答えなど分かり切っている
「何を怒っているのか分からないけれど、私を難じる前に、自分の行いを反省なさい」
その言葉を聞いた瞬間、妙に頭が冷えた気がした。
―――― 何、言ってんだ?
そんな疑問が一瞬にして、オレの頭の中を埋め尽くしたからだ。
オレが何を怒っているのか、兄貴が理解できないはずがない。
そんなことは、自分の眼が光を映す前から分かっていることだ。
だが、兄貴はオレを無視して言葉を続けていく。
「主人の命が脅かされる以外の理由で移動魔法を使って直接部屋に乗り込むなど、男女関係なく恥ずべきことです」
それを、兄貴が言うか?
確かに、移動魔法で直接、部屋に乗り込んだオレは悪いとは思う。
護衛としても、侍女としても褒められた行いではないという自覚はあった。
だが、この状態はどうだ?
恐らく、合意じゃないよな?
その点に関しては、兄貴はどう思っている?
栞の両手は、胸元で拳を握った状態だった。
彼女が相手に応える意思があるなら、その両腕はちゃんと抱き返してくれることを、オレはもう知っている。
これは、いきなり抱き締められたタイミングで、オレが現れたために、そのまま固まったんじゃないか?
その行いも、護衛や侍女のすることではないだろう?
それは恥ずべきことではないのか?
「シオリ様。ご無礼、大変、失礼致しました」
まだ、どこか思考が定まっていない様子の栞に向かってオレは声をかける。
「ですが、火急と判断したので踏み込ませていただいた次第です」
そこで一礼する。
「火急?」
ようやく、栞が不思議そうな声を出した。
焦点が合い、急速にその瞳に光が宿っていく。
「今の状況を客観的に見てください、シオリ様」
―――― まずは落ち着いて自分を見ろ
「その状態は侍女ではなく、護衛が踏み込む事態です」
―――― 不埒なことをされているじゃねえか
「ふえ?」
そんなオレの言葉で、栞は……、自分を包んでいる腕を見て、兄貴本体を見た。
その姿は、明らかに反応が鈍い。
「ルーフィス。もう支えは結構です」
兄貴に向かって栞はそう口にする。
先ほどのどこか不安定な彼女は、瞬時に、感情を切り替えていた。
「支え?」
「自覚はなかったのですが、わたしの体調が悪かったようで、情けなくもアーキスフィーロさまの前から中座し、ルーフィスにこの部屋まで連れてきてもらいました。そこで、いろいろ忠告を受けていたのです」
体調というよりも、精神的な不安定さだろう。
同時に、兄貴が栞を抱き締めたのも、これが理由だろうなとは思った。
このままでは良くないと、兄貴も気付いているのだろう。
今の栞はどこか不安定だった。
いつもの芯が見当たらない。
いや、芯が細くなっている印象がある。
オレが声をかけたことで、少し立て直したように見えるが、体内魔気の方はまだ全く安定していない。
少しの揺らぎでまだ崩れてしまいそうな、不安定の釣り合い状態にある。
それは、このローダンセに来た時からだった。
あの真っすぐに伸びた道を歩いた後、自分の記憶と重なる景色を見てからどこかずっとおかしい気がしていたのだ。
いつもの栞ならば、簡単に揺らがない。
少しの刺激だけで、魔力暴走を起こしかけるほど彼女の精神力は弱くないのだ。
それは、ずっと傍にいたオレが誰よりも知っている。
栞の今の不安定さには覚えがあった。
この世界に戻ると決めた後、感情を抑え込んで、無理に笑っていた栞にとてもよく似ているのだ。
痛々しくて、なんとかしてやりたいとずっと思っていた。
だけど、どう接するのが正しいのか分からないまま、人間界にいた最後の夜、ようやく大泣きさせて発散させたのだ。
今の栞があの時の栞と重なって見える。
弱くて脆くて、普通の女だ。
だが、それも無理はない話なのかもしれない。
ただでさえ、知っている景色に混乱していた所に、出会った相手は中学の同級生。
しかも、人間界という共通の思い出を持つような相手だったのだ。
それだけでもいろいろ思うところはあっただろう。
そして、決定的なのが、あの「桜」の話だったのだと思う。
前々から、栞は、桜という人間界の植物に対して、格別の思い入れがあるように思っていた。
あの港町で歌姫をやった時に名乗った偽名は「サクラ」だった。
さらに、あの場所で歌った「さくらさくら」は、無意識に周囲の景色すら変えてしまった。
他にも思い入れがある歌はいくつも歌っただろうが、それでも、栞の魔法が勝手に発動したのは、あの歌だけだった。
いや、よくよく思い出せば、ここ最近は、人間界の歌を思い出し、歌う機会が多かった。
それらも無関係ではないかもしれない。
少しずつ思い返して、積み重なっていく人間界への感傷。
恐らくは、視覚的な既視感や、そんな様々な理由で人間界を思い出すことが増えたために、郷愁、俗に言う懐郷病へと繋がったのだと思う。
あの世界から離れて既に三年以上経過しているが、それでも、ずっと慌ただしい日々に追われてゆっくりとあの世界の思い出に耽ることもできなかった。
だけど、心と生活、時間にゆとりができたために、郷愁を引き起こした可能性は否定できない。
それだけ、これまでの栞は、本当の意味で気が休まる時がなかったということでもある。
「ああ、そうだった」
いつもなら状況に気付いて珍妙な叫び声を上げるはずの彼女は、いつもと違った反応を見せる。
その不自然な様子に、兄貴も少し、意外に思ったようだ。
兄貴は今、その肉体が若返っている。
そのためか、化粧をしていても、その表情の変化はオレにとって、分かりやすいものだ。
伊達に、何年も付き合ってきたわけではない。
まあ、それは兄貴も同様だろうけどな。
栞が、ホームシックと似たような症状を見せていたなら、兄貴の行動も分からなくはない。
だからと言って、抱き締める必要はないと言いたくはなるが、先に気付いたのがオレだったなら、似たようなことをする気がした。
「体調は大丈夫なのですか?」
ホームシックは単純に気の持ちようとか馬鹿にはできない。
重症化すれば、うつ病にも繋がる。
そうなる前に対処をしておきたい。
「はい。ルーフィスのおかげで、もう大丈夫です」
栞はそう言って笑って見せる。
その笑みはオレが知るものとは違うのだけど……。
―――― 兄貴のおかげ……、か
その言葉が胸を刺す。
先に気付いたのが兄貴で、その時に、近くにいたのだから、当然だ。
それでも、素直に賛同できない心の狭い自分がいる。
だが、これからは、その役目はオレでも兄貴でもないのだ。
栞の婚約者候補になった男に、それとなく伝えて支えてもらう方向へと持って行くことが正しいのだろう。
それでも、これまで傍で支えてきたという自負が、冷静な判断力を奪おうとする。
違う。
認める。
単純に焼餅だ。
どこをどう見ても、どこまで追い求めても、それ以外の結論が出ない。
それはオレの場所だと身体の内から叫んでいる。
誰にも譲りたくないと勝手な叫びを。
本当に、なんて無様な話もあったもんだろうか。
栞のために生きると決めたオレは、自分の気持ちに振り回されて、栞のために生きることができていない。
それだけ、これまで距離が近かった。
近すぎたのだ。
家族のような距離にいて、それが離れることになった。
だから、オレ自身もどこか、混乱しているのだろう。
心の準備をしたと思っていたのに、全く足りていなかったようだ。
そうでなければ、おかしい。
栞から離れてそんなに時間が経っているわけではないのだ。
それなのに、こんなにも自分が保てない。
恋に狂うという言葉があるが、これは狂い過ぎだ。
情けない。
みっともない。
これで、栞を護ることができるのか?
何度も繰り返される自問自答。
だが、その答えなど分かり切っている。
無様でも、不格好でも、最期まで栞を護ると決めた。
それはあの「ゆめの郷」で栞に宣誓する前からずっとこの胸に強くある思いだ。
この強くて弱い幼馴染を、オレはずっと護り続ける、と。
そこにオレの心など要らない。
必要ない。
栞の横にオレや兄貴以外の人間が立ったとしても、その想いは変わることはない、と。
それは、仮令、兄貴であっても邪魔をさせるつもりはないのだ。
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