死を覚悟する状況
オレは穴が空きまくった床の上に張り付けられている。
さらに、首元に刃を突き付けられた状態。
そんな死を覚悟するような状況だというのに、頭だけは妙に冷えていた。
大神官は「禊」に入る直前だという。
それならば、かなり気が立っているだろう。
身体強化しているというのなら、腕が疲れることはないだろうけれど、それでも感情に引きずられて首を飛ばすようなことがあっても驚かない。
「常に死を意識している相手には、容易に警告することもできませんね」
そう言いながら、大神官はオレの首元にある刃物を退く。
どうやら、死の気配からは解放してくれるらしい。
だが、張り付けの刑はまだ続行されるようだ。
半輪は今も、オレの身体を縛り付けている。
「少しだけ栞さんの感じた恐怖と似た種類のものを体感させて差し上げようと思いましたが、困ったことに九十九さんには通じないようです」
その言葉こそ、背筋が凍った。
栞の感じた恐怖とは、なんだ?
「今回のことを通して、私は一時的に栞さんと感覚の共有を致しました」
「感覚の……、共有……?」
「はい。意識の共有をしようとしたのですが、咄嗟のことだったために、感覚のみの共有……、それも栞さんの感覚の一部が私に伝わるだけという一方的なものとなってしまったのです」
それは、例の「境界」へ行った時の話か。
感覚の共有……、それなら普通は六感の共有ということになる。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そして、識覚と呼ばれる、この世界の人間が持つ魔力や法力などを感じる能力のことだろう。
識覚は、人間界で言う第六感と呼ばれているものだ。
そして、栞が言うには境界では視覚、聴覚以外の感覚はほとんどなくなるらしい。
夢の世界から行くものだからだろう。
夢では、それら以外の感覚はあまり必要としないからな。
「私の意識は栞さんと繋がっていました。その時に、あの方が見たもの、聞いたもの、話したものだけではなく、その時に湧き起こった感覚的なものが伝わってきたのです」
ああ、この場合の感覚というのは、通常の六感によって起こる意識の変化……、心の動きというやつか。
栞は五千万年も昔の映像を視たと言っていた。
その時の感情が伝わったということだな。
「但し、その間の思考は分かりません。だから、栞さんが何を思ってどのように心を揺らしたかまでは知り得ないことでした」
思考……、それを見ている間の心が読めたわけではなかったのか。
そうなると感覚が伝わるというのは、嬉しいとか、楽しいとか、哀しいとか、腹立たしいとか、そういった感情だけが伝わるだけということなのだろう。
感覚の共有といってもその心情の全てが分かったわけではないらしい。
尤も、それは栞が大神官にとって予測不可能なことをしたために起こったことであり、本来は、それすらも分かった可能性は否定できないが。
「栞さんが最も、心を揺らされたのは、『闇陽』でした」
その言葉にゾクリとしたものを覚えた。
先ほどまでのヒヤリを越えた感覚。
そして、同時に、自分の首のすぐ横に、何かが振り下ろされたことだけは分かった。
錫杖ではなく、もっと別の薄くて細いナニか。
自分の首の薄皮一枚か、二枚がそれによって、切られたことだけは分かった。
だが、血は出ていないだろう。
せいぜい、蚯蚓腫れのような紅い筋が首筋に一本、引かれただけのことだ。
だが、ようやく、オレは気付いた。
そして、大神官が何に怒りを覚え、何のためにこんなことをしているのかも。
「勿論、例の件に関しては、九十九さんの立場も理解できるつもりです。そして、同じ男性としても、その心情は納得できるものではあります。それについては、昨日、お伝えしました」
大神官は、「ゆめ」によってオレが「発情期」を無理矢理、引き起こされた上、栞に手を出してしまったことは既に知っている。
勿論、その行為の最後まで至らなかったことも。
それは報告すべきだと思ったのだ。
この大神官は、オレの発情期に対しても心を砕き、過分な配慮をしてくれた方であった。
本来、「禊の間」など、神官でも信者でもない人間が使えるような場所ではないのだ。
それもこれも、栞が「聖女の卵」であるためだった。
そして、オレがそんな扱いを受けることができたのも、彼女を護るという意味があったのだろう。
それを最悪に近い形で裏切ったのだ。
その告解は必要だった。
「しかし、当事者でなければ、その罪の大きさは窺い知れるものではないと私自身も思い知りました」
それでも、栞が無事だったから、重圧を覚える程度のお言葉を頂戴するだけで済んでいたのだが、今回のことで、栞の傷が重いの外、深かったことを知ったのだろう。
オレだって、あそこまで酷かったとは考えなかったのだ。
真っ暗で何も見えない「闇陽」の日と呼ばれた時に、神子たちは神と結ばれたと聞いた。
その状況は視えなかったらしいが、それを望んだ神子たちではなかったと栞は言っていた。
その場面を想像しただけで、心的外傷後ストレス障害と思われるようなショック症状を引き起こしてしまったのだ。
暫く時間が経った後、オレに話をしていただけでも、そんな状態だったのだ。
その真っ暗な世界を視ていた時の栞の抉られた傷痕を、感覚を繋いでいた大神官は直で味わうこととなった。
栞がそこまでの苦痛を抱いたその原因が何であったかなんて、すぐに大神官でも思い至ることだろう。
それ以外、栞がそんな状態になるようなことはないはずなのだから。
しかも、大神官自身も「発情期」の兆候が出てしまった。
その心情を想像しても余りある。
だから、改めて、オレに罰を与えようと思ったのだと思う。
かなり回りくどくはあるが、そうでもしなければ、大神官の立場から、オレに対して報復するなど容易ではない。
その当事者ではないため、「聖女の卵」の報復を大神官が肩代わりするにしても、理由としては弱い。
何より、栞がそれを望まなかった。
だから、まあ、こんな形をオレに伝えることにしたのだろう。
自分では栞の傷を癒すことができないために、その元凶に対して八つ当たりの意味も込めて、その錫杖を振るったのだ。
罰を与えられるなら、オレとしては望むところだった。
だが、あの時、栞はオレに罰を与えなかった。
―――― 近付かないで!!
―――― 謝罪も聞きたくないし、あなたの顔だって見たくない!!
あの直後は、そう叫んでその場から逃げ出したほど、オレのことを許せなかったのに。
―――― じゃあ、傍にいて
―――― 「護衛を外す」とも「辞めてくれ」とも一言も言った覚えはないよ?
―――― これからもずっとわたしを護ってくれる?
そんなことを言って、オレを繋ぎとめてくれた。
―――― 「九十九で良いか?」……じゃなくて、わたしは「九十九が良い」のだけど?
あんなことまで言われて、嬉しくなかったはずがない。
でも、そこに複雑な思いがなかったわけではないのだ。
―――― 分からないけど、現状では罰を与えた方が絶対に後悔しそうだなって思う
明確な罰がない方だって苦しい。
結局、オレは彼女から許されたわけではないのだから。
そして、本当にこのまま、栞の傍にいて良いのかと迷うことだってある。
それだけの傷を彼女に負わせたことは分かっているから。
「さて、貴方自身はどうしたいですか?」
首元に刃物を突き付けながら、選択を迫る。
それならば、答えは一つだ。
「どうぞ、大神官猊下の御随意に」
神子に手を出そうとした悪人が、神官最高位の人間に裁きを委ねることは間違いではない。
それに、もともと栞のことで裁かれるなら、この方が良いとも思っていた。
この張り付けられた状態から一思いに処断された方が、抵抗する間もないだろう。
「貴方を手に掛けたら、栞さんと雄也さん、水尾さんだけでなく、姫からも恨まれてしまいますよ」
そんな声と共に、両手足を拘束する気配がなくなった。
「何より、私は神官の身です。神でもないのに、人を裁くことはできません」
さらに、周囲の大気魔気と、自分の体内魔気を感じられるようになっていく。
「『裁きの間』に任せることも考えましたが、状況的に青罪にも満たないでしょうから、九十九さんには何の意味もありません」
そう言いながら、大神官が手を差し出す。
何気なく、その手を握り返すと、そのまま身体を起こされた。
「但し、個人的にはその諦めの速さに関しては、物を言いたくなりましたけれどね」
苦笑気味にそんな言葉を掛けられながら。
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