舵を切る
いろいろ失敗した。
オレがそう思うのも無理はないだろう。
栞を救命ボートに乗せて、彼女が進みたい場所を指示させる。
その判断が誤っていたとは思わない。
栞がそこまで泳ぎが得意ではないのなら、足が付かないような場所で泳がせるのは論外だし、オレが抱えて泳ぐのも、いろいろな意味で良くはないだろう。
泳ぐ以外の選択肢としては、水上に浮かぶ小さな文字を視ようとするなら、身体を浮かせる浮遊魔法を使っても、栞の体勢をサーカスの空中ブランコのようにするしかないのだ。
もしくは、バレエダンサーやフィギュアスケーターがやるようなリフトの姿勢のように、オレが彼女の身体を支えて、水面ギリギリが見える体勢にするか。
どちらにしても、かなり難しくはある。
だから、水面に救命ボートを浮かべてオレが泳ぐことにしたのだ。
オレは泳ぐことはできるし、幼少期にはこの湖にも何度か投げ込まれている。
主に師によって……。
オレ、よく生きていたよな。
普通に考えても、5、6歳児を足が付かないような湖に文字通り笑顔で投げ入れるなんて幼児虐待ではないだろうか?
いや、この世界にそんな言葉はないのだが。
ミヤドリードが何を考えてオレたちにそんな教育を施したのかは分からない。
それでも、結果として、その経験が今に繋がっているのだから、悪いことではないのだろう。
オレが失敗したと思うのはもっと別の話だ。
「えっと、こっちの方向、右よりにもう少しゆっくり進んでくれる?」
「少し右だな。行き過ぎたら言えよ」
栞の方向指示は方角や目印ではなく、左右で指示する形だった。
それは良い。
それでもオレは判断できるから。
問題はここからだった。
「えっと、もっと右、ああ、ちょっとダメ。あ、待って。いや、そっちじゃない。うん。ああ、うん。もっと先。うん、そこ。そこが良い。そのまま進んで!!」
次々に繰り出されていく台詞に、思わず思考が止まりかけた。
いや、本当に普通の言葉なんだ。
その言葉に問題があるわけではない。
だが、栞の声は通常時でも、高くて可愛いのだ。
その上、焦りなどの感情を含めると、いろいろマズいことになる。
まるで、房事の最中で聞くような言葉に聞こえるというか、なんというか……。
「ああ、ダメ!! もっとゆっくり!! ああ、ヤダ!! 流されちゃう!! ダメ!! ああ!! ダメ!! 待って!! 止まって!! 行っちゃう!! 行っちゃう!!」
単純にオレが汚れているだけだ。
栞に非はない。
非はないのだけど、ああ、うん。
オレの思考がおかしくなるような言葉を次々と吐き出されていくと、オレだけが悪いのか? と疑問も浮かんでくるのだ。
こいつ、分かっていて言ってるんじぇねえか? と思えてしまう。
いや、こればかりはオレの考えすぎなんだって分かってるんだ。
後ろから伝わってくる焦りに、オレのような感情は全くない。
それでも、なあ?
「栞、落ち着け」
それ以上、叫ぶな。
オレの方が焦りたくなる。
「大丈夫だから」
栞が落ち着くだけで良い。
それだけでオレも多分、落ち着ける。
「多少流されて、通り過ぎたとしても、その場所から戻れば良いだけだ」
「そ、そうだね」
振り向きもせずに口にした言葉でも、栞の耳に届いたらしい。
「ヤダ、もう。恥ずかしい……」
その恥じらいはもっと別のところで見せて欲しい。
だが、今、オレが振り返るわけにはいかないのだ。
多分、情けない顔をしているから。
先ほどの栞の高い声がまだ耳に残っている。
高くて鋭い声なのに、耳触りではなかった。
寧ろ、もっと口にして欲しくなって、思わず救命ボートに繋がっている紐をゆっくりと揺らしたくなってしまうほどだ。
ああ、くそっ!!
オレは護衛なのに、たかが叫び声を聞いただけで、いちいち嗜虐心を刺激されてどうするんだよ!!
「ごめんね。もっと頑張る」
「いや、頑張る必要があったわけじゃねえんだが……」
そして、謝らないで欲しい。
この場合、悪いのはオレだ。
さらに言えば、水上でなくて良かったと心底感謝しているほどだ。
いくら、サーフパンツでゆったりとしていても、誤魔化しきれないモノがある。
しかも、水に入れば肌に張り付きやすくなるのだ。
そんなところで堂々たる男の主張をしたくない。
「もう少しだけ左に、えっと、数歩ぐらいなんだけど、どう言えば良いかな?」
「少しだけ左だな」
先ほどまで取り乱していた栞は、すっかり落ち着いた声に戻っていた。
そのことにホッとすると同時に、少しだけ残念にも思えてしまう。
もっとあんな声が聞きたかったと思っているなんて、最低だな、オレ。
「そこでストップ!!」
「おお」
水深は8メートルぐらいか。
湖の中央と言えば中央だが、湖自体が瓢箪をさらに変形させたような歪な形であるため、中心とは言い難い場所で止まる。
「識別」
栞の声が聞こえた。
例の識別魔法を使ったらしい。
結構な精度を誇っていると思われるこの魔法にも意外な弱点があった。
それが、今回、分かったことになる。
識別の結果が表示される場所は、栞には選べないらしい。
そして、その結果が表示される文字はあまり大きなものではないようだ。
つまり、大きなものを識別すると、その結果が表示された場所まで見に行く必要があるということになる。
栞はオレと違って、自分に対する身体強化がまだ使えない。
だから、視力強化するなどして、遠くの物を見ることができないのだ。
「あ、視えた」
どうやら、表示された結果が見えたらしい。
だが……。
「えっと……」
そう言ったっきり、次の言葉が出てこない。
これまでの結果は視えた後、すぐに口にしていたのに。
「どうした?」
オレが振り返ると……。
「うぐぐぐっ」
栞が奇妙な声を出し、さらには奇妙な体勢で、救命ボートから身を乗り出そうとしていた。
それを見て「阿呆!! 」と叫びたいのを我慢して、少しだけ、紐を引き、救命ボートを前に進ませる。
「ありゃ?」
「『ありゃ? 』じゃねえ。もう少し前に動かして欲しいなら、ちゃんとそう言え」
「いや、これぐらいならなんとかなると思って……」
「この救命ボートは簡単に変形するんだから、下手に体重をかけると、そのまま湖面に落ちるぞ」
実際、危ない所だった。
叫んでいたら、そのオレの声に驚いて、バランスを崩して、そのままぼちゃんと水に落ちていたところだろう。
「落ちても大丈夫なようにライフジャケットを着ているんでしょう?」
「それは保険だ。それを過信して、わざわざ危険なことをするな」
ライフジャケットは水に浮く素材でできている。
つまり、救命ボートから身を乗り出して、頭から水面に突っ込めば、逆に危険なぐらいだ。
最悪、どこかの推理小説を元にした映画やドラマで使われるワンシーンのように下半身だけが水上から出るのみという恐ろしい事態にもなりかねない。
流石に、その前にオレも気付くだろうから、引き上げることになるが。
「そうだね。ごめん」
栞が、救命ボートの縁部分に上半身を預けたまま、首をこてりと傾げた。
それだけで、全てを許しそうになる。
力なく救命ボートの縁に倒れ込んでいる無防備な栞の姿は、雑誌に載ってもおかしくないほど妙な魅力を感じてしまうのだ。
これはオレが栞に惚れた欲目だと信じたい。
誰の目にも、こんな風に映っているとかは考えたくなかった。
どうやら、心配されていた救命ボートの方は強化していたために、変形はしていないようだ。
だからこそ栞も安心して、縁に圧し掛かってしまったのだろう。
護り過ぎるのも考え物だな。
だが、栞の危機意識を煽るために、護りを薄くして、後で後悔もしたくない。
この辺りの加減は本当に難しいと思う。
「ここならどうだ?」
「やってみる」
紐を引いてこちらに近付けたため、先ほどよりも、栞との距離が近くなった。
だから、彼女の声がはっきりと聞こえる。
「識別」
昨日から既に何度も聞いた言葉。
そして、さらに言葉は続けられる。
「橙の大陸に存在する構造湖。『創神期』に地下より湧き出た神水が水源となっている。淡水で飲用も可能だが、湖底の土と水に含まれている神力が強く、神の加護が弱い生き物は近付くこともできない」
ちょっと待て?
いろいろ待て?
今、さらりと重要なことを言わなかったか?
「栞?」
それを口にした後、当人は難しい顔をしていたため、声をかける。
「ああ、なるほど」
だが、栞はオレの問いかけに答えず、何故か、一人で納得したのだった。
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