自分勝手な感情
「シオリ様に対して、何をなさっていらっしゃるのですか? おね~さま?」
それは、いつもよりも高い声なのに、酷く低く聞こえた。
低く、低く、震える寒さを覚えてしまうほどの声。
「ヴァルナ。帰ってくるなり、怖い顔ですね」
だが、その声をかけられた相手は動じることもなく、柔和に答える。
凄い。
その胆力を分けて欲しい。
わたしには無理だ。
彼からこんな声をかけられたら冷えて固まってしまうかもしれない。
そんな冷たさのある声。
でも、何故、彼がそんな声を兄にかけたのかが分からない。
「何を怒っているのか分からないけれど、私を難じる前に、自分の行いを反省なさい。主人の命が脅かされる以外の理由で移動魔法を使って直接部屋に乗り込むなど、男女関係なく恥ずべきことです」
ルーフィスさんがそう口にすると、ヴァルナさんの一瞬だけ息を呑む気配があった。
暫し、間を空けた後……。
「シオリ様。ご無礼、大変、失礼致しました。ですが、火急と判断したので踏み込ませていただいた次第です」
先ほどより、わたしに近付いたのだろう。
声がよく聞こえるようになった。
いつもより高いけれど、記憶にある昔よりは低いという微妙な声。
でも……。
「火急?」
その言葉が耳に届く。
火急って急ぎの話ってことだよね?
また何かあった?
「今の状況を客観的に見てください、シオリ様。その状態は侍女ではなく、護衛が踏み込む事態です」
「ふえ?」
そう言われて、わたしは周囲を見る。
最初に目に入ったのは、多分、ルーフィスさんの胸元。
襟の部分のひらひらしたリボンが目に入った。
うん。
そこから、伸びた両腕にわたしが包まれている。
ああ、そうか。
さっき、わたしの様子がおかしかったから、落ち着かせるために抱き締められたのか。
「ああ、そうだった」
わたしは、思わず、そう呟く。
この兄弟は、どうして、わたしを落ち着かせるために抱き締めるのだろうか?
その行為自体は、別に嫌じゃないし、実際に落ち着く。
だから、困る。
これでも嫁入り前で、しかも、今は婚約者候補がいる身なのだ。
でも、今は雄也さんじゃなくて、ルーフィスさんだから、見た目的にはセーフ?
心情的にはアウトだけど。
そして、自分でアウトだと思うのだから、どんなに気分が落ち着く行為だとしても、これは駄目だと思う。
書斎から退出する前に、アーキスフィーロさまは心配そうな顔をしていた。
心優しい方だと思う。
そんな人にあんな顔を何度もさせるわけにはいかないのだ。
「ルーフィス。もう支えは結構です」
わたしは、どれだけこの兄弟に甘えてきたのか。
自分の情緒が不安定なら、ちゃんと自分の力で立て直すことが当然である。
それなのに、いつからわたしは自分の足で立てなくなっていた?
「支え?」
ヴァルナさんが不思議そうな声で問いかける。
ああ、この人も、わたしを心配している。
なんて、情けない主人なのか。
頑張るって決めたのに。
もう頼らないって思ったのに。
「自覚はなかったのですが、わたしの体調が悪かったようで、情けなくもアーキスフィーロさまの前から中座し、ルーフィスにこの部屋まで連れてきてもらいました。そこで、いろいろ忠告を受けていたのです」
もう大丈夫だから。
そんな顔をしないで?
「体調は大丈夫なのですか?」
いつものように心配してくれる心優しいわたしの護衛。
違うね、今は専属侍女だった。
「はい。ルーフィスのおかげで、もう大丈夫です」
わたしはちゃんと笑えている?
わたしの体内魔気の変化に過敏とも言えるほど察してしまうこの人の前で。
そう言えば、さっき、ルーフィスさんの嘗血をしたな。
それって、どうなったんだろう?
なんとなく、まだ傍にいるルーフィスさんを見る。
九十九ほどではないけど、確かに、体内魔気を前よりも感じ取れる気がした。
そして、ヴァルナさんを見る。
この存在感には敵わない。
どこにいても、気付けば、そこにいる感覚。
この状態で、わたしがヴァルナさんの嘗血をしたらどうなる?
変わらない?
強化される?
あの日……。
わたしの血を舐めたのは、雄也さんだけではなくて、九十九も舐めている。
その後の変化について、彼自身からはっきりと聞いたわけではないけれど、直後に「割と変わらん」と言われたことは覚えている。
斬りつけて、首筋を舐められた上、その行為に意味がなかったということなのだ。
そのショックが忘れられないのは当然だろう。
でも、本当に意味がなかったのだろうか?
ルーフィスさんの方ほど分かりやすくなくても、少しは変化する気がする。
だけど、どうする?
どう、話を持ちかける?
ルーフィスさんが、ヴァルナさんのいない時を狙ってわたしに要請したのは、恐らく、それを知られたくなかったのだと思う。
その理由は分からないけれど、秘密主義なルーフィスさんのことだ。
ヴァルナさんに知られると不都合なことがあったのだろう。
そんなルーフィスさんに対して嘗血したことをバレないように、ヴァルナさんの嘗血をさせて欲しいと願う?
無理じゃないかな。
だけど、なんだろう。
こう、妙に落ち着かないというか、変に胸がドキドキしているのだ。
ヴァルナさんに隠し事をしている罪悪感とかではない。
向こうだって、わたしに隠し事の一つや二つあることは承知で、それについて追及はしてこない。
実際、先ほどの話を有耶無耶にしてくれた。
本当は気になるだろうけど、無理に聞き出そうとはしなかったのだ。
九十九は昔からそうだ。
危険なことがない限り、わたしを自由にしてくれる。
「シオリ様? 本当に大丈夫ですか?」
覗き込んでくる翡翠の瞳。
あまりにも反応が薄いから心配になったのだろう。
考え事をしているからだと分かっていても、声をかけずにはいられなかったらしい。
本当に苦労性な護衛……、いや、侍女だ。
「はい、大丈夫です」
わたしは頷く。
「ただ、今日は少し、休ませてください」
もっとちゃんと考えたいから。
「畏まりました」
「承知しました」
ルーフィスさんとヴァルナさんは同時に綺麗なお辞儀をしてくれる。
この二人って、本当に性別、男性なんだよね?
思わずそう思ってしまうほど本当に優雅な礼である。
どこで練習したのだろうか?
少なくとも、わたしはこの二人がロングスカートを穿いている図なんて……、ああ、九十九の方はあったか。
ストレリチア城下でわたしを周囲から隠すために化粧をしてくれた時、彼自身もロングスカートを穿いてくれたっけ。
雄也さんの方は、このロットベルク家に来てからだ。
どちらにしても、どこかで練習をしていたのだとは思う。
何のために?
わたしのためだね。
だが、何を想定して、こんな練習をしていたのかは謎だけど。
「それでは私どもは退出させていただきます」
「御用の際は、お渡ししている『通信珠』でお呼び出しください」
ルーフィスさんとヴァルナさんはそう言いながら、この部屋から出て行ってしまった。
ちょっとだけ淋しさが残る。
やっぱりどこか、自分は弱っているらしい。
その理由は分かっている。
だけど、こればかりはどうしようもない。
自分で決めた道で、自分が選んだ道なのだから。
こればかりは、自分で立ち上がるしかないのだ!!
そのためには、もっと精神的な支えが欲しくなった。
具体的には、ヴァルナさん、いや、九十九に対しても、雄也さんのように嘗血をしたいと思ったのだ。
ルーフィスさんの血を舐めた後から、確かにルーフィスさんの気配がかなり強まった。
先ほど抱き締められたけど、今も、その感覚が残っているほどに。
これが、ヴァルナさんならどうなるのだろう?
そう思ってしまったのだ。
だけど、その「嘗血」については、別に焦る必要はない。
それならば、じっくりと作戦を立てた方が良いだろう。
敵はかなり手強いのだ。
そして、それがなくても、わたしたちの絆は強いことがよく分かっている。
だから、急いでなんとかしなければならないわけではない。
だけど、あの「嘗血」行為が、ルーフィスさんの言った通り、まだ不完全な状態だというのなら、ヴァルナさんにも同じことをしたいというわたしの気持ちはそこまで道理に外れたことではないと思う。
今よりも、もっと強い絆が欲しい。
そんな相手の気持ちを無視した自分勝手な感情が、自分の中に芽生えたことはちょっと信じられなかった。
だけど、同時に納得した。
つまりは、そういうことなのだろう。
廻り廻って、巡り巡って、遠回りを何度も繰り返して、否定も拒絶もしても、わたしの出した結論は変わらなかったから。
でも、その気持ちを口にするつもりなどないのだけど。
この章は前の話で終わらせようと思ったけれど、やはり、主人公視点もいるかなと思いました。
つまり、兄が考えるほどのことは主人公は考えていなかったわけです。
主人公に分かりやすい変化が見えたこの話で114章が終わります。
次話から第115章「ハラハラの新生活」です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




