拭えない胸騒ぎ
その男は言った。
「私は、貴女を妻として愛することはできませんが、それを承知していただけますか?」
そんなふざけたことを。
「アーキス!!」
当然ながら、トルクスタン王子は怒り……。
「アーキスフィーロ様!?」
先ほどから入り口に近い位置で震えるように立っていた従僕は、悲鳴のような声を上げる。
始め、今回の縁談は、トルクスタン王子の思い付きのような話だと思っていたが、リプテラで詳しく話を聞いたところ、思った以上に政治的なアレやコレが絡んでいた。
だから、既に個人の一存だけで容易に破談できることでもないと思うのだが、それでもこの条件はねえだろう。
栞を馬鹿にし過ぎだ。
尤も、彼女の本当の価値を知らん人間が喚いたところで、然程気にすることでもない。
精々、見る目がねえなと笑ってやるぐらいだ。
何より、栞自身に動揺がなかった。
当人は先ほどの発言を侮辱と取っていない可能性が高い。
それならば、オレは彼女の意思に従う。
彼女が傷付いていなければ、こんなことは大した問題ではないのだ。
「お前、なんてことを言うんだ!?」
「本当のことです。後で伝わるよりは良いでしょう?」
「ふざけるな!!」
男に詰め寄るトルクスタン王子。
彼からすれば、顔を潰されているようなものだ。
怒るのも無理はない。
だが、それに対して、その発言をした男の方は落ち着いたものである。
あれだけの言葉を吐いたのだ。
これぐらいの反応は予想していたのだろう。
寧ろ、言われた当事者である栞に、何の動揺もなかったことを気にしているような気がした。
「ふざけてはいません。それを承知してもらえる相手以外と婚儀をするつもりはないと言っているだけです」
世間一般ではそれを「ふざけている」と言う。
縁談相手に向かって、「妻として愛することはできない」などと宣うのは、始めからその気がない相手だとしか思えない。
聞かされた境遇からも、多少、人間不信になるのは分かるが、少しばかり行き過ぎた発言だろう。
この世界の倫理からも、人間界の道徳からも大きく外れた言葉だ。
尤も、始めから突き放す気でいるなら納得はできる。
それでも、もっと相手に対して、言葉を選べとは言いたい。
過去のオレにも。
「トルクスタン王子殿下、わたしも発言してよろしいでしょうか?」
誰が収拾を付けるんだ? ……と、思い始めた頃、落ち着いた声がその場を支配する。
なんだろう?
嫌な予感がした。
「ああ、存分に胸倉を掴んで抗議しても良い」
それができるのは、貴方だけです、トルクスタン王子。
そして、身長差もあるため、栞が男の胸倉を掴んで多少凄んだところで、可愛いとしか思えないだろう。
「そんなことはしませんよ」
栞の笑う気配。
なんだろうな?
どうしても、胸騒ぎが拭えない。
彼女の一挙手一投足が気になって仕方がないのだ。
この場合、決して、良い意味ではない。
なんとなく、何かをやらかす気がして……。
「もう少し近付いてもよろしいでしょうか? アーキスフィーロさま」
「いえ、そのままの距離でお願いします」
栞の言葉に丁寧ながらも拒む言葉。
これ以上、近付かれては困るのだろう。
だが、その表情に変化はなかった。
「では、このまま、先ほどのお言葉について、お聞きしたいのですが……」
栞は可愛らしく首を傾けながら……。
「それは精神的な意味の話でしょうか? それとも、肉体的な意味の方ですか?」
そんなとんでもないことを口にした。
やりやがった!!
いや、言いやがった!!
そう叫ばなかった自分を誰か褒めてくれ。
いや、大事なことなんだ。
大事なことではあるんだけど、状況を考えろ!!
そんなオレのいろいろな思いを吹き飛ばすかのように、ぶはっ!! …… と、背後から景気よく大量の息が吐き出される音を聞いた。
どうやら、真央さんらしい。
今も口を押さえて肩を震わせている。
それを見た水尾さんも口は押えないまでも、顔を真っ赤にしているのだから、耐えているのだろう。
笑うほどのことではないが、その発言をしたのがあまりにも意外な人間だったことと、それまでの緊張した空気のために、気が緩んでしまったようだ。
いや、オレにとっては、意外でもなんでもないけどな。
栞がとんでもない発言をぶちかますのは、オレにとって、珍しくもなんともなかった。
慣れって恐ろしい。
気配で察することができるようになってしまうなんて……。
「し、シオリ嬢!?」
だが、その言動に一番慣れていないトルクスタン王子は動揺していた。
これはアレだな。
勝手に清純派だと信じ込んでいたアイドルが、お泊りデートを報道されたのを見て、茫然としてしまう感じだ。
「大事なことですよ?」
栞は不思議そうに問い返している。
いや、確かに大事なことではあるんだよ。
夫が妻を愛せない。
それが、心の問題か、身体の問題かでは、大いに変わってくる。
だけど、そんなものと無縁な顔をしていながら平然と尋ねられたら、男の方は絶対に困惑するぞ!?
「わたしと子供を作る気あるかどうかという話に繋がりますから」
それもそうなのだけど!!
会ってすぐに話す内容じゃねえよな!?
お前、セントポーリア城下や大聖堂でオレと会話しすぎたせいで、同級生男子とならば、そんな話をしても大丈夫って勘違いしてないか!?
中学校の時に、どれだけの仲だったかは知らんが、普通の男は全力で退くような言葉だぞ!?
そっちの男の発言が原因なのは分かっているが、それでも、女側からするような質問ではないだろう。
「子供ができなければ、周囲から責められるのは女性の方だと聞きます。子供を作る気がないなら、予め、その心づもりをしておかなければならないでしょう?」
だが、さらに続けられた言葉は、流石にオレも閉口せざるを得なかった。
栞はこの時点でそこまで考えていた。
相手が子供を必要とするかどうか。
そして、必要なければ……?
「シオリ嬢。貴女は……」
トルクスタン王子の声も震えている。
思っていた以上に、栞は割り切っていた。
利害関係だけを求められた縁談だと承知していたのだ。
子供を作る気がなければ、そんな関係でも良い、と。
だが、このままそれを承知して良いのか?
栞にとって、それは幸せなことなのか?
そこに迷いは出てしまうだろう。
「貴女の思っている通り、私は、精神的にも肉体的にも愛するつもりはありません」
そんな栞の言葉に対して、動揺することもなく、男は我が意を貫き通す。
彼女の意思など、関係ないと言うように。
「なるほど、承知しました。ご回答ありがとうございます」
そんな言葉を受けたというのに、栞は淡々と一礼した。
不思議なやり取りを見せられている気がするのは思い違いではないだろう。
必要以上に話さない男と、事務的な対応を崩さない栞。
いつもの呑気な性質はその形を潜め、人形のような表情と機械的な応答を続けていた。
その光景に違和感を覚えないはずがない。
いつもの栞とあまりにも違い過ぎるのだ。
これは、兄貴の入れ知恵か?
あまりにも、いつもとの齟齬が激しくて、オレ自身が混乱しそうだった。
「その言葉を呑み込めば、アーキスフィーロさまは今回の話を進める方向と言うことでよろしいでしょうか?」
栞はさらに問いかけると、あまり表情を変えなかった男が、少し目を見開いた気がした。
まさか、自分の一方的な条件に対して、彼女の方が迷いもなく承諾の意思を見せるとは思っていなかったのだろう。
そうなると、先ほどの台詞は、栞に断って欲しかったと言うことか?
まあ、流石に非常識な申し出だったもんな。
「いや……」
少しの迷いの後……。
「この話を続ける前に、先に、貴女の身体を試させて欲しいです」
さらに、そんな言葉を吐きやがったのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




