痛恨の失敗
すっげ~失敗した。
オレがそう思うのも無理はないだろう。
今までかつて、ここまで悔やんだことはないというぐらいの痛恨の失敗だった。
救命ボートから降りる時、栞がなんとなく考え込んでいたのだ。
それも、残念そうな気配を漂わせていた。
だから……。
「どうした?」
深く考えずにそう問いかけた。
どこまで本音を言ってくれるかは分からないが、それでも、問いかけに答えないことはないだろう。
「せっかく水着になったのに、あまり意味はなかった」
さもがっかりした様子の栞。
確かに始めは泳ぐ予定だったからな。
それに、人間界では遊泳という娯楽は珍しくなかった。
特にオレたちが生活していたのは、蒸し暑い地域だった。
小学校、中学校でも毎年、「夏だ! 」「プールだ!! 」という会話が普通に聞こえていた。
その季節になると、川を仕切って遊泳場にしたり、期間限定でプールが解放されたりする屋外施設も多くあった。
そんな地域で育ったのだ。
泳ぎの上手い、下手に関係なく、栞は久しぶりに泳ぎたかったのだろう。
あるいは、水遊びをしたかったか。
同じ地域で十年ほど過ごしたオレもそんな気持ちは分からなくもない。
折しも、今の季節は人間界の日本で言えば初夏に当たる。
気温的には春ではあるのだが。
「あ~」
オレは頭を掻き、彼女に背を向けて考える。
こう言ってはなんだが、栞の言葉はオレにとって渡りに船も同然だった。
今は可愛くない派手なライフジャケットに身を包んでいるが、その下は水着である。
そして、泳ぐにしても、水遊びをするにしてもライフジャケットを脱ぐことにはなるだろう。
水遊びなら、上着を着る可能性はあるが、それでも、上手くいけば、先ほど脱いだ白いパーカーが濡れて水着や素肌に張り付くという、稀少で特殊な姿を拝むことができるかもしれない。
そんな邪な思いに気付かれないように、オレは栞に背を向けたまま……。
「この湖も向こうに浅瀬はあるから、良ければ少し泳ぐか?」
そんな風に提案する。
確か、あの辺なら水深は2メートルとない場所が続いていたはずだ。
少しぐらいは泳げるだろうし、泳ぎたくなくても、浅いところなら少しは遊べるだろう。
「良いの?」
凄く嬉しそうな栞の返答に罪悪感がないとは言わない。
だが、たまにはオレにご褒美があっても良くはないか?
見るだけだ。
触れるわけではない。
ただ見るだけのこと以上は望んでいないのだ。
「少しぐらいは遊びたいだろ? この世界で水に入って遊泳する機会なんてそう多くはねえし、たまには良いんじゃねえか?」
オレの邪な思いを隠しつつ、優しい男のフリをして、甘い言葉をかける。
これは彼女にとって罠でしかない。
だけど……。
「やったあ!! ありがとう!!」
「うわっ!?」
それは、栞にしては珍しい種類のスキンシップだった。
いきなり、オレの背中に飛びついてきたのだ。
背を向けていたこともあったが、オレの下心を隠した提案が、それだけ嬉しかったのだと思う。
だが、残念!! 無念!!
栞はライフジャケットを身に着けた状態だったのだ。
彼女の柔らかな腕がオレの肩に回され、そして、背中にはごわついたブツが激突する感覚があった。
ああ、クソ!!
このライフジャケットさえなかったら、もっと柔らかい感触が背中に当たっていたはずだ。
なんで、オレはこの頑丈なライフジャケットを栞に身に着けさせていたのだ!?
安全のためだよ!!
こんな方向で栞の安全を守ることになるとは思わなかったけどな!!
いや、あるいは彼女に背を向けず、ちゃんと正面だったらもっといろいろ嬉しいことに……。
「あ、ごめん。嬉しくて、つい……」
そして、自分の行動に気付いた栞が、慌てたように背中から離れる。
「ごめんね」
さらに重ねて謝られた。
謝りたいのはオレの方なのに。
「謝るな」
「でも、いきなり飛びつかれて、嫌じゃなかった?」
「ちょっと驚いたけど、大丈夫だ。嫌じゃねえ」
寧ろご褒美だ!!
確かにライフジャケットは邪魔だったけど、それがなかったら、逆に栞もそんな行動に出なかった可能性もある。
だから、悔しくなんて、ないのだ。
「そっかあ」
だが、オレの言葉に対して、嬉しそうに栞は顔を綻ばせる。
自分がどれだけ、穢れているのかを暗に責められている気がして、いつもは嬉しいはずのその笑顔をちょっと正視できない。
「でも、あなたはどうする? 忙しい?」
ライフジャケットに手をやりながら、栞は確認する。
「もともと急いで何かしなければならないもんがあるわけでもねえ。お前のお守りに付き合うよ」
「そこは、安全のための監視って言って欲しいな~」
いや、この場合「監視」という単語を使うのも憚られただけだ。
どう言葉を飾ったところで、オレから邪な思いを消せるわけではない。
栞の安全確保は当然だが、それと同じぐらい、好きな女の水着姿を隈なく観察したいと言う青少年にありがちな健康的な思考が存在している。
現に、栞がライフジャケットを脱ごうとしている姿から目が離せない。
……って、何か苦戦してないか?
「どうした?」
「いや、ちょっとファスナーが噛んじゃったみたいで……」
「ちょっと待て。無理に引っ張るな」
無理矢理外そうとすると、ライフジャケットが破れたり、ファスナーが壊れる可能性がある。
「じっとしてろ」
「う、うん」
外れにくいようにファスナー式にしたのが良くなかったか。
いや、これぐらいなら、大丈夫そうだ。
ファスナーが噛んでしまったライフジャケットの布地部分を伸ばすように引っ張って、ファスナーを戻す方向にゆっくりと動かせば……。
「取れたぞ」
噛み方が浅かったために、思ったより抵抗なく、するりと取れた。
だけど、栞は俯いたまま、顔を上げようとしない。
あれ?
出来るだけ栞に触らないように気遣ったつもりだったが、まさか、少し当たったか?
いや、そんな嬉しいハプニングは起きていない。
それなら、このオレが気付かないはずがないだろう。
でも、なんとなく、耳が紅いような?
これは一体……?
「どうした?」
「ああ、ごめん。ありがとう」
栞が弾かれたように顔を上げる。
いつもと違う翡翠の瞳。
だが、その顔は明らかに赤い。
「い、いや、状況的に仕方がないとはいえ、脱がされるって、結構、恥ずかしいね」
小さな子供になったみたいだ……と、栞は続けたが……。
「ばっ!?」
自分が全く意識していない所でそんな反応を見せられると、本当に! 困る!!
それに、本当に彼女が小さな子供なら、そんな反応は絶対にしないだろう。
ある程度、意味が分かる年代だからこその恥じらい!!
そして、そんな風に意識されるとオレの方にも猛烈な勢いで、顔が熱くなってしまう。
「こんな時に馬鹿、言ってんじゃねえよ!!」
そう叫びながら、その勢いで、オレは彼女に背を向ける。
既に水着を拝むどころではなかった。
いや、それ以上のご褒美を頂いた気はするが、今すぐ、栞の方を向くことがでない事情が発生したのだ。
血管の拡張と、急速な血液の流れは自分が全く意識していない時こそ、過敏に反応する。
女には分からないかもしれないが、それは顔などの上だけの現象ではないから大変、処置に困ることになるのだ。
分かってくれるよな? 男たち。
意識してなかったから平気だった行為も、指摘されると恥ずかしい行為となる。
そうだな。
ライフジャケットだって服の一種だよな。
それを他人の、しかも男からファスナーを下ろして脱がされた上で、水着姿になるって、普通の女は恥ずかしいよな?
だが、今回に限って、その普通を意識させるんじゃねえ!!
「えっと、ごめん?」
いろいろ誤魔化すためにしゃがみ込んだオレに向かって、その原因は申し訳なさそうに声をかけてくる。
「頼むから、暫く、そっとしてくれ」
「ぬ?」
「ちょっとした立ち眩みだ。目の前がぐるぐるして、すぐには立てない」
嘘のようだが、本当の部分もある。
急激な血流の変化は、身体によくはない。
実際、叫んだこともあって、少しだけ立ち眩みが起きたのは事実だ。
「大丈夫?」
「すぐに動かなければ大丈夫だ」
なんとも情けない話だが、こればかりはオレにもどうすることもできない。
「オレは暫くこうしているから、お前は気にせず、泳げ」
「でも……」
一人で泳ぐのは嫌なのだろう。
栞が戸惑っている。
「落ち着いたら、オレも付き合うから」
栞が水に入って、こちらを振り向かなければ良いだけだ。
それに、水に入れば、オレの状態も誤魔化せる。
移動魔法を使って、先に水に飛び込むことも考えたが、それはかえって、怪しまれるだろう。
だから、先に栞を促して、彼女が気付かない間にこっそりと浸水するのが一番だ。
オレはそう結論付けたのだった。
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