Je te veux
「すっかり、トルクのことを忘れていたな」
「まあ、一緒にいなかったからね。でも、トルクなら、あの場所に一人だけでも大丈夫でしょう」
仮にも王子の侍女たちが、陰でこんなことを言っていても良いのだろうか?
でも、彼女たちはそれが言える人だから仕方ないか。
砕けた言葉になっているのは、雄也さんが結界魔法を使ってくれたからだろう。
ルーフィスさんの時にも使ったものだと思う。
だけど、わたしは落ち着かなかった。
今流れているのは、エリック・サティ作「ジムノペディ第1番」だ。
3/4拍子の曲ではあるが、テンポがゆっくり過ぎて、アレンジしないとワルツには向かない曲だと個人的には思っている。
だが、そうなると次の曲は、作曲者つながりで、アレかもしれない。
もしも、そうなら、絶対に踊りたいと思う。
深い意味はない。
好きな曲だからだ。
深い意味はない。
小学生の頃、たまに遊んでいた近所の子が持っていたゲームに使われていた曲だったが、その曲名を知ったのは中学の時だった。
二重の意味で叫んだ覚えがある。
そんなことを考えているうちに、ヒーリング効果の有りそうな曲が終わった。
ふと差し出された手。
「踊っていただけませんか? オレの主人」
まさかのお誘いがあった。
「そこは、淑女じゃないの?」
わたしは、苦笑しながらもその手を取る。
「貴女は私の主人ですから」
こんな時にもその立場を崩さない護衛。
「いや、女性をワルツに誘う言葉としての話だよ」
「……確かに」
わたしが諭すと納得された。
こういう所は真面目だと思う。
「わたし、化粧も落ちているけど、良い?」
「練習の時は化粧をしていなかったじゃないですか」
今度は九十九の方が苦笑する。
存在を希薄にする眼鏡をしているために、いつもの彼の表情とは少し違って見える。
でも、その存在を希薄にするという効果は、その存在を強く意識しているわたしには全く効果がないようだ。
だけど、眼鏡越しじゃない九十九の顔を見たいと思った。
曲の前奏が流れる。
やはり予想通りのこの曲だった。
わたしは嬉しくなってしまう。
この曲も勿論、練習をしたことはあるけれど、彼がこの曲名を知っているとは思っていない。
だけど、それでも誘ってくれたことは嬉しかった。
「この曲は確か、『ジュ・トゥ・ヴー』だったよな?」
おっと、曲名は知っていたらしい。
原語は確か、フランス語だが、日本はそのままカタカナ表記の曲名だったはずだ。
だから、自動翻訳もされていないらしい。
「うん。エリック・サティ作、『ジュ・トゥ・ヴー』だよ。可愛い曲だよね」
だけど、彼の口からその言葉が出てきたことに、日本語訳を知っている身としては、いろいろ気恥ずかしいものがある。
しかも至近距離だ。
ステップを踏みながらも、顔に出さないようにするのが精いっぱいであった。
「なんで、この曲はカタカナなんだ? 他の曲は日本語訳されているよな?」
「日本人には気恥ずかしい意味だからじゃないかな?」
多分、そういうことなのだと思う。
「月が綺麗ですね」と似たようなものだろう。
だけど、至近距離で久しぶりに砕けた言葉。
それも嬉しい。
「なんて意味だ?」
聞かれてしまった。
いや、会話の流れからそんな気はしていた。
そして、聞かれた以上、ちゃんと答えなければなるまい。
「『お前が欲しい』」
「なっ!?」
ありがとう。
至近距離で、真っ赤な顔を拝ませていただきました。
わたしの言葉でそこまで顔を紅くしてくれたのは本当に久しぶりだね。
だが、嘘は言っていない。
「『Jeteveux』は、確か、フランス語でそんな意味だったはずだよ。英語なら、『I want you』?」
本当は「お前が欲しい」だけでなく、「あなたが大好き」って翻訳もあるらしいけど、やはり、一般的に知られた訳の方が良い。
いや、一般的に知られた訳なら「あなたが欲しい」が正しいのかもしれないけれど、わたしがこっちの訳の方が好きなのだから、仕方ないのだ。
うん、仕方ない。
「お前の発音はどうして、そう微妙なのだ?」
そして、素に戻った護衛。
同時に顔の赤みが引いているのだから、大したものだ。
耳に少しだけ、余韻が残っているけれど。
「そんなこと言われても困りますな~。わたしは自分が思ったまま、伝えただけなのに」
「思ったままって……」
そこで、盛大な溜息。
何故か、呆れられたようだ。
そのままくるくると回り続ける。
身長差はあるけれど、やはり踊り慣れた相手は良い。
癖とかもお互いに分かっているからだろう。
周囲にはまだ散り続けるヴィーシニャの花。
一晩で一枚ずつと聞いていたが、その花の数が多いためか、まだひらりひらりと待っている。
「綺麗だな」
「うん、凄く綺麗だよね」
一瞬、自分のことを言われたかと思った。
だけど、違う。
このヴィーシニャの花のことだ。
「お前のことだよ」
「ほへ?」
あれ?
それって……。
「その白いボールガウン。お前に似合っているよ」
ボールガウンってこのドレスのことかな?
確かにこのドレスも綺麗だと思う。
まあ、雄也さんが見立ててくれたものだからね。
「花嫁さんみたいでしょ?」
「……は?」
「確かに、このドレスも綺麗だよね」
どうやら、ドレスを褒められたらしい。
危ない、危ない。
誤解しちゃうところだった。
「だけど、褒めてくれてありがとう。九十九もかっこいいよ。えんび服もよく似合っているね」
褒められたなら、褒め返さなければ!
いや、本当にかっこいいのだ。
こうスラっとしていて、背が高い九十九のかっこよさを三割増しに、いつもより色気が五割増しぐらいになっている。
しかも、髪がびしっと纏まっていて、そこがまた良い!!
九十九の正装、多分、初めて見たよ。
だけど、白いドレスはともかく、化粧をしていないわたしはかなり見劣りしているかもしれない。
「燕尾は体型が酷くなければ、大半、似合うもんだ」
「そうかな? 許されるなら、今すぐ、紙と筆記具が欲しいぐらいなんだけど」
できれば束で欲しい。
そして、描き散らしたい!
だから、しっかり、記憶して帰らねば!!
「お前らしい褒め言葉だな」
九十九が苦笑する。
ぐぬう。
残念、褒めても先ほどのような照れ顔がもらえなかった。
「ねえ、九十九。お願いがあるんだけど」
今なら良いかなと思って聞いてみる。
「なんだ?」
九十九の黒い瞳。
眼鏡越しだけど、本当に久しぶりだ。
「名前を呼んでくれる?」
「名前……、栞?」
呼ばれた。
最近、この声で全く呼ばれていなかったから、それだけなのに嬉しい。
「うん、ありがとう」
これだけで、明日からも、また頑張れる気がする。
非日常なのに、どこか日常的な響き。
「栞、持ち上げるぞ」
「ほえ?」
その意味を理解するよりも前に、わたしの身体が持ち上げられ、ぐるんと大きく一回転した。
「ふわあっ」
久しぶりの感覚に胸が騒ぐ。
「やっぱりリフトって、こうだよね? 放り投げるもんじゃないよね?」
身体が浮くような感覚であって、本当に身体が浮くわけではないのだ。
「それはかなりの高等技術だな。だが、オレも兄貴もそれは好きじゃないからやらない」
高等技術だったのか。
そして、九十九も雄也さんもできるのに、やらないのか。
そう言えば、二人から円舞曲中に持ち上げられたことはあっても、放り投げられたことはなかったね。
曲が終盤に差し掛かる。
楽しかった時間は終わるのだ。
綺麗なドレス。
目の前には正装の護衛。
綺麗な花に囲まれた期間限定の舞踏会場。
こんな機会は二度とないだろう。
「終わっちゃうね」
「もう一曲は無理だぞ」
「分かってるよ。一曲で十分だ」
一曲で十分。
これ以上は望み過ぎだ。
そして、曲が終わる。
時間は5分ぐらいか。
だけど、本当にあっという間だった。
向かい合って、互いに一礼。
「楽しかったです」
「私も、楽しかったです」
夢みたいな時間は終わり。
これで、また元に戻る。
わたしはアーキスフィーロさまの婚約者候補として。
そして、彼はその護衛に。
だけど、この想いは消さなくても良いかな?
―――― Je te veux
そんな叶わない望みを。
主人公は少し前からちゃんと自覚していました。
どこかの無自覚護衛青年とは違うのです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




