魔法の基本
栞は何故か、入浴中に、自分が入っている風呂のお湯を「識別」したらしいが……。
「なんで、そんなものを識別しようと思ったんだよ?」
そもそもそんな状況で「識別魔法」を使うという発想が謎すぎる。
余程、探究心が強い人間ならば、周囲にあるものを全て識別したくなるのも分かるが、栞はそんなタイプではない。
新しい魔法を思いつくと、試しに使いたくなるところはあるが、既に今回の「識別魔法」は何度も使っていた。
だから、わざわざ風呂に入っている時にまで使う理由はないだろう。
オレとしては、彼女には何も考えずにゆっくり風呂に入って欲しいし、もっと休んで欲しいと思うのに。
「いや、元になったゲームの識別能力で『水』を識別していたな~と思っているうちに、目の前に大量の水が目に入って、つい……?」
その説明だけで、考え事している時に、目に入ったものを、あまり深く考えずに識別したことだけはよく分かった。
「その結果は?」
「え゛っ……!?」
そこは突っ込まれたくなかったのだろう。
栞は奇妙な声を出した。
「お前が『識別』して、風呂の湯を識別したところまでは理解した。だが、それだけのことでお前の体内魔気がそこまで乱れる理由には繋がらん」
「うぐぐぐぐ……」
オレの言葉に栞はますます顔を赤くしていく。
熟れて美味そうな果実のように。
だが、風呂の湯を識別して分かること……か。
「風呂の湯なんて、ブドウ球菌や大腸菌などの温床だ。もしかして、そういったものを視たか?」
それなら、一度、オレが入った後の湯を捨てて、新たに入れ直すことである程度は解決する話だ。
元手がかかるわけでもなく、オレが魔法を使うだけの手間ぐらいだから特に大きな問題もない。
尤も、それでも完全に細菌の除去することは無理だ。
ただでさえ、風呂は繁殖しやすいからな。
「え? いや? そんなものは一切視てないよ」
だが、栞は菌を視たわけではないと言う。
そして、彼女の「識別魔法」では、そこまで細かな成分分析ができるわけでもないらしい。
尤も、始めから細かな菌やウィルスまで視てしまうとは思っていなかった。
それなら、先ほどまで識別したモノたちにも少なからず引っ付いているはずだ。
空気中にも人の体内でも、菌は数多く存在するからな。
「えっと、ちょっと言いにくいんだけど、その『識別魔法』の結果は、『お風呂のお湯。温水魔法で浴槽に注がれたお湯。疲労回復効果』って表示が出たんだ」
「思った以上にざっくりした結果だな」
だが、疲労回復効果についてはちょっと意外だった。
風呂は、結構疲れるイメージがあるのだが、栞の識別結果によると違うらしい。
これは、オレが魔法で出したお湯だからなのだろうか?
「だが、それでお前が混乱するか?」
オレがさらに突っ込むと……。
「うぐっ!」
根が素直な栞は、素直な反応を見せてくれた。
どうやら、まだ全てを言ったわけではないらしい。
栞は表情を隠すことは上手くなったが、体内魔気の変化とその珍妙な声が全てを台無しにしている。
尤も、声はともかく、体内魔気については、一部の人間にしか気付けないほどの変化だとは思っているけど。
「その、最後に、えっと、その『先にツクモが入っている』と続けられまして……」
「まあ、先にオレが入ったからな。それはおかしくないな」
栞の識別結果には、固有名詞が表示されることがあるのか。
それは凄い。
それなら、オレが作った料理や薬は製作者として名前が表示される可能性があるな。
料理や薬については、情報量が増える可能性があるため、場合によっては栞に負担がかかるからと思って、まだ識別させていなかった。
だが、固有名詞が表示される可能性があるなら、ちょっとばかり興味を惹かれてしまう。
「それで、他には?」
「へ? ここで終わりだけど」
栞はきょとんとした顔をオレに向ける。
その言葉に嘘はない。
それに、栞は確かに「最後に」と言った。
だが……。
「いや、それだけで、お前がそこまで言いにくさを覚えるか?」
オレが先に入っているのは既に互いに知っているほど明確な事実である。
だから、そこまで言いにくいことだとも思えなかった。
「覚えるよ!?」
何故か、驚愕された。
なんでだ?
ごく普通の情報であって、そこまで顔を赤くしてしまうほど困惑するほどのことでもないし、言いにくいことでもないだろう。
「分かっていても、改めてそう表示されちゃうと、先に九十九がこのお風呂を使ったんだなって変に意識しちゃって」
「……?」
それはどういう意味だ?
「オレの使った後の湯が嫌だとかそういうのか?」
それならば、少しショックだ。
だが、そこまで潔癖だったなら、もっと前から言うよな?
栞は基本的にオレの後に風呂を使っているから。
「違う! 違う! 違う!」
栞は顔を真っ赤にして否定してくれた。
違うのか。
それなら……?
「気にしないで! これは、わたしが気にしすぎているだけだから!!」
さらに考えようとしたオレに対して、栞が顔を真っ赤にしたまま、そう言った。
「おお」
その栞にしては珍しいほどの迫力に飲まれて、そう言うしかない。
だが、オレは栞が何を気にしすぎているのかは分からないままだ。
「あなたはわたしが先に入っても気にしない人だもんね」
「寧ろ、オレは先に入って欲しいぐらいなのだが……」
それでも、栞が先に風呂に入るのが何故か苦手だというなら、それは仕方がないとも思っている。
なんとなく、理由もなく。
そんな感覚的な問題は、なかなか解決できるものではないことを、オレは理解しているから。
でも、栞が先に風呂か。
確実にいろいろと妄想してオレが長風呂になる気がする。
流石にその湯を飲もうとまでは思わないが。
「しかし、風呂の湯を識別か……」
「もう言わないで」
「いや、それがあれば、『ゆめの郷』でももっと早く、異常事態に気づけたかなと思っただけだ」
あの時は、栞に症状が出るまで、オレは気付けなかった。
あれが、軽症だったから良かったなんて思わない。
もし、もっと遅効性の解毒魔法も効かないようなモノだったら、取り返しのつかない事態になっていた可能性もあるのだ。
そして、オレはあの場であのお湯が人体にとって有害であることしか分からなかった。
栞の症状だけではその効果までは分からなかったのだ。
薬師志望が聞いて呆れる。
目の前の人間の症状だけで判断しなければならないのに。
「ああ、なるほど」
栞もオレの言いたいことが分かったらしい。
「でも、あなたならいつか、わたしが使う『識別魔法』か、それに似た魔法が使えるようになる気がするよ」
「あ?」
だが、彼女は何故か、こんなことを言った。
しかも、満面の笑みで。
「今回の『識別魔法』は、わたしの中に明確なイメージがあったから、使えただけだと思うしね」
「お前な~。普通は、そう簡単に魔法なんか作れないんだ」
目の前で次々と新たな魔法を生み出していく、どこかの「聖女の卵」と一緒にするな。
考えただけで、魔法が使えれば苦労はねえ。
「そう? でも、あなたも、魔法国家の王女殿下たちも、魔法は『想像力』と『創造力』っていつも言っているよ?」
「それが魔法の基本だからな」
だから、契約できても使えないことだってある。
そのどちらかが欠けているか、単に力量不足かは分からない。
「それでも、あなたは、情報国家の国王陛下すら驚き、剣術国家の国王陛下すら慌てるような魔法を即興で生み出したことがあるでしょ?」
「あれは……」
そう言われて、言葉に詰まる。
確かにオレはあの場で、初めて雷撃魔法の剣を創り出した。
だが、それも栞の言葉があったからだ。
しかも、既存の魔法を応用しただけのもので、栞のように全くのゼロから生み出した魔法ではない。
「あの時、アレを見なければ、わたしの一言魔法も生まれてなかったんじゃないかな」
「あ?」
だが、彼女はさらに言葉を続けていく。
「あなたが、わたしの可能性を広げてくれたんだよ」
本当に嬉しそうに笑いながら、栞はそう告げてくれた。
ああ、クソっ!!
この女はオレをどこまで惚れさせれば、気が済むんだ!?
どんどん落ちて、深みに嵌っていくのは分かっているのに、そこから抜け出せる気がしない。
「オレの魔法がなくても、お前はいつか、使えたよ」
だけど、そんな彼女の言葉を素直に受け止めることはできない。
栞はもともと、オレ以上の想像力と創造力の持ち主だった。
だから、オレじゃなくても、別のきっかけでなんとかしてしまう気がする。
例えば――――――。
「そうかもね。でも、あのタイミングで使えなかったとは思っている」
そして、栞もそれを否定しない。
だけど、それでも……。
「だから、何度でも言うよ。わたしが一言魔法を使えるようになったのは、あなたのおかげだってね」
光が弾けるような眩しい笑顔と共に、オレの心を的確に擽りに来るのは本気で止めて欲しい。
もうじき来る別れを前に、気持ちの整理が付けられなくなるだろ?
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




