侍女が付く前に
聞こえないふりをすることもできた。
だけど、それはできなかった。
その声は、オレにとっての「導き」だから。
「九十九……」
そんな弱弱しい声で、自分の名前を呼ばれた。
この部屋のすぐ傍に自分が潜んでいることも、彼女は知らなかったはずなのに。
彼女の感覚を誤魔化すために、魔力珠をいくつか精製していた。
そして、自分が宛がわれた部屋に置いておいたのだ。
だから集中しなければ、気付かれないはずだった。
それなのに、主人はオレの名を口にしたのだ。
「呼んだか?」
オレが彼女の背後に姿を現すと……。
「ほげっ!?」
案の定、奇声が上がった。
「相変わらず、珍妙な声だな」
そう言いながらも意識は別のところにあった。
―――― なんて、顔をしてやがる
心細そうに、オレを見つめる黒い瞳。
まだ一日と離れていない。
だが、こんなにも主人は不安そうな顔をしていた。
「なんで、ここにいるの?」
「主人が、オレの名を呼んだから」
姿を現す気などなかった。
彼女が寝た頃に忍び込んで、部屋を整えてやるつもりで、隣室にいたのだ。
主人の「魔気の護り」は眠っている時こそ有能だが、それは害意を向けた相手にしか発揮されない。
害意を持たない侵入者に対しては無反応なのである。
「だが、今日だけだ」
「ぬ?」
主人が不思議そうな顔をする。
「明日からはお前の世話をするヤツらが来るらしい。だから、ここでオレが世話するのは今日だけだよ」
オレがそう口にすると、栞は寂しそうに笑ったが……、不意に何かに気付いた。
「いや、そこじゃなくて、誰かに見つかったりしたら……」
「オレがそんなヘマをやらかす男に見えるか?」
その先の言葉は言わせなかった。
後に続くのは、自分よりもオレのことだと知っているから。
この家の息子の婚約者候補となった以上、彼女はこれまでのようにはいられない。
こんな風に男と会っていることを知られたら、責められるのは確実に、主人である。
それでも、気にしたのは恐らく、オレのことだ。
だから、言わせなかった。
でも、彼女は俯いている。
ああ、そうか。
オレのことだけではなく、別のことも気に掛けている顔だ。
―――― お前は、あの男のことを考えているんだな
黒い髪、黒い瞳の愛想も口数もあまりない男。
そして、主人の婚約者候補となった男でもある。
その相手から、彼女は「妻として愛することはできない」と、そう言い切られてしまっているのに、それでも、相手に対して心を砕くつもりなのだ。
「愛することはできない」と言っているような相手に対しても、その高潔さと貞潔さを貫く様は、まさに「聖なる女」だろう。
そのことは誇らしく、そして、酷く淋しい。
「メシは?」
話題を変えたくて、そう切り出した。
「え? あ、食べてない」
この時間になっても、食べてねえのかよ。
しかも、食事の準備をされている様子もない。
この部屋にしても、身内がいる場所や、他の使用人たちの部屋からかなり離れた場所にある。
恐らく、長い間、使われてなかったのだろう。
先ほど潜んでいた隣室もかなり埃が溜まっていた。
物置きでももっとマシだと思うほどに。
使わない部屋にかける手間はないらしい。
その割には、この部屋は幾分、マシに見える。
流石に、王族の紹介で来た相手に粗末な部屋を与える気はなかったようだ。
だが、メシを与えないのはいただけない。
早急に、専用の侍女を付けてもらいたいものだ。
尤も、もう、トルクスタン王子と兄貴が手を回しているけどな。
あの二人が手を組んだら、かなり恐ろしいことはよく分かった。
トルクスタン王子は権力、権限の使い方を知っている。
兄貴は、その権力者の扱い方をよく知っているのだ。
「ああ、言っておくけど、オレがここに来たのはトルクスタン王子からの命令だからな。兄貴からも許可を取ってる」
「へ?」
オレの言葉に、主人はきょとんとした顔を見せた。
「流石に独断じゃ、呼ばれても来ねえよ」
いや、呼ばれたら来るつもりではあった。
だが、彼女は呼ばないだろうことも分かっていたのだ。
だから、先に兄貴からの許可は取っていた。
侍女が付く前に、部屋ぐらいは整えさせてくれ、と。
「お前の世話する人間がまだいないと知って、トルクスタン王子がブチ切れそうになった」
そのために、トルクスタン王子がオレに向かって部屋と主人の様子を窺ってこいと命令してくれたのは「渡りに船」だった。
万一、この侵入が露見することになっても、言い訳のしようもある。
まあ、露見はしないだろう。
この部屋に妙な魔法の気配はない。
どうやら、盗聴も監視もする対象ではないと判断されているようだ。
中心から外していれば、余所者である彼女一人では何もできないと思われているのだろう。
甘いヤツらだ。
余所者こそ、注視する必要があるというのに。
尤も、そのために、オレや兄貴は動きやすくはなる。
「まあ、アーキスフィーロさまは断るつもりだったようだし、当主さまもわたしが庶民だから追い返すつもりだったみたいだからね。準備が間に合わないのは仕方ないよ」
この状況を「準備が間に合わない」と言った。
そんなはずはない。
事前から分かっていたことで、断るにしても、トルクスタン王子がいる以上、すぐに追い返すようなことはできないはずだ。
オレは大きく息を吐き、これ以上は何も言わないでおくことにした。
「だから、お前の荷物を運び入れるという体で来たんだよ」
身一つで来いと言った以上、本来、彼女の荷物を運び入れることはあまり歓迎されることではないだろう。
だが、相手の不備が多すぎる以上、そこを突くことはできる。
この際、主人の荷物を一時的に、この部屋に置かせてもらおう。
「だが、先にメシにする。これを食っておけ」
そう言って、保存食を渡した。
「ありがとう」
そのまま、彼女は笑顔で受け取ってくれる。
本当は、しっかり作った物を食わせてやりたい。
だが、今はまだ駄目だ。
ここの厨房を使う許可が下りていない。
……というか、この部屋は、風呂、トイレ、洗面所もねえ。
そうなると、部屋から出て、共同の物を使えってことか?
これが、息子の婚約者候補にやることかよ?
いや、この部屋が一時的なものということも考えられるな。
あまりにも酷すぎる。
この状態をトルクスタン王子に報告しておけば、もう少し、マシな部屋へと案内されるだろう。
「ここ、開けて良いか?」
オレは、クロゼットを指差した。
「服しかないよ」
「その服が見たいんだよ」
「良いよ」
始めは、普段使いの服の洗濯すら、なかなか許可を出さなかった主人だが、今回はあっさりと許可が下りた。
そのことを不思議に思っていると……。
「うおっ?」
一応、服は詰まっていた。
だが、趣味は悪い。
そして、明らかにサイズが合っていない。
トルクスタン王子は、連れてくる相手は小柄だということは伝えていたと聞いている。
それなのに、通常の女よりもデカいサイズの服ばかりを準備しているのはどういうことだ?
本人は、Mサイズを好んで着るが、体型的にはSサイズだ。
だが、ここにある服は、明らかに、3L、4Lのサイズに見える。
これなら、男のオレでも着ることができそうだった。
どれだけの巨漢が現れる予定だったんだ?
しかも、貴族よりも使用人が着るような服ばかりだった。
質も良くないし、手に取ってみると、補修跡すらあるものばかりだった。
いや、この補修跡は見事だと思うが、どれだけ舐めてんのか!?
さらに、よく見ると、彼女が今、着ている服も茶色で飾り気はなく、安物の服だった。
思わず、すぐに着せ変えたい衝動に駆られたが、流石に我慢する。
しかも、このクロゼットは……。
「まさか、メシもねえとはな」
思わず、大きく息を吐くしかない。
いろいろ我慢するために。
足りないのはそれだけじゃねえ。
だけど、それはトルクスタン王子に一度、伝える必要がある。
「うっかり、寝ちゃったからね」
ちょっと待て?
「お前、この状況でも寝たのかよ」
どこまで呑気なんだ?
今までとは全く環境も違うんだぞ?
「疲れていたんだと思うよ」
主人はそう言って、力なく笑ったのだった。
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