最後に一つだけ
あの時、九十九が一時的とはいえ、正気に引き戻したのはわたしの叫びと、その後に次々と思い出された声だったという。
「誰の声だったの?」
「それについては言いたくはねえ。勝手に想像しろ」
「ぬう」
でも、確かにこの表情から無理に聞き出すことは難しそうだ。
そうなると、兄である雄也さんが有力かな?
それならこの表情にも納得はできるというものである。
でも、それならさらっと言ってくれそうな気はするけど……。
まあ、それは重要というわけでもない。
それなら、これ以上、九十九の機嫌を損ねるよりは、放っておいた方が良いだろう。
「言いたくないなら今は聞かないけど、いつか九十九が話しても良いと思った時は、その恩人さんのことをちゃんと教えてくれる?」
「……おお」
良し!
約束はした。
九十九は真面目で律儀だから、この約束を覚えている限り、いつか、必ず教えてくれることだろう。
「まだ聞きたいことはあるか?」
「ん~? 大方、聞けた気がする」
本当はまだいっぱいある。
あの時の「抱きたくない」って発言は、本当に嫌だからじゃなかったのか? ……とか。
でも、それはなんとなく、分かったからもういいのだ。
「ああ、でも、最後に一つだけ聞きたい」
「なんだ?」
これは、わたしでもちょっと恥ずかしい言葉だ。
でも、聞いておきたかった。
「あなたの記憶に残っているわたしは、その……、魅力的だった?」
「――――っ!?」
わたしの問いかけに九十九が目を丸くする。
「いや、『発情期』によって、何割増しかに見えていたとは思うのだけど……その……」
ああ、恥ずかしい!!
どんな自信家なのか?
それでも、聞いておきたかった。
わたしは、あの時、生まれて初めて、この青年から女性として求められたのだ。
それが、「発情期」による気の迷いと呼ばれる種類のものであったことは重々承知だけど、それでも、たまたま目に付いただけだと言われたくはなかった。
九十九は少し考えて……。
「おお、オレがうっかり血迷うぐらいには魅力的……だったよ」
凄く小さい声だったけど、そう言ってくれた。
「そっか」
それならば良い。
彼の記憶が「発情期」の熱によって、多少改ざんされたものであっても、それでも、その記憶の中でわたしがそれなりに見えていたなら、満足なのだ。
「いや、違うな」
ぬ?
ここでまさかの否定?
だが、違った。
「栞はいつだって、可愛い」
そんな蕩けるような声と顔で言われたら……。
「ふぎょえっ!?」
わたしは叫ぶしかない。
ここに来て、そんな言葉はズルいと思います!!
「お前は本当に、こんな言葉に弱いよな?」
それはあなたの顔と声が悪いのです。
「どうしたら、強くなるんですかね?」
「慣れろ」
「うううっ」
どうやら、また揶揄われているらしい。
その証拠に九十九の顔に照れが全くない。
これは完全に嘘ではないのだけれど、本心かと言われたら微妙なところなのだろう。
社交辞令か、以前もやってくれた疑似恋愛の提供なのか、それともこういった口説き文句の耐性を付けるためか、判断ができない。
慣れろって言われたから、耐性かな?
いつか慣れるんですかね?
こうやって九十九から何度も言われたら慣れるもの?
いや、慣れる前に恥ずかしくて死ぬ気がする。
護衛に殺されるって、なんて、裏切りなのか?
「栞、寝台で蹲るのは止めてくれないか?」
「九十九が酷いからじゃないか」
蹲っているというよりも、先ほどの台詞の破壊力がありすぎて、伏しているだけです。
自分で確認しておきながら返り討ちにあった気分。
「栞」
背後に不穏な気配。
「オレが襲う前に止めろ」
そんな言葉を耳元で囁かれたら……。
「~~~~っ!?」
声も出なくなるに決まっている!!
わたしは思わず、座っていた寝台に突っ伏して丸くなる。
顔が!?
顔が上げられない!!
「おいこら」
「ごめんなさい! 勘弁してください!! 起き上がるから、ちょっと離れて!!」
「離れない」
そう言って、背後からお腹に腕を差し込まれて……。
「よいしょおっ!!」
そんな掛け声とともに、寝台から引き離された。
「ふぎゃあっ!?」
「全く……、お前は本当に反省してねえな」
そして、抱き上げられたというよりも吊り下げられている。
九十九の両腕に支えられているが、床に足が付かない。
気分は物干しざおに掛けられた布団だろうか?
「先ほどの話題から、オレの頭がソッチに引きずられやすくなっているんだから、あまり煽るのは止めてくれ」
「煽る?」
九十九の両腕にぶら下がりながら、わたしは床を見ている。
「オレは健康的な男なんだ。中坊よりはマシだが、それなりにちょっとした言動でも反応しちまうんだよ」
「えっと? ごめん、もっと分かりやすく?」
わたしがそう言うと、背後から大きな息を吐く音がする。
「『発情期』関係なく、男が食いたくなるような行動をするなって言ってんだよ」
「ほげっ!? そ、そんな行動をした覚えはないよ!?」
この場合の「食いたくなる」っていう言葉は、ソッチ方面の意味だろう。
オオカミさんに食べられるという比喩的表現。
「密室だというのに男の前で寝台に載る」
一死!
「そのまま背を向けた上、顔を見ないで動かない」
二死!!
「挙句、捕まえられても抵抗しない!!」
す、三死!?
「お前な~、相手がオレじゃなければ、とっくに襲われてるぞ?」
「それって、九十九だからセーフってことなんじゃないの?」
一応、抗議してみる。
一度宣告してしまった審判の判定は何があっても覆られない。
だが、九十九は審判ではなく護衛だ。
それならば、判定が覆る可能性だってあるかもしれない。
「お前……」
九十九が何かを言いかけて、ふと表情を緩めた。
あ、なんか嫌な予感がする。
背中に何か、覚えのある感覚が走り抜けた。
「それは……、オレに食われたいってことか? シア?」
いきなりの変貌。
そして、蠱惑的な低音が耳を擽る。
耳がっ!?
耳が溶ける!?
背中が!?
背中がゾワゾワってした!!
しかも、「シア」って、「シア」ってあの「シア」だよね?
一日だけの「九十九」の恋人だった「シア」。
つまり、それが意味するものは……?
「ちょっ!? やだあああああっ!?」
「ここまでしなければ、危機感を覚えない方が悪い」
逃げようとジタバタすると、九十九がいつもの声に戻して、わたしの足を床に降ろしてくれた。
「頼むから、護衛とはいえ、男の吹けば飛ぶような脆い理性に過剰な期待をするな。本当に! 頼むから!!」
念押しに次ぐ念押し。
「男の中には女なら何でも良いってヤツも少なくねえんだ。それはこの国の神官たちを見ていれば分かることだろ?」
分かる。
いや、細かく言えば、神官たちだって相手を選んでいるだろう。
神官たちの目的は、単純に肉体的な欲望を満たすだけでなく「穢れの祓い」と言われる自身の法力を強化することなのだから。
それでも、不特定多数と交際するような男性が一定数存在することも知っている。
「相手の顔や身体も、暗い場所ならそこまで気にならなくなる」
「おおう」
そえは極論だと思うけど、そんな人もいるかもしれない。
「でも、九十九は違うよね?」
誰でも良いというのなら、彼は「発情期」になっていないと思う。
女性との出会いは少なかったかもしれないが、この国にいた時、数名の神女から声を掛けられていたはずだ。
出会いが全くなかったわけではないと思う。
まあ、変なところで鈍い彼のことだから、気付いていなかった可能性もあるだろうけど。
「何度も言うが、オレも男なんだよ。『発情期』に関係なく、いろんな要因で身体がヤりたくてたまらなくなる時もあるんだ」
「そうなの?」
「さっき話した血が集まる条件に似ているが、疲れている時、激しい戦闘後に気が昂っている時、著しく生命力が低下している時はそうなるな」
疲れている時と著しく生命力が低下している時にというのは、種族維持本能というやつだろう。
激しい戦闘後というのはちょっと分からない。
九十九は時々、模擬戦闘を行うが、それは激しい戦闘ではないのだろうか?
実はその後、大変なことになっている?
「それって、男の人は皆そうなの?」
「人による。性欲の強さの話にも繋がるから細かいことはなんとも言えん。尤も、あまりにも日常生活に支障があるほどヤりたくてたまらない状態なら、性依存症を疑った方が良いけどな」
つまり、先ほどの例は、九十九の体験談ってことかな?
殿方の生理現象はやはりよく分からない。
「とりあえず、疲れている時の九十九に近付いちゃ駄目というのはよく分かった」
わたしがそう言うと……。
「頼むからそうしてくれ」
九十九は困ったように笑うのだった。
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