魅力に溢れた女性
「思ったよりもあっさりとエンゲルクの許可が下りたな」
トルクスタン王子殿下が横からそう声を掛けてきた。
「自分の懐が痛まないからでしょう」
専属の侍女を雇うには決して少なくない金銭が掛かる。
あの当主が、俺の関係者にそこまでの予算配分をしてくれるとは始めから思っていなかった。
だから、トルクスタン王子殿下がその負担をすると聞けば、深く考えずに飛びつくことは目に見えていたのだ。
「ヤツは警戒心がなさすぎるな」
「そうですね」
その意見に関しては同意するしかない。
昨夜、この家の女中の一人の手引きによって、シオリ嬢の身が危険に晒されかけたらしい。
我が家とは全く無関係な人間が、複数名この家に侵入していたのだ。
普通ならば、そのことで警戒心を高めるべきなのに、被害にあったのは自分ではないからと、何も行動しない。
それを思えば、やはり、自分の父親である人間は、当主として不適格なのだろう。
何より、シオリ嬢は、俺の婚約者候補となったために、その身を狙われたのだ。
そして、その稚拙ながらも計画された手際の良さから、計画的ではあったのだと考える。
あの女は、どこまで、いつまで、俺のことを許せないのだろうか?
その侵入者たちの話を、セヴェロから叩き起こされて聞かされた時は、本当に顔から血の気が引く音を聞いた。
自分の考えの甘さによってシオリ嬢は、そんな恐ろしい目に遭ったのだ。
それはどれだけの恐怖だっただろうか。
また自分のせいで……と、そう後悔の渦に呑み込まれかけたが、シオリ嬢自身の手によって撃退されたと聞いて心底、ほっとしてしまった。
それでも、シオリ嬢の無事な姿を見るまでは安心できなくて。
トルクスタン王子殿下から呼び出された後も、シオリ嬢が来るまでは待っていて。
その姿を見たら、ホッとして、思わず抱き締めてしまったのだ。
あれは自分でも迂闊な行為だと後からになってそう思ったが、その時は身体が勝手に動いたとしか言いようがない。
自分は彼女に「妻として愛することはできない」と言っておきながら、それに矛盾する行動を取ってしまった。
シオリ嬢の立場からすれば、かなり気持ちの悪い行動だったことだろう。
自分自身でもそう思うのだ。
だが、同時に、自分にもこんな感情が残っていたことに対する安堵もあった。
もう捨てた……、いや、疾うに無くなってしまったはずなのに。
自分の中に、まだ、誰かを大事にしたいと思う心が残ってはいたことに驚きもした。
思ったよりも、自分は人間だったらしい。
「お前が後を継ぐ気はないのか?」
「ありません」
幾度となく繰り返された問答。
だが、こんな面倒な物を背負わせないで欲しい。
自分が、貴族に生まれていなければ、誰も不幸になることはなかったのだ。
「魅惑の瞳を持つ人間が上に立てば、不幸しか生み出さないことはトルクスタン王子殿下にもお判りでしょう?」
たまたま、祖父に精霊族の血筋が入っていたばかりに、俺の瞳には「魅惑術」が宿っていると聞いた時は、流れる血の全てを洗い流してしまいたかった。
血だけではなく、肉体や魂の問題でもあるためにそんなことをしても無意味だとセヴェロは笑いながら言った姿は今、思い出しても腹立たしい。
「その魅惑の瞳とやらは、男には効かないから問題はないのではないか?」
「人類の半分は女性です。トルクスタン王子殿下は自分の最愛の女性が、わけが分からないまま誰かに心奪われても、平気でいられますか?」
俺の瞳はそれを可能としてしまう。
「俺の想い人は始めから奪われていたからな……」
「人妻に懸想でもしましたか?」
「それは友人だな。俺は流石に既婚者に興味は持たない」
俺の毒や棘のある言葉もさらりと笑いながら軽く流す。
この叔従父は昔からこうだった。
だからこそ、気を許してしまうのだが。
「シオリ嬢は少し、その女性に似ている」
「それを婚約者候補の俺の前で口にするのはどうかと思います」
流石に、今の発言にはムッとする。
確かにシオリ嬢は俺の「婚約者候補」でしかない。
だが、それでも「婚約者」に限りなく近いのだ。
そんな発言を誰かに聞かれては、シオリ嬢がまた「娼婦」扱いされてしまうと気付かないほど浅慮な人間ではないはずなのに。
「悋気か?」
「そんなわけがないでしょう?」
俺は彼女を愛しているわけではない。
好ましくは思うが、それだけだ。
まだ友人に近い感覚である。
「トルクスタン王子殿下のように単純な感情を持ち合わせていないだけです」
「単純で悪かったな。お前は固く考えすぎだ。まあ、考えが足りないよりはずっと良いが……」
その後に続く言葉は容易に想像が付く。
俺には、考えの足りない兄がいるから。
弟の婚約者候補に懸想しただけでは足りず、夜這いまでかけようとして失敗したらしい。
あの女好きな兄が、男の寝所に忍び込んだと聞いた時は大変驚いたが、それは、トルクスタン王子殿下の従者が仕掛けたものだと知って納得はした。
だが、兄がしようとしたことは許されることではない。
相応の報いを受けてもらいたいが、残念ながら、兄をまだ当主が庇い続ける姿勢を見せる以上、これ以上の手出しはできそうにないことがたまらなく悔しかった。
当主は自分に似すぎている兄に後を継がせる気はないらしい。
だが、魔力の制御ができない俺に継がせたくもないようだ。
そして、祖父方の親戚は皆、兄に継いでほしいと口々に言っている。
明らかに傀儡狙いだ。
兄のように煽てに弱い人間は操りやすく見えることだろう。
だが、意外に兄は周囲が思うように動いてはくれない。
今回のように、何故、そんな考えを持つ? と思ってしまうほどだ。
本当にこの家は、一度、再興できないほど潰れた方が、世のためだと思う。
こんな家がローダンセの一般的な貴族だと他国に思われたらどうするのだ?
いや、もう思われているかもしれない。
「それにしても、出会って間もないというのに、随分、シオリ嬢のことを気に入ったようだな」
トルクスタン王子殿下は笑いながらそう言うが、俺としては、何を言っているのだ? という疑問しかない。
「あれだけ可愛くて、素直で、優しくて、努力家で、魔法の才能もあって、魅力的で、謙虚なのに、自分の意見を通す意思の強さもあって、与えられた情報から双方の利を見出すほどの知恵もあって、真っすぐな女性ですよ? 気に入らないはずがないでしょう?」
俺などには本当に勿体ないほど魅力に溢れた素敵な女性だと思う。
そんな女性を前にして、全く心を揺らされない男がいたら見てみたい。
女好きなのに、好き嫌いが激しいあの兄ですら、すぐに魅了されてしまった。
尤も、兄が惹かれたのはその外見だったらしい。
黒い髪、黒く大きな瞳、幼さを残す可愛らしい顔とそれに見合った小柄な体躯。
兄は、そんな女性を好む傾向にあった。
まさか、弟の婚約者候補として紹介された女性にまで手を出そうとするほど節操がないとは思わなかったが。
「アーキス……。お前……」
俺の言葉に、トルクスタン王子殿下が呆れたのは分かった。
「勘違いされないでください、トルクスタン王子殿下。魅力を覚えても、それで愛せるかは別の話です」
「俺は魅力を感じれば、愛せるが?」
「そんなに単純な話ではないでしょう?」
身体だけの関係であればそれは可能だろう。
だが、彼女はそんな女性ではない。
距離を誤れば、すぐに逃げ出しそうな雰囲気がある。
それだけ、異性との関係を持っていないことがよく分かる。
そのため、以前、見た男性は本当に幼馴染の気安い関係だったのだろう。
確かに、よくよく思い出してみれば、恋人の距離ではあっても、恋人扱いはされていなかったような気がする。
少なくとも、好きな女性を肩に担ぐような抱き方は、俺でもしないだろう。
そして、時折、見せる彼女の堂々とした態度は、どこかの貴族を思わせるものだ。
特に、侍女候補としてトルクスタン王子殿下が連れてきた二人に対する姿は堂に入ったものだった。
シルヴァーレン大陸の貴族の落胤だと聞いているが、相応の教育は受けていたらしい。
いや、それもセントポーリア国王陛下に仕える女性文官の縁者と聞けば納得の話だ。
セントポーリア国王陛下は、即位してから能力のある人間を取り立てていると聞いている。
だからこそ、例の女性も男性と同じような場に出て、イースターカクタス国王陛下から引き抜きを図られることになったらしい。
その女性の文官と、シオリ嬢がどんな関係かはまだ分からないが、人間界で彼女は「高田」姓を名乗っていた。
あの世界ならばともかく、この世界で、そんな偶然は考えにくい。
俺がそんな風に考えていると……。
「本当に随分、気に入ったようだな」
そんなトルクスタン王子殿下の言葉が聞こえた。
気に入ったのは間違いない。
だが、トルクスタン王子殿下が思うような意味ではないのだ。
俺が、彼女を愛せるはずがないのだから。
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