もう一つの用件
世の中は、思う通りにいかない。
どれだけ心と身体の準備をしていたとしても、そこに自然や他者の存在がある以上、その全てを予測できるのは、未来を知る神ぐらいだろう。
だから、どこかの誰かのようにオレも叫びたくなるのも仕方がないと思う。
―――― どうしてこうなった!?
今、オレの目の前に立っているのは、白い祭服に身を包んだ、長身で中性的な美貌を持つ神官最高位の男。
だが、何故か、その手には頭部の輪形部分に、銀色の輪が12個付いた錫杖のような杖を持っている。
幸い、その形状から白と黒を基調とし、虹色に輝く聖杖「ラジュオーク」と呼ばれるものではないようだが、もう一度、心の中で叫びたい。
―――― どうしてこうなった!?
「九十九さん、申し訳ありませんが、もう少しだけ私の我儘にお付き合いください」
シャラリとその錫杖を構えながらそう微笑まれても、嬉しくはない。
「お断りすることは許されませんか?」
「九十九さん以外のお相手となれば、栞さんをご指名するしかなくなりますね。ですが、今の私の状態では許されませんので」
大神官は今日から「禊」に入ると宣告されている。
それは、発情期間近だと宣言しているに等しい。
そして、栞は異性だ。
今の大神官の状態では危険極まりないことになる。
「先々代大神官猊下や高神官台下たちにお相手願うことはできないのでしょうか?」
「能力はともかく、年齢的に無理させたくはないのです」
オレは無理させても大丈夫ってことでしょうか!?
そんな言葉をなんとか呑み込んだ。
「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ」
既に錫杖を携えている相手に言われても警戒心しか湧き起こらない。
何よりも先ほどから首筋が寒いのだ。
油断すると、刈り取られるようなそんな予感すらする。
大神官が握っているのは、やたら光り輝く銀色の輪が付いた錫杖である。
杖ならば、ほとんどの場合、自身の強化や補助道具だ。
それ自体が法具どころか神具である可能性は高い。
それなのに、首筋が冷えるのはどういうことだ?
そもそも、事の発端は……。
―――― 申し訳ありませんが、少しだけ、私の放散にお付き合い願えませんか?
そんな申し出だったのだ。
そして、それに対して「放散」の意味がよく分からず首を捻っていると……。
―――― 九十九さんは、模擬戦闘に慣れていらっしゃるようなので
そんな不吉な言葉を続けられた。
大神官の話をよく聞いたところ、いろいろ溜まっているので、ストレス解消に付き合えと言うことらしい。
……無理じゃないか?
最初に思ったのはそんな言葉だった。
王族のストレス解消とはわけが違う。
確かに力量の差はあるが、相手は同じ魔法の使い手だ。
だから、そこまで激しい抵抗はない。
だが、大神官となれば、話は全く違ってくる。
オレに法力耐性はあまりないのだ。
神官対策は道具に頼っているのが現状であり、その対策も上神官までしか想定をしていない。
流石に大神官を相手にすることまでは考えていなかった。
それは言い換えれば、栞の敵に回る可能性が低いということでもある。
「なるほど……」
大神官が低い声で呟く。
「承諾いただけないと言うことは、九十九さんは、今の私に栞さんのお相手をさせた方が良いという判断でしょうか?」
その言葉にゾッとしたものを覚えた。
「そこまで……、不安定な状態なのですか?」
すぐにいろいろと発散させなければ、落ち着かないほど?
そして、ここでオレが断れば、寝ている栞を起こしてまで相手をさせなければならないほどなのか?
だが、大神官はすぐに答えない。
少し考え込んで……。
「『発情期』前の落ち着かないこの状態は、九十九さんならご理解いただけるのではないでしょうか?」
この上なく、妖艶な笑みを浮かべてそう答えた。
駄目だ!!
この状態で、栞に会わせるわけにはいかない。
「すぐに『禊』に入られない理由は?」
そんなに切羽詰まった状態だというのなら、そうした方が良いのではないだろうか?
「急なことなので、各部への連絡準備だけは行っているのですが、赤羽以下の高神官に直接指示することは何も引き継げていないのです」
ああ、それは問題だ。
大神官の「禊」は通常、一週間と聞いている。
その間に引継ぎも無しに、急に仕事を振られたら、現場は混乱するだろう。
勿論、高神官たちも経験があるため、それなりの対応もできるだろうが、大神官にしか分からない仕事だってあるはずだ。
そして、時間帯も問題だった。
今は深夜。
ご老体たちを叩き起こしてまで引き継ぐようなことはしたくないのだろう。
「七羽も、今は二人ほど欠けている状態なので、せめて引継ぎだけはしておきたいのです」
そのために、少しだけ、オレで発散したい、と。
確かに「発情期」前の妙に落ち着かない状態は、多少、暴れることで発散は可能だろう。
根本的な解決ではないため、完全に落ち着くことはできないだろうが、それでも僅かな時間は稼げる。
そして、栞を付き合わせるわけにはいかない。
それならば……。
「分かりました。オレでよろしければ、未熟ながらお相手させていただきます」
そう答えるしかなかった。
既にその解決法が示されている上、この方に対して、個人的な恩も少なくない。
「いいえ、十分です。ご無理を聞き入れてくださり、感謝します」
本当だ。
そもそも、大神官相手に勝負になるはずがない。
これは模擬戦闘に慣れているとかそんなレベルの話ではないのだ。
魔法と法力という土俵が違う相手だ。
そして、さらにいうならば、法力の遣い手としては、最高位にある。
オレは実戦慣れしていても、魔法の使い手としての力量が高いわけではないのだ。
情報国家の国王陛下相手の勝負で遊ばれながらも5分しか粘ることしかできなかったし、耐性がある風属性魔法の使い手であるセントポーリア国王陛下に対しても一対一ではまともな勝負が臨めないほどだった。
だが、そう考えているオレに対して、大神官はとんでもないことを口にする。
「私は魔法も不得手ですし、神官ではない九十九さん相手に法力を使うつもりはありません」
「はい?」
思わず、変な返しになってしまったが、それも、仕方がないことだろう。
魔法が不得手というのは神官には多いのでそこまで驚きはない。
それなのに、お得意の法力を使わずにオレを相手にする……、と?
それは、流石に舐められすぎなのではないだろうか?
「尤も、神力は使わせていただくことになりますが……」
舐められていたわけではなかった。
寧ろ、もっと酷い力を行使するつもりだったようだ。
神力……。
その名の通り、神から分け与えられた力……のことだと思う。
栞は歌うことで様々な現象をオレに見せてきたが、大神官ともなれば、それ以上の奇跡を起こしてしまう可能性がある。
「先ほども言いましたが、そこまで身構えなくても大丈夫です。そして、私の神力は、栞さんのように分かりやすい奇跡ではありません」
それはそれで身構えてしまう。
分かりにくい奇跡とはなんだ?
大神官は巡礼で数々の聖蹟に触れていると聞いている。
その時に法力だけでなく、神力の強化もされているはずだ。
それは、先ほどまでの話からも予測できる。
「それらについては、今から分かります」
そう言って、手にした錫杖をゆらりと揺らした。
さっきから握られているその錫杖は強化か?
補助か?
そして、法力を使わずともそれらが可能なのか?
「九十九さんも、道具を使用されてもよろしいですよ」
「いえ……、それは……」
いくら神力を使うような人間が相手でも、オレだけ魔法あり、得物ありではハンデが過ぎるというものではないだろうか?
それだけ力量に差があるとも言えるが。
「人間が扱う普通の武器では、私の身体を傷つけることはできませんから」
迷っているオレに対して、かなり、恐ろしいことを告げられた。
そして、その言葉に嘘がない。
この方は精霊族の血も引いている。
それならば、そこまでおかしなことではない。
精霊族も人間が作った刃物で傷つかないわけでもないが、それも種族による。
下級精霊は人間の武器が届かない。
そのほとんどがその姿を明確に視認できないことが原因だと言われている。
分かりやすく言えば、大気を剣で切ることはできないということだ。
逆に、その姿が視える中級精霊と呼ばれるところに属する央精霊、庸精霊、高精霊と呼ばれている精霊族たちならば、人間の武器で傷つけることも可能になるから、不思議な話だよな。
そして、精霊族の中でも上級精霊と呼ばれる大精霊に属するとなれば、神具と呼ばれる物を持ちだす必要が出てくると聞いている。
上級精霊は精霊王、四大精霊を除けば、その大精霊と呼ばれる精霊族しかいない。
つまり、大神官は大精霊の血を引いている可能性が高いことになる。
「それは銀製の武器でも難しいと言うことでしょうか?」
念のために確認しておく。
精霊族には銀で作られている武器が最も有効なのだ。
銀は柔らかいが、合金にすることでその問題は回避できる。
「神力が込められた物でない限りは難しいでしょうね。ああ、勿論、打撃武器としては有効です」
大神官は、以前、大聖堂で髪を切ったことがある。
あの時に使った刃物は神力が込められていたということらしい。
とりあえず、オレが精霊族対策として所持している銀製の刀剣類は全て、殴打武器になることは理解した。
だが、魔法が不得手ならば、魔法中心の方が、勝算があるかもしれない。
それに、正直言えば、こんな機会は滅多にないのだ。
本来は手が届かない相手。
それが、大きなハンデをくれるとは言え、相手をしてくれることは奇跡に近いだろう。
そして、オレはまた知ることになる。
好奇心は身を滅ぼす、と。
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