまうほどの可憐さと初々しさがある。
兄貴がやったヘアセットとメイク。
それを見ることができなかったのは本当に残念だった。
できれば、オレが飾りたかったのだが、オレしか、真央さんはともかく、水尾さんの化粧ができなかったんだから仕方ないよな。
「花嫁さんみたいでしょ?」
「……は?」
花嫁?
え?
花嫁?
「確かに、このドレスも綺麗だよね」
栞がそう言いながら笑ったから、オレの気持ちが伝わっていないことも悟った。
どうして、この女は気付かなくて良いことまで気付くのに、こっち方面は酷く、鈍感なんだ!?
だけど、花嫁?
「だけど、褒めてくれてありがとう。九十九もかっこいいよ。えんび服もよく似合っているね」
先ほどの「花嫁」発言が頭から離れなくて……。
「燕尾は体型が酷くなければ、大半、似合うもんだ」
思わず、そんなことを口にしていた。
せっかく、栞が褒めてくれたのに。
「そうかな? 許されるなら、今すぐ、紙と筆記具が欲しいぐらいなんだけど」
「お前らしい褒め言葉だな」
大絶賛されていることは理解した。
栞が絵に描きたいというのなら、彼女にとっては、かなり気に入ってくれたのだろう。
だがな~。
正装姿って、苦手なんだよ。
動きにくい服装だし、髪を固めているから、顔が微妙に突っ張っているし。
だから、すぐにでも解きたいぐらいなんだ。
だけど、慣れなければいけないんだろうな。
今後のことを考えれば。
「ねえ、九十九。お願いがあるんだけど」
曲も中盤に差し掛かった時、栞が突然、そんなことを口にする。
「なんだ?」
絵のモデルか?
「名前を呼んでくれる?」
違ったらしい。
「名前……、栞?」
そう言えば、最近、呼んでなかったな。
ずっと「シオリ様」だった。
「うん、ありがとう」
たったこれだけの言葉で、凄く喜ばれたのが分かる。
その表情も、漂ってきた体内魔気も。
その全てが愛おしくて……。
「栞、持ち上げるぞ」
「ほえ?」
返事も待たずに、持ち上げた。
本当は抱き締めたい。
その髪を、その頬を撫でたい。
何よりもその桜色の唇を奪いたい。
そんな想いを隠したくて。
「ふわあっ」
そんなオレの邪な想いにも気付かずに、栞は嬉しそうな声を上げる。
「やっぱりリフトって、こうだよね? 放り投げるもんじゃないよね?」
「それはかなりの高等技術だな。だが、オレも兄貴もそれは好きじゃないからやらない」
持ち上げるならともかく、身体を浮かせるほどのものとなれば、危険も生じる。
いくら、オレが治癒魔法を使えても、そんな危険を冒す理由にはならない。
何より、栞から手を離すことなんて、オレはしたくない。
曲が終盤に差し掛かる。
幸せな時間は終わるのだ。
柄にもない正装。
腕の中には花嫁のような栞。
彼女に似た花に囲まれて踊る現実とは思えない時間。
こんな機会は二度とないだろう。
「終わっちゃうね」
栞が淋しそうに口にする。
「もう一曲は無理だぞ」
けじめは大事だ。
「分かってるよ。一曲で十分だ」
一曲で十分。
栞はそう言ってくれた。
だけど、オレは足りない。
オレの物ではないと知っているから。
そして、曲が終わる。
時間は十二分刻ほどだ。
だから、本当にあっという間だった。
向かい合って、互いに一礼する。
「楽しかったです」
栞は嬉しそうに言った。
平語ではなく、丁寧語で。
「私も、楽しかったです」
だから、オレも応える。
礼とともに、明確な線を引いた。
栞はこの国の貴族子息の婚約者候補として。
そして、オレはその護衛として。
救いは、栞がまだ「候補」であること。
さらに、その男は「妻として愛することはできない」と言っていること。
利害の一致で結ばれた貴族らしい関係。
そこに愛情は必要ないと互いに言い合っている。
そこに希望を見出してしまう。
五年。
その間に、どこかのクソ王子が栞を諦めるか。
それとも、とっとと他の女と婚姻するか。
そうすれば、栞は解放される。
だが、あの王子は諦めないだろう。
その五年間に、必ず、本格的に行動するほど追い込まれる。
あの王子は、セントポーリア国王陛下の血を引いていないのだ。
さらに言えば、直系でないため、真剣「ドラオウス」を抜けなかった。
対して、栞は抜いてしまった。
あの神剣に誘われるかのように。
いや、事実誘われたのだろう。
リヒトがそんな感じのことを言っていたから。
だから、あの王子の座にいる男は、絶対、直系の妻として、栞が必要なのだ。
どう転んでも、栞は数年の間にいろいろなものに巻き込まれる。
そのために、どうしても正式な身分が必要となってしまうだろう。
そうなると、貴族子息の婚約者候補ではなく、婚約……、いや、ちゃんと配偶者となった方が護られる。
それは分かっているのに。
―――― I want all of you.
オレは、そんな叶わぬ欲を抱いてしまうのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




