向かった先で
どんなに見知った形の町と同じだと言われても、その全てを知っていたわけではない。
基本的には自分の行動範囲以上の場所まで行くことはなかった。
だから、今、歩いている所は既に、わたしが知らない場所である。
「ローダンセの城下の一部が、わたしが住んでいた所にそっくりな理由は分かったのですが……」
そう言いながらも、ちょっと懐かしさを覚える風景に、思わず、いろいろな感情が揺さぶられていることは分かる。
「ここからどこに向かうのですか?」
「ロットベルク家だな」
トルクスタン王子に尋ねると、当然の如く返ってくる言葉。
「このまま歩いて行くのでしょうか?」
「嫌か?」
「いえ、わたしは大丈夫ですけど」
わたしたちは普段から歩いている。
だから、ある程度の距離は歩くことができる。
でも、トルクスタン王子は王子さまだ。
しかも、移動魔法が得意な王子さまである。
カルセオラリアにいた頃から、城下に出ていたことは知っているし、「音を聞く島」でもかなりの距離を歩いていたのは記憶に新しい。
「さっきの門番の人が言ったように、本物かどうか、勘繰られないかなと思いまして」
この世界の基本的な考え方として、王族がキロ単位の道を歩くって発想があるのだろうか?
実際、トルクスタン王子が一緒に来るようになってからは、移動魔法に頼るようになっている。
水尾先輩は始めからわたし以上に歩いていたけど、運動部の先輩と言うこともあって、そこまで違和感はなかったのだ。
いや、そもそも、この世界の王族って……、まるで庶民が友人宅に向かうかのように歩いてお宅訪問するものなのか?
この風景だからそれまでは違和感がなかったけれど、今更ながら、わたしはそう思った。
そもそも、トルクスタン王子は移動魔法が使えるはずだ。
そして、ロットベルク家の場所まで知っているのに、どうして、いつものように使わないのだろうか?
そんな疑問が湧かないわけでもない。
「本物かどうかは体内魔気で分かる。この国で俺以上の空属性の持ち主はいない。それに、ロットベルク家の者たちとは面識もある。俺が変わり者ということを含めて知られているから問題はない」
それはそれで問題である。
そう言いたかったけれど黙った。
先ほどまで遠目に見えていたわたしが知っている風景内に足を踏み入れてから、九十九と雄也さんの気配が変わっている。
ここまで緊張感を漂わせている二人を見るのはちょっと久しぶりだ。
表情だけ見ると、九十九は無表情だし、雄也さんはいつもの柔和な笑みを浮かべているのだけど、肌に伝わる風属性の体内魔気が少しだけ、模擬戦闘に近い。
水尾先輩も真央先輩も先ほどと同じように周囲を見回しているのだけれど、口を開かなくなった。
声を出しているのは、わたしとトルクスタン王子だけ。
いや、わたしの場合は緊張感が漂っているこの沈黙に耐えかねているだけなのだけど。
トルクスタン王子がいてくれて良かった。
少なくとも、わたしと会話をしてくれる。
手を握られている点は気になるけど。
でも、がっしりじゃなくて、わたしの右手に添えるだけというか。
これは、付き添い行為と呼ばれるものだというのは分かっていても、落ち着かないのは、間違いなくこの身長差にあるだろう。
トルクスタン王子は、多分、180センチを超えている。
この集団の中で最も長身なのだ。
つまり、150センチ前後と思われるわたしとの身長差は、30センチを優に超える。
頭一つ分という表現では間に合わない程である。
見た目にも大人と子供だった。
だから、この状態は、付き添い行為というよりも、迷子の保護が近い気がする。
それでも、トルクスタン王子と並んで歩くことができているのは、さり気なく歩幅の調整をしてくれているのだろう。
これだけ歩幅が違うと大変なことはよく知っている。
これは王族として、付き添い行為に慣れているってことなのかな?
「どうした? シオリ嬢」
その呼び方は、どこかの情報国家の国王陛下を思い出す。
いや、未婚女性なのだから、呼び方としては正しいのだが、トルクスタン王子からはそう呼ばれ慣れていないために違和感が酷い。
いつもは呼び捨てなのだ。
完全にそれに慣れてしまっていた。
でも、まあ、今回の目的が目的だからそれは仕方ないのか。
一応、見合い相手に紹介する時に、呼び捨てってわけにもいかないんだろうね。
「なんでもありません、トルクスタン王子殿下」
それなら、わたしもそれに倣うべきだろう。
だが、わたしがそう呼ぶと、トルクスタン王子は分かりやすく奇妙な顔をした。
「なんだろう? 距離を感じる」
「? 普通の言葉ですよね?」
「そうなんだけど、何か違う」
いや、先にわたしに「嬢」を付けたのは、トルクスタン王子の方だったはずなのだけど。
あれ?
でも、そこで距離は感じなかった。
それだけ、わたしの呼びかけって不自然ってことかな?
「でも、仕方ないのか。暫くは我慢しよう」
トルクスタン王子は肩を竦める。
いつも思うけれど、この方は王族の割に表情が、いや、それは水尾先輩も同じか。
二人とも表情も感情も隠すことはできるけど、身内の前では隠そうとしない。
ちょっと気を許しすぎるところがある。
上がいる兄弟姉妹ってそんな感じなのかな?
わたしにはよく分からない。
「ここだ」
結構、歩いてその風景も見知らぬものになった頃、トルクスタン王子がそう言って立ち止まった。
周囲は明らかに高級な感じの建物が並んでいて、その中でも、一際、大きな建物の前にわたしたちはいた。
印象としては大きなマンションが立ち並んでいる感じだ。
貴族の家って、手前に塀などの囲いがあって、庭があるイメージだったけれど、通りに玄関口が面している。
これでは侵入が楽になってしまうのではないだろうか?
何より、本当にここであっているのだろうか?
ちょっと不安になってしまう。
トルクスタン王子は時々、おっちょこちょいだし。
そして、言われるがまま、正門からここまで歩いてきてしまった。
しかし、この場合、それが正しいのかどうかも分からない。
なんとなく、後ろを振り向きたくなるのを我慢する。
九十九も雄也さんも、水尾先輩も真央先輩も、今回はトルクスタン王子の連れであって、わたしの連れではないのだから。
「シオリ嬢」
「はい」
「ここから先は、暫く、俺が護らせてもらう」
ぬ?
どういう意味?
「貴女は俺の隣で、暫く微笑んでいるだけで良い」
「承知しました」
何があっても、黙っていろということか。
余計なことを話すなと。
でも、それはなかなか難しいかもしれない。
できるだけ、顔を作って、表情の参考は雄也さん、いや、ワカの方が良いかな?
いや、どちらかというと殿方を立てろ、……な文化だったはずだ。
そうなると汐らしく嫋やかな……?
わたしにそんな女性に知り合いは、トルクスタン王子の妹であるメルリクアン王女殿下っぽく?
無理!
とりあえず、言われたとおりに笑っておこう。
そうしよう!
その上で、後は、流れに任せよう。
トルクスタン王子は玄関の大きな扉の前に立つと……。
ぴろぴろぴろぴろり~♪
「へ?」
どこかで聞いた覚えのある音楽が流れ始めた。
呼び鈴を押したわけでもなく、そこに立っただけで音が鳴るのはコンビニの入店音のようだが、それ以上に……。
「エリーゼのために?」
イントロだけでも分かるほど有名な曲がアレンジされたものだった。
わたしはピアノを習っていないから弾くことはなかったが、母は弾けたのでよく覚えている。
「バイエル」というピアノ練習用の教本の後ろに載っているらしく、何度も練習していた懐かしい曲だった。
その有名な曲が、今も流れている。
「これは……?」
「ローダンセの一部の家で玄関の扉の前に付けられている音だな。来訪者がこの場所に立つと音楽が鳴り出すらしい。そして、扉が開くまで鳴り続ける」
「家人がお留守の時は鳴り続けるのですか?」
それはかなりご近所迷惑なのではないだろうか?
「城下が崩壊などの災害が発生しない限り、まず、貴族の邸宅が空になることはないからな。この音が鳴り続けても全く反応がなければ、邸内で何か起きたことを疑う方が良い」
かつて城が崩壊した経験をお持ちの王子殿下は爽やかに言う。
「ましてや、こちらは先触れを出している。これで、この曲が終わるまでに扉が開かなければ、家令やそれを使う主人が無能だということだ」
トルクスタン王子は邪気のない顔で答える。
皮肉として、言っているのではなく、事実を言っているらしい。
さて、その「Für Elise」。
ピアノで弾くと、弾き手の腕や曲のテンポにもよるが、3分弱の曲だったはずだ。
イ短調からヘ長調に変わり、またイ短調へ戻ったところで……、目の前のごつい扉が開かれたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




