恐ろしいこと
「俺の部屋に忍び込んで、連れに手を出そうとしたらしい」
トルクスタン王子が告げたその言葉は、わたしに大きな衝撃を齎した。
その意味を深く考えることを脳が拒んだかのように、自分の視界が大きく揺れたことだけは覚えている。
多分、この時点でわたしは既に、普通の状態ではなかったのだろう。
視界の揺れに伴って、頭がガンガン痛んでいたことだけは分かった。
「もう一度、言っていただけますか?」
何故か両腕を広げたような奇妙な体勢となっていたトルクスタン王子に努めて冷静に、問いかけたつもりだった。
だが、トルクスタン王子はその琥珀色の瞳を大きく見開く。
先ほどまで近くにいたはずのアーキスフィーロさまの姿も、いつの間にかいなくなっていた。
「ヴィバルダスが、この部屋に、入り込んだ。そして、気配を頼りに、この隣室の、俺の連れが、寝る部屋と、向かったのだ」
トルクスタン王子は両腕を広げたまま、昨夜、この部屋で起こったことを途切れがちだが口にする。
アーキスフィーロさまの兄であるヴィバルダスさまが、この部屋に侵入した上、さらに奥へと足を進めたらしい。
この部屋は、ロットベルク家からトルクスタン王子に与えられた客室である。
そこにいるのは、最奥にトルクスタン王子だと思うが、この隣室、手前の二つの部屋には、護衛と身の周りの世話をする従者たちがいたはずだ。
この場合の連れに「手を出す」というのは、暴力的な行いをしようとしたということだろう。
そして、あの方は、護衛たちに意味なく攻撃を仕掛けるようなタイプの人には見えなかった。
どちらかと言えば、自分よりも弱そうに見える女性に対して害を向ける典型的なローダンセの貴族……といった印象である。
つまり、この場合、トルクスタン王子が連れている女性に悪さをしようとしたと考えた方が良さそうだ。
「それを易々、見逃した……、と?」
そこが問題だ。
隣室とはいえ、トルクスタン王子はあの双子に対して、常に気を配っている。
だから、危険がないようにいろいろ手を回しているはずなのに……。
「それが、連れの望みだったからな」
万一、侵入者があっても、それを見逃して、部屋に通せと事前に言っていたということだろう。
そんなことを言いそうなのは、水尾先輩の方かもしれない。
魔法勝負という名で、動く的に向かって魔法を一方的に当てたいと願っていても不思議ではないから。
「部屋に入り込まれることは想定していたのですね」
「あの時の、ヴィバルダスの様子からな。私怨に駆られ、何かやるとは思っていたので、網を張っていた」
確かに短慮で浅慮な考え方を持った人だとは思った。
でも、わたしに負けたその日の夜に、トルクスタン王子の部屋へ突撃するなんて何を考えているのだろう?
もしかして、逆恨みのようなもので、わたしやトルクスタン王子に縁を持つ女性に対して害意を向けたのだろうか?
「その網に、真央先輩と水尾先輩を利用した……、と?」
「シオリ嬢、俺の連れが、あの程度の男に不覚を取るとでも思っているのか?」
思っていない。
水尾先輩の魔法の威力は知っているし、魔法に不自由な真央先輩も、「魔気の護り」に関してはかなり強い。
それは分かっているのだけど……。
「わたしが気にしているのは、そこではありません」
厄介事に対処できる力があっても、これについては別問題なのだ。
「あんな誰でも良いと思うような殿方の前に、囮とはいえ、女性の身を僅かでも危険に晒そうとした点が嫌なのです」
わたし自身は何度も囮をやっている。
確かに、護衛たちの腕を信じているが、その時に感じる怖さとか、自分に向けられる悪意や害意に対しては慣れるわけではない。
だから、そんな思いをほんの僅かでも、彼女たちに抱かせるのは嫌だった。
「ヴィバルダスは、別に誰でも良いと思っていたわけではないと思うぞ?」
だが、意外にも、トルクスタン王子はそんなことを口にする。
「でも、実際、この部屋に忍んだのでしょう? わたしを側妻にすると望みつつ、トルクスタン王子殿下のお連れさまにまでその手にかけようとか、誰でも良いとしか思えません!!」
仮に、昼間、わたしから受けた恥辱に対する見せしめの意味があったとしても、そんな一方的な理由から、その件とは無関係な女性に手を出そうとできるなんて、結局のところ、誰でも良いとしか思えなかった。
「ヴィバルダスの狙いは終始、シオリ嬢のみだ。俺の連れに微塵も興味はない」
「え……?」
でも、手を出そうとしたと言った気がするのだけど?
「ヤツは先に意識を落としていたからな。シオリ嬢も、ロットベルク家から与えられた部屋ではなく、俺の連れとして、この客室にいると思い込んだようだ」
ちょっと待ってください?
それでは……。
「それって、わたしのせい……、ですか?」
自身が負けたことなどの恨みによる逆恨みや見せしめのつもりはなく、あの方は間違って、侵入してきただけ?
つまり、本当の狙いはわたしだったということだ。
それならば、わたしのせいだろう。
「いや、どこをどう切り取っても、ヴィバルダスのせいでしかないだろう」
トルクスタン王子は呆れたように、そんな慰めを口にする。
「ですが……」
わたしが、あの時、ヴィバルダスさまに対して、もっとちゃんと対処できていたら、こんなことは起こらなかったかもしれない。
―――― 眠らせるだけじゃ駄目だった?
あの手の人にはもっと実力差を見せつけるべきだったのだろう。
その実力差を知る前に、眠ってしまったのだから、実感がなかった可能性もある。
不意に何かが走る。
―――― ああ、これはマズい。
そんな風に、自分でもよく分かってしまうほどだった。
身体の中にある風の渦がゆっくりとその色を変えていく。
いつもは透明なその力は、少しずつ、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の虹色に変化して、やがて白と黒のみとなる。
黒……。
それは、数多の神々が背負う色。
白……。
それは、この世界を創った神のみが背負う色。
白と黒の力が円舞曲を踊るように寄り添って、この身体の中で回っていく。
コーヒーにミルクを入れてかき混ぜると、マーブル模様の渦ができる時のようにぐるぐる、ぐるぐる、と大きな白黒の渦になり……、そして――――?
「シオリ嬢。何やら、誤解があるようだが……」
何かに包まれる気配と、不意に届く声。
穏やかだけど、強制的に自分の思考に割り込んでくる藍色の気配。
白と黒の渦がその動きを堰き止められることによって、少しずつ、自分の意識と感情が戻って……。
「この隣室にいたのは、ユーヤだけだ」
自分が戻ってくるどころか、強制的にその思考は停止させられた。
「…………?」
―――― 今、この藍色の気配は、何を口にした?
少しずつ、「自分」は「わたし」に変わっていく。
そして、同時に黒い髪、黒い瞳の妖艶な笑みを浮かべる青年が脳裏に思い浮かんだ。
「……ユーヤ?」
その名前を口にしたことで、その頭の中にあったぼんやりとした映像が、しっかりしたものに変わった。
あれ?
今の話って、つまりは、どういうこと?
「ヴィバルダスさまは、まさか、本当に雄也の部屋に侵入したのですか?」
ヴィバルダスさまはトルクスタン王子の連れに手を出そうと、この隣室に向かったらしい。
そして、そこにいたのは雄也さんだけだったことも理解はした。
だが、そんな恐ろしいことを何故、やってしまったのだろうか?
そして、ヴィバルダスさまは無事なのだろうか?
あまりにも信じられないような展開に、思わず、わたしはそんな心配をしてしまった。
「暗闇の中で、風の気配だけ頼りに動けば、そうなるよな?」
自分の視界がはっきりしない中で、トルクスタン王子がそう言いながら、楽しそうに笑う気配だけは分かったのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




