たった一度の裏切りも
「あの時、あのまま、お前を抱いていたら、恐らくオレは自死していた」
九十九はそんな衝撃的な言葉を呟くように小さな声で口にした。
自死って自殺のことだよね?
それって……。
「九十九にとって、アレはそんなに嫌なことだったの?」
わたしを抱くことがそれだけ嫌だってこと……だよね?
文字通り、死ぬほど嫌だったってことになる。
「違う」
だが、彼は即座にそれを否定する。
否定してくれた。
「お前を無理矢理抱くことは、オレにとっても、雇用主にとっても信頼の破綻だ。そんな事態を引き起こした時点で生かされることはないし、オレ自身も生きる意味はなくなる」
その雇用主の信頼の破綻というのは分からなくもない。
契約の裏切りとかそんな感じの話だろう。
彼らがどんな雇用契約を結んでいるのか分からないけれど、これまで九十九の口ぶりから、セントポーリア国王陛下から、わたしに手を出すなとかなり強く言い含められている気はしている。
それを破った時には「死を持って償え」とか、この世界ではそんな契約形態もあるのかもしれない。
それが、わたしの意思とは無関係に、無理矢理、力尽くというのなら、尚のことだろう。
正直なところ、そんな苛烈な人には見えないけれど、時々、わたしも思わぬ方向に突き抜けたこともある。
何より、あの人は、一国の王だ。
それも各国からその真面目さを称賛されるような人。
裏切り、契約を破る行為などが許せない人である可能性は高い。
それが、あの「絶対命令服従魔法」に繋がっていると考えれば、そう不思議な話でもないと考えた方が良いだろう。
大陸神との契約による王族だけに許された「隷属魔法」。
その部分はわたしが口出しできない。
全ては過去の九十九と雄也さんが承知して、セントポーリア国王陛下と結んだ約定なのだから。
それがなければ、彼らはわたしの傍にいなかった。
だけど、セントポーリア国王陛下が処罰するのではなく、九十九が自ら死を選ぶ……、自殺するのは何かがかなり違う気がする。
そんな契約を結んでいる?
主人を裏切ったら、「自害せよ」って。
でも、そんなことをしたら、その瞬間からわたしを護る人がいなくなっちゃうよね?
それに、たった一度の裏切りも許さないってこと?
それとも、セントポーリア国王陛下の倫理観がそこまで堅物?
でも、過去に、正妃がいるのに、母に手を出している。
だから、本当に堅物だとは思っていない。
「なんで、そこで九十九が自殺しちゃうの?」
あれこれ考えてみても、結局、分からないから直接聞いてみた。
わたしのことが嫌だったってわけじゃなかったのは分かった。
だけど、そこで、死を選ぶというのはやはり理解できない。
「あのな~。オレの立場を考えてみろ。護衛だぞ? 護衛。その護衛が護るべき主人を害するなんて、お前の好きな戦国武将たちだって切腹もんじゃねえのか?」
「戦国武将にもいろいろいるからな~」
最期まで主を護ろうとした忠臣から、主を裏切って下剋上を起こして歴史を変えてしまった謀反人と呼ばれる人までいる。
主を裏切った武将の末路は、そのほとんどが、討伐後、斬首だったはずだ。
勿論、追い詰められての切腹後、斬首という話もあるけれど、九十九の罪がそこまで重いものではないと思う。
「じゃあ、オレの考え方はそうなんだよ。いい加減、それを覚えてくれ」
「覚えても納得はしない」
「おいこら」
九十九は顔を顰める。
「わたしの考えはそうなんだよ。いい加減、それを認めて欲しいな」
これだけは譲れない。
譲るつもりはない。
「護衛が主人の盾になって死ぬならともかく、関係ない所で死ぬことを許すのは違うでしょう?」
本当は盾になって死んでほしくもない。
でも、それが九十九の考え方なら、仕方ないとも思っている。
それを否定することは彼の生き方を否定することだって気付いたから。
それならば、わたしが死なせないように彼を護るだけである。
だけど、自分から死を選ぶこと、生きることを諦められてしまったら、何も手を尽くすことができなくなってしまう。
それだけはして欲しくない。
「関係はあるだろう?」
「失敗や罪を死で償おうとしないで。これからもわたしの護衛を名乗るなら、簡単に死なないで。安易に生きることを諦めないで」
九十九にそんな面があることを知っている。
兄である雄也さんにも。
彼らは死を身近に感じたことがわたし以上にある。
血の繋がった身内や親しかった人が幼い頃に亡くなっているのだ。
だから、命が簡単に失われてしまうこの世界ではその考え方は珍しくないと言ってしまえばそれまでなのだろう。
でも、わたしにはその考え方はとてもじゃないけれど受け入れることはできない。
「わたしを護るためにとことん最期まで抗って!」
せめて、それを約束して欲しかった。
生きていれば、助けるために手を尽くせる。
「お前な~。それでも、オレがお前に何かしたら……」
それでも、九十九がそう言い返す気配があったから……。
「もうその危険はないでしょう?」
わたしがそう言えば、彼は口を噤んだ。
「九十九はもう二度と『発情期』にならない。ミオリさんから聞いたから、それは間違いないよ」
九十九はそのことを全く覚えていないと言った。
嘘を吐かない彼だ。
だから、その言葉に嘘はないのだろう。
本当に九十九はそのことを覚えていないのだと思う。
だけど、わたしは聞かされてしまった。
他ならぬ、九十九のその相手から。
「それこそ忘れろ」
彼は露骨に眉を顰め、その眉間に縦皺を刻んだ。
「忘れるにはちょっと難しいかな」
ミオリさんが語ったことはそれだけ、嫌な時間だった。
自分が「発情期」になった彼から強引に抱かれかけたあの時よりも、もっとずっと深く大きな傷と苦痛を覚えるぐらいには。
「聞きたいなら話すよ」
気は進まないけれど、そう尋ねてみた。
九十九には聞く権利はあるから。
「要らん!」
「ぬ?」
わたしの言葉に九十九は反駁する。
「気にならないの?」
「全く! 前にも言ったが、覚えてなかったことは、かえって都合がよかったぐらいだ」
先ほどよりも、もっと強い調子でそんなことを口にされた。
「でも、その初めての体験ではあるんだよね?」
「他者から聞かされたそんな経験に何の価値がある? そんな覚えてもいないことよりも、オレはその前の記憶だけで十分だ」
「ぬ?」
その前の記憶?
「オレにとっては、『命令』されて全く覚えてもいない経験より、自分の意思で行って思い出せる体験だけで良い」
「それって……?」
会話の流れから、その、えっと、覚えてもいないミオリさんとの初体験よりも、それより前にあったわたしとのその……、そういったことをした時の方が、九十九にとって価値があるってことだとは思う。
でも、その意味は分かっても、それをどう解釈すれば良いのだろう?
これが、九十九がわたしのことを好きだというのなら、話がかなり早いし、理解もしやすいのだ。
だが、実際は、そうではない。
九十九はわたしのことを可愛いと思ってくれているみたいだけど、異性として好きというわけではないのだ。
そのことは、それとなく、何度もしつこいぐらいに聞かされているから理解している。
嘘を言わない彼だ。
だから、その点については誤解しなくてすむ。
時折ある、甘く優しい九十九の言動も、その部分を理解しているからまだ耐えられているのだ。
そうでなければ、わたしは何度、彼から致命傷を負わされているか分からないだろう。
さっきの「自死」云々の話にしても、根底にあるのは雇用主に対する忠義や忠誠と呼ばれる種類のものだ。
それはわたしに対する愛だの恋だのという話ではない。
「あまり深く考えるな」
考え込んでいたわたしに向かって、そう口にする。
「男って生き物が、それだけどうしようもなくエロいってだけだ」
さらに、そんな聞かされてもどうしようもない言葉まで続けられてしまったのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




