【第115章― ハラハラの新生活 ― 】感謝
この話から115章です。
よろしくお願いいたします。
『マジですか……』
それは、どこか茫然としたような呟き。
信じられないのだろう、目の前の光景が。
『あ、アーキスフィーロ様の机から、書類が消える日が来るなんて……』
口元に手を当てて、よろよろとよろめく、アーキスフィーロさまの従者であるセヴェロさん。
その台詞を「大袈裟な」と笑い飛ばしたいけれど、そう言えない事情がある。
わたしたちがこのロットベルク家に来た時、アーキスフィーロさまは書類の山に囲まれていたのだ。
それから、わたしと、専属侍女であるルーフィスさん、ヴァルナさんが手伝うようになって、みるみるうちに書類が片付いていった。
いや、わたしがやったことなど大したものではない。
二人の仕事量に比べると、本当に一割にも満たないだろう。
セントポーリア城で、九十九の事務処理速度に驚いていたけれど、ルーフィスさんの速度も凄かった。
しかも、ルーフィスさんは、書類の分類分けをして、それらをヴァルナさんとわたしに振り分ける余裕すらあったのだ。
それぞれの能力を理解しているってこともあるのだろうけど、それがまた、見事に合致していた。
さらに言えば、ルーフィスさんとヴァルナさんの連携が凄すぎる。
なんだろう?
テニスやバドミントンでラリーがずっと続く感じだった。
いや、アレは剣道の打ち合いと言っても良いかもしれない。
互いに手を止めることなく、ビシバシとやりあっていた。
しかも、その間も、わたしのお世話を欠かさないのだ。
わたしが日がな一日アーキスフィーロさまの書斎で過ごすために、あまり動かなくて良かったということもあるだろう。
部屋を整えたり、食事の準備とかぐらいしか席を外す必要もないのだ。
さらに言えば、わたしの部屋はすぐ近くだし、食事の準備をすることができる簡易厨房もアーキスフィーロさまの区画の一部にちゃんとある。
だから、初日のまったり速度が嘘のように進んだ。
進み過ぎた。
その結果、僅か10日ほどで、状況が改善されたのである。
追加される嫌がらせの量よりも、処理速度が上回ればどうなるか?
片付きます。
書類を追加する速度の方が間に合わないのです。
間に合わない理由というのも単純に、ネタ切れというか、新たな書類を作成して指示するのって、簡単な物でも大変だということらしい。
最後の方になると指示そのものが本当に雑になっていた。
白い紙にただ「王族の機嫌の取り方を考えろ」とだけの書類は無駄でしかない。
しかも、それに対してルーフィスさんが作成し、ヴァルナさんが追記した回答書類は10枚にも及んだので、もはや、どちらが嫌がらせをしているのかが分からなくなったほどだ。
バリバリと仕事を消化した結果、当主さまが決裁しなければいけない書類も増えてしまったらしい。
そして、当主さまが悲鳴を上げることになったらしいけれど、アーキスフィーロさまを恨むのはお門違いというやつである。
あなたのご長男さんを恨んでいただきたい。
あの方が、自分の書類だけではなく、本来、当主に提出すべき書類まで溜め込んでいたことが一番、問題だったのだから。
大丈夫。
至急のものから優先的に処理していったので、書類が増えた後半はゆっくりやってもちゃんと間に合うようになっているらしい。
数カ月ばかり寝込まなければならない事態にならない限りは、十分、間に合うそうだ。
そもそも、これらをアーキスフィーロさまが一人で全部処理しているのもおかしいのである。
中には、明らかに当主さまの役目だと思われるものもあった。
アーキスフィーロさまが言うには、息子たちに仕事を分けて、後々の引継ぎに備えるという話らしいが、明らかに跡継ぎ前の人間に任せる以上のものも紛れていた。
それはヴァルナさんにもルーフィスさんにも確認したから間違いない。
だが、ルーフィスさん曰く、このロットベルク家の当主さまは、その権限というのをご理解していない可能性がある、とのこと。
それはそれで大丈夫なのか? ……と、問わずにはいられない。
アーキスフィーロさまがやっていた仕事量は、一般的な貴族の当主がやる量としても、かなり多すぎるらしい。
そして、これだけの仕事を手伝っていても、アーキスフィーロさまは跡継ぎ認定されていないのだ。
もし、この方が出て行ってしまったら、この家は回らなくなるのではないだろうか?
そんな予感すらする。
そして、よくアーキスフィーロさまはこの家を出て行かないものだとも思った。
いや、出て行けないのか。
この方は自身の魔力暴走を酷く恐れている。
そのために、この部屋から出ることもほとんどないのだ。
改めて、強すぎる魔力の持ち主は、この世界で生きにくいのだと思った。
『しかも、食事のレベルが格段に上がりました。これは泣くしかない』
ああ、うん。
わたしの護衛……、もとい、専属侍女が準備してくれる食事は美味しいからね。
あの味は、この世界の料理の味に慣れている人たちにとっても、衝撃的だろう。
『そんなわけで、ヴァルナ嬢、ボクの嫁に来ませんか?』
「謹んでご辞退申し上げます」
セヴェロさんがヴァルナさんに言い寄って、それをバッサリお断りするのも見慣れた光景となってしまった。
しかし、求婚しているその相手は男性である。
勿論、精霊族の血を引いているセヴェロさんは、それを承知だ。
曰く、「水鏡族」は性別がないらしい。
違った。
どちらにもなれるらしい。
言われてみれば、昔、出会った水鏡族のセドルさまも、その姿はともかく、口調は女性だった。
もしかしたら、あれは仮の姿だったのかもしれない。
でも、セヴェロさんはヴァルナさんに「嫁に来い」って言ってるよね?
この場合、どうなるんだろう?
『またフラレましたよ、シオリ様』
「そうですね」
セヴェロさんが、本気ではないから、ヴァルナさんも本気で答えない。
もし、相手が少しでも本気であれば、男女に関係なく、真面目に回答してくれる人だから。
それに、ご飯目当ての求婚って、ヴァルナさんの場合、本当に珍しくもないことなのだ。
それだけの料理の腕の持ち主。
そんな人が、わたしの専属侍女である。
そのことが誇らしい。
「シオリ嬢」
「はい」
アーキスフィーロさまから名前を呼ばれたので、そちらに顔を向ける。
「貴女のおかげで書類に埋もれることがなくなり、本当に感謝しています。改めて、御礼を言わせてください」
「いいえ、わたしは何もしていません。仕事の処理はほとんど二人に任せてしまったので、感謝は二人にお願いいたします」
本当に何もできていないのだ。
わたしがやったことといえば、ルーフィスさんから手渡された書類を、自分なりのペースでやったことぐらいだ。
それも翻訳するだけとか、そんなに難しくないものだったというのに、ルーフィスさんやヴァルナさんよりも処理速度が遅かった。
いや、分かっているんだよ。
彼らとは経験も、研鑽の度合いも全く違うって。
でも、やっぱり、単純に悔しい。
わたしも、もっと、ウォルダンテ大陸言語をしっかり勉強しなければ!!
それに、少なくとも一年、長ければ一生いることになるかもしれない国の言葉だ。
こんな動機がなくても、もっと懸命に勉強するのが当然だろう。
「いいえ、私はシオリ嬢に感謝します。本来、女性がこのような仕事をすることが稀なのに、貴女は迷いもなく引き受けてくださいました。それに、貴女が手伝ってくださらなければ、ルーフィス嬢も、ヴァルナ嬢もこの場には居てくださらなかったことでしょう」
ぬ?
それはそうかも?
彼らはわたしの専属侍女なのだから、仕えるべき主人の行動に従う。
だけど、わたしが頼めば、アーキスフィーロさまの手伝いはしてくれたとも思うし、同時に、やはり、わたしは彼らにこそ感謝をして欲しいと思う。
「シオリ様」
背後からの小さな声。
これは、ルーフィスさんだ。
「私どもへの言葉は、貴女から頂ければそれで満足です。ご承知のように、私どもはロットベルク家に仕えているわけではありませんから」
ぬう。
当人から辞退されてしまった。
つまり、変にうだうだ悩まず、自分への感謝を受け入れろということらしい。
わたしの感覚ってやっぱりちょっとズレいるのかな?
従者たちの手柄は主人の手柄。
従者たちへの称賛は全て主人のもの。
その考えにちょっと賛同できないのだ。
でも、それがここの決まりなら仕方ないか。
「わたしたちが、アーキスフィーロさまのお役に立てたようで嬉しいです。わたしも得難い経験をさせていただき、感謝します」
そう言葉を返したのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




