先例があった?
「大神官さまは、その……『発情期』中に正気を取り戻すことはありますか?」
発情期が、本当に心神喪失や心神耗弱の状態にあるというのなら、それは難しいと思うが、一応、確認しておきたかった。
「ここ数年はないですね。ですが、まだここまで酷くなかった時代は、夢や幻を見た後、ふと、目が覚めることもありました」
発情期も個人差だけでなく、年代の差もあるということだろうか?
「『発情期』も若いと軽症と言うことでしょうか?」
「いいえ。先ほどもお伝えした通り、想い人が傍にいるか、いないかだと思われます。自信が想う相手が身近にいれば、初めて発症した時でも、取り返しがつかなくなる事態もあるようです」
取り返しがつかなくなる事態。
その意味が分かってゾッとする。
「迷える子羊の中にはそれを吐露される方もいました」
「え……?」
「自身の不足からとても大事な方を傷つけてしまったと」
「そんな……」
それは、わたしと違って、相手が止まってくれなかったということだ。
「『発情期』は、自分の意思で止まることができない……ということでしょうか?」
「私は、周囲に人を寄せ付けない状態にしているので、なんとも言えませんが、自我がない状態なので難しいとは思います。ただ、それでも、お相手の女性が助かった例がないわけでもないようです」
「え?」
そんな事例があるの?
九十九以外にも?
「相手の方から相当、激しい抵抗を受けることがほとんどですね。中には、二度と『発情期』が起こる心配がない状態にされた方もいたそうです」
「うわあ」
それは「発情期」中の男性を半殺しの目に遭わせたとか、去勢したとか、そんな状態だろうか?
だが、わたしはそこまでの抵抗をしていない。
あの時の九十九は本当に怖くて、身体が固まってしまって、そんな激しい抵抗なんかとてもじゃないけれど、できなかった。
「それ以外では、衝撃的なことが起きた時……だとも伺っております」
「衝撃的なことが起きた時……ですか?」
「相手からの抵抗も衝撃的で、それを見て正気に返る方もいらっしゃったようですが、相手の方が声もなく涙を零す様を見たために、少しだけ、自分を取り戻す方もいらっしゃるようです」
好きな方が泣く姿を見て喜んでしまうような方なら、そんな状況にはなっていないでしょうから、と恭哉兄ちゃんは付け加えた。
泣く姿?
わたし、泣いたっけ?
あの時、泣きたかったのは覚えている。
どんなに叫んでも、九十九にわたしの声は届かなかったから。
いつもはどんな言葉も律儀に拾ってくれる人なのに、完全に無視……、いや、本当に聞こえない状態になっていたことはショックだった。
でも、それでも多分、泣いていない。
涙も……、後になって零れただけで、その最中は泣かなかった。
「後は『嫌い』という言葉を聞いて、踏みとどまった方もいたとか」
それは言っていない。
それだけは言い切れる。
どんなに混乱していても、困惑していても、わたしは九十九を嫌いではないのだ。
だから、困ったのだ。
いっそ、嫌いになれたら良かったのに、と。
「ただ、それらを私に教えてくださった方々がどこまで本当のことを言ってくださったのかは分かりません。ですが、これらの言葉が、栞さんの参考になればと思います」
ああ、これって、いろいろ気付かれているってことなんだろうな。
その上で、聞かないでいてくれるつもりなのだ。
九十九が「ゆめの郷」で「発情期」を発症して、わたしに迫ったことについては、自分から誰かに言ったことはない。
水尾先輩は気付いて気遣って、さらには自分の体験談まで話してくれた。
真央先輩は気付いていたと思うけど、触れなかった。
雄也さんは気付いていたけど、やはり、はっきりとは言わなかった。
けれど、あの「ゆめの郷」で、わたしを救ってくれたソウだけは、九十九が発情期を発症したことに気付いて、それを隠すことなくストレートに口にしてくれた。
まあ、ソウに対しては、誤解もされていたみたいだから未遂だったことは主張することになったのだけど。
だから、わたしは自分から言う必要はなかったのだ。
だけど、ここは「告解の間」。
自分が抱え込んでいる誰にも言えなかった秘密を、目の前の神官に対して、詳らかに告白する場所なのだ。
「大神官さま。わたしはその『発情期』を発症した殿方から、純潔を奪われかけたことがあります」
できるだけ言葉を選んだつもりだったが、恭哉兄ちゃんの雰囲気が変わった気がする。
あれ?
これでも回りくどい?
もしかして、もっと分かりやすく、「処女を奪われかけた」の方が良かった?
それとも、もっと神官に対してはオブラートで包んだような言葉がある?
「そのお相手は、私の知る方でしょうか?」
思考中に声をかけられ、思わず頷いた。
気のせいかもしれないけど、恭哉兄ちゃんの視線に温度を感じない。
これが、噂に聞いたことがある大神官さまの絶対零度の視線ってやつだろうか?
でも、何故、それが自分に向けられているのかが分からない。
やはり、言葉を誤ってしまったのだろうか?
いや、ここは頷くだけではいけない気がする。
「はい。大神官さまが知る方で間違いありません」
わたしが改めてそう口にすると、視線の温度がさらに下がったような気がする。
何故、零度より下があるのか?
いや、もともと負の数って温度の世界でも存在するね。
でも、今は要らないかな!?
「誤解がないように言っておきますが、未遂です。わたしは無事です」
「無事であるはずがないでしょう」
心なしか、声まで冷えている。
まるで、背中に氷の棒を突っ込まれたかのような心境に思わず、息を呑んだ。
「仮に未遂であっても、『発情期』の相手と相対して、恐ろしくないはずがありません。少なくとも、その心も身体も女性として、かなりの恐怖を覚えたはずです」
その通りだ。
わたしは、あの時、九十九のことが本気で怖かった。
だが、今ほどではない。
今の方が、理由が分からない分だけ怖い!!
「相手を庇う必要などありません」
「庇っているわけではないのですが……」
本当に、庇っている気はないのだ。
「でも、あの人は、ちゃんと自分で、止まってくれたのです」
あの時、ほんの僅かな時間。
九十九は、正気に返ったのだ。
わたしが抵抗したわけでもない。
あれだけ、わたしの身体を求めていたのに、ふと、我に返った九十九は、命呪を使えと叫んだ後、それを拒んだわたしに対して……。
「わたしだけは、抱きたくないって言ったのです」
―――― 頼む。
―――― オレにお前を抱かせるな、栞
彼にそう言って、抱き締められたから……。
わたしは、命呪を使って彼の意識を奪ったのだ。
あの時、今のような一言魔法を使えたら何かが違っただろうか?
いや、何も変わらなかった。
わたしは、自分の意思で「魔気の護り」すら、抑え込んでしまったのだから。
あのまま、恐怖にかられた状態で、手加減できる余裕などなかったことは、自分が一番、理解していた。
ああ、それを知っているから、ヴァルは、わたしが彼に向かって放つ魔法に手心が入っていることに気付いたのかもしれない。
「それは……」
恭哉兄ちゃんの瞳に、温度が戻る。
先ほどまでの冷えた瞳が、いつものように少しの温かさを感じる物に変化していた。
「そんな状況になったのも、わたしが悪かったのです」
あの日、通路で倒れている九十九を見て近付いてしまった。
自分から触れてしまった。
「彼は何度も、止めろとか、駄目だとか、帰れとまで言ってくれていたのに、無視して近付いたのはわたしの方だから」
それでも明らかに高熱を持ち、普通の状態にない九十九を見捨てられなかった。
「でも、それを後悔したくても、できないのです」
自分が悪いことは分かっている。
だけど、この記憶を持ったまま、過去に戻れたとしても、わたしは同じ選択をするだろうとも思っている。
「あの時、その人は、誰でも通れるような通路で倒れていました。もし、わたしが、連れて戻らなければ……」
その先は考えたくない。
あれは「ゆめの郷」での出来事。
だけど、あの場所を通るのが「ゆめ」だけとは限らない。
最初に通りかかったのがわたしではなかったら?
彼は、もしかしたら……?
「その事態を避けられただけでも良かったと思っているのも本当なのです」
自分の考えた最悪な状況は口にできなかった。
だけど、恭哉兄ちゃんは難しい顔をしている。
その瞳に温度があるだけマシだと思うことにした。
「もし、そこで倒れていたのが、私だったなら……」
「へ?」
「恐らく、栞さんが恐れている事態にはなっていなかったことでしょう」
「そ、そうですよね?」
恭哉兄ちゃんの目から見て、わたしがそんな対象になるとは思えない。
だから、普通に高熱を出した恭哉兄ちゃんを部屋に連れ帰って、そのまま寝かせてバイバイで済んだと思う。
いや、この高身長の御仁を連れて動くって、九十九以上に難題とは思うのだけど。
「そちらの意味ではなく、そのまま、栞さんが通り過ぎて、通路に放っておかれたままでも、姫が通りかかりでもしない限り、被害者はないだろうという話ですよ」
「ふへ?」
どういう意味?
「そして、そんな状況なら、迷わず捨て置いてください。部屋に連れて戻る方が、栞さんの身が危険です」
「そんなことできないよ」
わたしがそう答えると、恭哉兄ちゃんはちょっと困ったような顔をする。
「知っている人が倒れていたら、放ってはおけない」
あの時、あの通路で倒れていたのが九十九ではなく、恭哉兄ちゃんでも、楓夜兄ちゃんでも、雄也さんでも、トルクスタン王子でも、リヒトでも、わたしは迷わず同じことをしていたと思う。
だけど、そんなわたしを見て……。
「その場所に倒れていた方に、同情したくなりました」
何故か、恭哉兄ちゃんはそんなことを言ったのだった。
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