完全なる敗北
「陛下は本当に、シオリに負けちゃったのね」
黒髪、黒い瞳の女性、チトセはこちらを見ながら楽しそうに言った。
「ああ、負けたよ」
それも分かりやすい決着の形だった。
彼女の娘の魔法によって、床に沈められ、意識を奪われたのだから。
自分がこの国の王となって数年。
その間に負けたことどころか、自分と模擬戦闘を望む者すらいなかったというのが現状である。
さらに深く記憶を掘り起こしても、過去に自分の身体を床に付けるようなことができたのは、父親である先代と、この城にいた乳母の義娘であるミヤドリードと、目の前にいるチトセぐらいだった。
尤も、このチトセに関しては、魔法で地に叩き付けたわけでないのだが、いつだって、いろいろな意味で彼女に勝てる気はしない。
特に大陸神の加護を持つ中心国の王族たちにとっては、創造神の加護を持つチトセほど相性の悪い相手はいないだろう。
「ウチの娘は本当に凄くなったのね」
そう言いながらも、頬に手を当てて、どこか困ったように彼女は眉を下げた。
自分の娘が一国の王を魔法で打倒したことは、チトセにとってあまり喜ばしいことではないらしい。
彼女の娘……、シオリと周囲から呼ばれている娘は、少し前にこの城の地下で、セントポーリア国王の座にある自分を、魔法によって眠らせてしまった。
抗うことすら許されない強い魔力。
アレを食らって、負けを認めないなど、できるはずがない。
「娘からは陛下の油断を誘ったと聞いたけど?」
「まさか」
確かにアレを油断と言う者もいるだろう。
単にいろいろな要因が重なったことによる幸運と呼ぶ者もいるかもしれない。
だが、あの場、あの光景を見て、それを口にする者はいないはずだ。
仮に口にする者がいるとしたら、自分を眠らせてしまった当人ぐらいだろう。
実際、彼女自身は、「全力で弱点攻撃を狙いました!! 」などと拳を握って主張していたほどだ。
自分の能力を低く見積もっている部分があるという報告を受けていたが、実際、それを目にして、唖然としたものだ。
弱点攻撃。
隙を突いただけ。
そんなことで、中心国の国王が、自分の領域である居城の地下で、その護りを容易に貫くような魔法ができるはずもないのに。
「完全なる俺の敗北だ」
「認めちゃうのね」
「事実だからな」
俺がそう言うと、今度は嬉しそうに笑った。
彼女の娘、シオリは現時点で、自分の魔力と同じぐらいかそれ以上だろう。
模擬戦闘となれば、まだ人生経験の長い自分の方に分があるようだが、単純な魔力、魔法力を測定をすれば、恐らくもっと分かりやすい結果が出るはずだ。
尤も、測定をシオリが受け入れることはないとも思っている。
本来、感覚的にしか分からない魔力を測定という形で可視化すれば、強大な魔力、膨大な魔法力の所持者だと露見してしまう。
これまで様々な方法でそれらの力を隠してきた娘だ。
自ら、魔力測定を受け入れるとは思えなかった。
まだ18歳だと聞いているが、その倍以上の年齢である自分の、それも、国から出ることがほとんどない王の魔力を越えるなど、本来は同じ王族でもありえないことだ。
出身大陸にいれば、大気魔気による感応症を確実に受ける。
特に何もせずとも、魔力、魔法力、体力、回復力などは底上げされていくのだ。
だから、王族ほど、出身大陸の、特に大気魔気が集まる自国の城から出ることは少ない。
あの情報国家に関しては、王族として、珍しく魔力に拘らない性質を持っているため、例外ではあるのだが。
あるいは、我々が知らないだけで、自国から離れても、魔力を強めていく方法があるのかもしれない。
そして、あの娘は自身の出身大陸にほとんどいなかった。
生まれて数年と、15歳以降は、累計でも一年に満たない期間しか滞在していないはずだ。
それなのに、並の王族たちを凌駕するほどの魔力と魔法力を既にあの若さで所持していた。
それは、かの娘がかなり強大な魔力の傍にいて、それなりの魔法の影響を受けてきたのかということに繋がる。
それについての心当たりはある。
今は亡き魔法国家アリッサム。
その王族たちが、あの娘の傍にいてくれるのだ。
長く会ってはいないが、あの王族たちの存在は大きい。
かの女王も口惜しいことだろう。
あれだけ可愛がっていた自分の愛娘たちが成長していく様を、その目に焼き付けることができないのだから。
あの年代の子供たちの成長は本当に著しい。
シオリも、少し会わない間、見ない間に、信じられないほど成長していた。
あの護衛兄弟たちは、実にこまめな報告をしてくれていると感心していたのだが、どうやら、あの娘の成長速度はもっと早いらしい。
あるいは、意図的に隠されていた部分があるか。
「そう言えば、チトセ。お前はいつ、あの娘に、あの『呼び名』を教えたのだ?」
ふと、それが気になって、その情報源になったと思われる相手に確認する。
自分の敗北を決定づけたのはあの呼び方だった。
あの時、チトセの若い頃の姿と化したあの娘は、昔の自分や護衛兄弟たちすら知るはずのない俺の愛称を口にしたのだ。
たったそれだけのことで、我を失うほど混乱してしまったと言うのは、一国の王としてはかなり無様な話だとは思う。
どこかの王が耳にすれば、大喜びで通信してくることだろう。
幸い、今のところ、その話は漏れていないようで、その相手からの通信はない。
あの場で、そのような話を触れ回るような痴れ者はいないという証左である。
「あの『呼び名』? 何のことかしら?」
チトセは首を傾げる。
「『ハルグ』という呼び名だ。お前はそう呼ばなくなって久しいがな」
「物の知らない小娘ならともかく、流石に身分と立場を自覚した人間がいつまでも、友人のような感覚でいるわけにはいかないでしょう?」
あの頃もチトセはそう言った。
出会って暫くは、「王子」、「ハルグブン王子」。
ある程度、友人として親しくなった頃、周囲に誰もいない時だけ「ハルグ」。
そう使い分けていたのだ。
だが、いつからか、「王子殿下」、「殿下」のみとなる。
その変化の理由は、当時の自分は分からなかったが、今の自分ならあの頃よりは理解できていることだろう。
尤も、それが正解であるかは今でも分からない。
今ではすっかり、俺のことを「国王陛下」、「陛下」と呼ぶようになっているその人間は、今でも答えを教えてはくれないから。
「ああ、でも、寝込んでいる時に呼び名の話はしたわねえ。娘に『昔から「陛下」って呼んでいたの? 』と聞かれたから『友人時代は別の呼び名をしていたわね』と教えた気がするわ」
その教えた呼び名が「王子」の方ではなく、「ハルグ」だったことは喜んでよいのだろうか?
結果として、あの娘はその呼び名を、自分の精神的な隙を突くための罠として使った。
だが、あの時、あの姿の口から零れだした言葉が、「王子」であっても、結局のところ、俺は同じような反応をしてしまった可能性はある。
それだけ、忘れがたい、遠き日の宝物。
「まさか、栞がそれをエサにして、陛下を騙す手段として使うとは思わなかったけれど」
「……は?」
一瞬、チトセが何を言ったのかが分からなかった。
「私の姿に娘は変身したんですって? さらに『ハルグ』って呼びかけたとか」
さらに続けられる言葉。
そこには楽しそうな色が見られた。
ここまで上機嫌なチトセは、娘のことを話している時ぐらいだ。
そして、今、その娘の話をしているところだが……。
「ちょっと待て? 何故、それをチトセが知っている?」
俺が気になったのは、その点だった。
確かに自分が負けたことに関することや、その経緯についての口止めはしていない。
だが、いつ、その情報を知ったのかが分からなかった。
あの娘が護衛とともに城下へと戻ったのは、少し前のことだ。
その前に、そんな暇があったとは思えなかった。
そんな戸惑いを見せる俺の前で、チトセは悠然と微笑みながら……。
「陛下がよく知る黒髪の可愛い子が教えてくれたのよ」
そう口にしたのだった。
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