滞在期間延長
「何回だ?」
「25回。流石に気の毒だった」
兄貴の問いかけに対して、オレは溜息を吐いた。
何の回数か?
本日一日で、トルクスタン王子が、ダンス講師の足を踏んだ回数である。
中断を講師が望まなかったために、曲が終わるたびに治癒魔法を施す形にしていたが、身体は癒されても、踏まれた瞬間の痛みや、学習能力のなさに唖然とする気持ちが無くなるわけではない。
オレの治癒魔法は心までは癒せないのだ。
それでも、ダンス講師は一度も辞めるとは言わなかった。
それなりに金銭を与えているためとはいっても、見上げたプロ根性だと思う。
「これが初日というわけでもないのにな」
兄貴も苦笑する。
この屋敷に半ば無理矢理、留め置かれて既に十日は過ぎていた。
本当はとっくにローダンセに向かう日となっていたのだが、トルクスタン王子が予定を変更して一月後に行くと言ったのだ。
どれだけ、ダンスができないのが嫌なのか。
トルクスタン王子はカルセオラリアの人間なのだから、別にローダンセで踊れなくても問題はない。
だが、オレたちどころか、初心者である栞まで三日ほどでほぼ踊りの形になったのだ。
小柄な栞は、自分を大きく魅せる方法を知っている。
ちょっと元気が良すぎるかもしれないが、照れることなく大きく動けるのはかなりの利点だろう。
そして、同じく初心者の水尾さんと真央さんもぎこちないながらも、今回用意されていた曲の足運びだけは覚えたらしい。
足運びさえ覚えることができれば、後は、男次第でワルツは形になる。
尤も、実際は身体の配置とか揺らし方とか、いろいろ覚えるべきところはあるのだが、男が慣れたヤツならなんとかなるだろう。
トルクスタン王子は、せめて、一曲ぐらいはまともに踊ってやる! ……と、意気込んだ結果、ダンス講師の足が一日当たり二桁も踏まれる悲劇へと繋がっている。
「だが、同じ箇所での誤りは一度としてない。ある意味、器用なものだ」
「いや、感心するところが違うだろう?」
厄介なことに、トルクスタン王子がダンス講師の足を踏む場所は毎回違うのだ。
同じ場所で踏むなら、悪い癖を直すなど、改善の余地はあるが、一度失敗した箇所に関してはある意味、学習していたらしい。
講師たちも注意が難しかったことだろう。
そして、別の場所にいながらそのことを把握している兄貴もどうかと思うが、そんなことは今更の話だな。
さて、件のダンス講師たちだが、栞の後輩が指導者として紹介してくれた男女はもともとローダンセでワルツを知り、それを他国に広めようと、この芸術の街とも呼ばれるリプテラまでやってきたらしい。
この町で受け入れられたら、似た感覚を持つ芸術系の人間たちが、さらに別の場所へ広めてくれるだろうという目論見があってのようだ。
そこで、町の管理者の配偶者から声がかかったのだから喜んだことだろう。
要は周知活動の一環でもあるということだ。
この世界のワルツの歴史は浅い。
いや、ワルツだけでなく、歴史的に舞踊と呼べるのは、聖堂が管理している神官や神女たちが神に祈りを捧げるために舞う「神舞」ぐらいだ。
それ以外なら、旅芸人たちが支配者層や大衆のために、娯楽の一環としてその一座で作った民族舞踊のようなものを踊るぐらいだろうか?
そもそも、踊るために必要な音楽自体が少ない。
人類の歴史は人間界よりもずっと長いのに、この世界ではそんな娯楽はそこまで発展しなかったのだ。
このリプテラに来て、ようやく、竪琴などの弦鳴楽器や、笛などの気鳴楽器、太鼓など膜鳴楽器と、多様な楽器を見たほどだった。
それでも、その種類は人間界と比べるべくもないのだが。
いや、オレとしては、竪琴、笛に大きさ、形以外の違いがあることも知らなかったというのが正直なところだ。
ヴァイオリンが、四種類ほど大きさの違うものがあることは知っていた。
だけど、ラッパの色なんて、そこまで気にしたこともない。
楽器を壊すことなく音を鳴らせる技術があるだけ、十分、すげえよ。
「しかし、一月とは随分、延ばしたよな」
それでなくても、予定よりもかなり遅くはなっているのだ。
日程を確約していたわけではないが、それでも、相手は待ちくたびれているのではないだろうか?
尤も、この町の滞在期間が延びることに対して、あの栞の後輩にとっては朗報だったわけだが。
栞と水尾さん、真央さんに関してはこの別邸ではなく、本邸の方へ招待したかったらしいが、三人して断った。
オレたちがセントポーリア城下と大聖堂にいる間、水尾さんと真央さん、兄貴はこの別邸を借りていたと聞いている。
勿論、金を出した上で、だ。
この町の管理者は喜んだことだろう。
別邸の維持管理をしてくれるだけでなく、金もくれた上、手もかからないような人間だったのだ。
身分を明かせない以上、その待遇はやむを得ないことだったし、当人たちもそこまで問題でもなかった。
だから、今更、本邸で客人扱いされたくもなかったようだ。
別邸で兄貴から世話をされている方が、主に食事の面で良かったらしいからな。
「ローダンセは、トルクに来てほしくないようだからな」
「あ?」
さらりと兄貴が口にした言葉を短く問い返す。
「ロットベルク家としては家の利となる女性が来るのは望ましい。カルセオラリアの王族ととの繋がりも強化されるからな。だが、ローダンセの王族たちはカルセオラリアの王族関係者に入国してほしくないようだ」
「どういうことだ?」
オレがさらに詳細を求めると……。
「ローダンセはあの『音を聞く島』の問題を明るみにしたトルクに対して、あまり良い感情を抱いていないと言うことだな。ウォルダンテ大陸には伝わっていないはずだが、『ゆめの郷』の問題にも関わっている」
兄貴は苦笑しながらも語る。
「他大陸の問題にも躊躇なく介入するような男が入国するのだ。痛くもない腹を探られるならともかく、腹のあちこちが痛む国ならば、空気を読むことをしないトルクの存在は厄介でしかないだろうな」
「要は、正義感の塊で、しかも、他国の王族であるために自国の法で言動を縛ることもできない厄介なヤツには来てほしくないって話か?」
どれだけ不正を溜め込んでいるのかは知らんが、そんな扱いにくい人間が国内をうろうろして欲しくない程度には、ナニかがあるらしい。
「それと、単純にロットベルク家にこれ以上、力を付けさせたくないというのもあるだろうな。ただでさえ、王族との繋がりが強い家だ。そこにカルセオラリアの王族とも新たな繋がりを持てば、厄介極まりない」
「つまり、ローダンセは敵陣ってことだな」
「お前は相変わらず、敵か味方かの認識しか持てないのか」
呆れたように言う兄貴。
「その方が分かりやすい」
いっそ、全方位が敵だと思った方が、いくらでもやりようがある。
全てから彼女を護れば良いだけだ。
寧ろ、味方面している方が、タチが悪い。
「その国にいるという栞の見合い相手は敵か?」
「さあな」
兄貴は明言を避けた。
―――― アーキスフィーロ=アプスタ=ロットベルク
それが、カルセオラリアの王族の血を引き、ローダンセの王族に仕える男の名前だ。
そして、栞の縁談相手でもある。
親族であり、今回の仲介人でもあるトルクスタン王子が言うには、良い男らしい。
そして、兄貴も主人の縁談相手としては不足がないと言う。
そんな情報を聞かされたところで、オレは多分、冷静に分析はできないだろう。
栞の縁談相手というだけで、オレは絶対、穿った見方をする自信がある。
「ところで、トルクの案だが、本当にお前もアレを呑むつもりなのか?」
数日前にトルクスタン王子から出された提案。
即答はしたものの、それに慣れるためには、準備に時間をかけた方が良いのは間違いなかった。
「おお。兄貴も迷わなかっただろ?」
どちらかと言えば、オレの方が慣れるために時間が必要だろう。
兄貴ほど向いていない自覚はある。
「お前が覚悟を決めたなら、これ以上は、俺も何も言わない」
「おお、何も言わないでくれ」
余計なことを言われても、その意思を変えるつもりなどない。
これはオレが決めたことだ。
栞にも反対はさせない。
いや、できないか。
彼女が知る頃には、その準備が整い、全てが終わっている。
反対しようにもできない状態になっているだろう。
さて、鬼が出るか蛇が出るか。
そして、オレの心はどれだけ殺すことができるのか。
全ては、この先で分かる話だ。
この話で110章が終わります。
次話から第111章「弓術国家」です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




