翻訳作業
正直、オレは感心していた。
いや、何度、栞には感心させられるのか、もう分からない。
グランフィルト大陸言語をシルヴァーレン大陸言語に翻訳する速度がかなり早くなっているのだ。
一度、軽く目を通しただけで、そのまま、さらさらと翻訳に移る。
そして、さらに筆記具を置いた後に、もう一度読み直して、綴りのミスなどを探す余裕まである部分が凄いし丁寧な仕事だと思う。
少し前まで、このセントポーリア城下で生活中のためか、改めてシルヴァーレン大陸言語を勉強し直していた気がするが、それにしたって、その翻訳は早い方ではないだろうか。
確かにある意味では、グランフィルト大陸言語は一番、栞が触れている文字だ。
グランフィルト大陸にいる期間が長かったこともあるが、「聖女の卵」として、目を通す文章はどうしても、法力国家ストレリチアが使うグランフィルト大陸言語が中心となる。
それでも、翻訳となれば別物だ。
どちらの大陸言語も理解していなければできるものではない。
その上、栞は文字を丁寧に書く。
翻訳はどうしても訳することが中心となり、文字が雑になりがちだ。
兄貴の話では、翻訳者が訳した後で、代筆者が文章を新たに書き起こすことも珍しくないらしい。
下手すると、翻訳者の文字の方こそ自国語に訳してくれと頼みたくなるようなこともあるそうだ。
だから、栞が丁寧に書いている姿を見て、オレも改めて自分の文字の癖を減らそうとは思っている。
前々から思っていたが、栞の書く日本語の平仮名は丸っこいが、アルファベットにその独特な丸さはなく読みやすくて綺麗なのだ。
スカルウォーク大陸言語の翻訳も早くなった。
これはトルクスタン王子殿下に依頼されて、描き起こしていた植物の絵に付ける文章を書いていたためだろう。
それに栞はどの大陸に行っても本を読みまくる。
ウォルダンテ大陸言語も最近、読んでいたし、フレイミアム大陸言語も水尾さんと真央さんの影響で読んでいる。
その早さに、他の文官だけでなく、国王陛下や千歳さんすら、時々、見ていたことを栞自身は気付いているだろうか?
先ほどまでは文官どもの好奇の視線に晒されていたためか、集中力が途切れがちで、オレとの会話で気を紛らわせていたようだが、一度、集中すると、栞は完全に仕事に入り込むタイプだ。
こうなると、喉を潤すことすら忘れて、書類しか見なくなる。
どんなに集中力があっても、書類を変える時にその意識が途切れそうなものだが、栞は、重なっている書類を次々と捲っていく。
それこそ本を読むような気軽さで。
そして、公文書のはずなのに、時々、何故か、表情を緩ませる。
書類作成をした人間特有の面白い言い回しが書かれているか、それとも、自分でも上手く訳したと自画自賛しているのか、見ているだけの人間にはそれすら分からないだろう。
さて本来、他国に送る公文書というのは、それぞれの言語が異なる場合、自国の言語と相手国の言語への翻訳文と二種類作って送るものだ。
だが、異なる大陸間の言語は翻訳者によって訳文が異なることもある。
だから、念のため、自大陸の翻訳者が相手大陸言語の訳をして、さらに突き合わせるという面倒な作業が必要なるのだ。
相手国を完全に信頼するかどうかでもあるが、その公文書の種類によっては、解釈の違いで互いに不利益が生じることもある。
後で相手国に確認して、実は別の意味だったとなって慌てることもあるため、他国からの文書の翻訳はその翻訳文が付いていても、やはり自国でも翻訳することになっているらしい。
その上で、通信珠などで改めて気になる部分を確認し合うことになるそうだ。
始めから通信珠で確認しないのは、自国のデメリットを減らしたいことと、口頭での約束事は後で「言った」、「言わない」の話になって反故されることもあるためである。
誰だって、自国に不利なことは口にしたくないだろう。
だから、先にまずは文書で残しておこうということらしい。
まあ、国によっては相手の翻訳を信じてそのまま受け入れることもあるだろうが、少なくとも、セントポーリア国王陛下は二度手間、三度手間を惜しまない人間であった。
それよりも誤りがあって、自国だけでなく他国にまで迷惑をかけることの方がマイナスだと判断している。
そのために、業務量が増えるのはどうなのかとも思うが、政務の全てにおいて、その決裁権限が国王陛下にある以上、そのやり方は崩せないらしい。
実際、どこかの国王陛下がよこした文書の中には文官たちの知識を試すかのような翻訳文がついていることもあったから、余計にそうなのだろう。
単語、単語を一つずつ訳しても意味は通る。
だが、単語と単語の組み合わせによって意味が全く変わってしまう熟語が存在することもあるのだ。
どの大陸言語にも見られるものだが、特にライファス大陸言語はそんな文章が多い。
尤も、基本文字が、表意文字、表音文字を組み合わせている上、それらが形成した熟語が、さらに真逆の意味を持つことも少なくない日本語の難解さに比べれば、ずっとマシだとも思えるが。
だが、そろそろ、栞の顔を上げさせた方が良いか。
集中しすぎて気付いていないだろうが、喉が渇いているはずだ。
行儀が悪い行動ではあるが、周囲の様子を窺いながら気付かれないように、机の下にある足で栞の足を軽く突いた。
「ぬ?」
その刺激によって栞がようやく、顔を上げてオレを見た。
シルバーオリーブの髪がさらりと揺れ、いつもと違った青い瞳が目に入る。
目じりにラインを入れて少しだけ吊り目に見せている。
それだけでも、随分、顔の印象が変わるもんだと思うが、それでも雰囲気そのものは変わらない。
オレは視線で、少し離れた場所に準備してある茶器に目配せする。
「あ……」
それで栞も気付いたようだ。
今回、栞はオレの従者扱いとなっている。
だから、今回、茶については栞に任せないと不自然になる。
別にオレが飲みたいわけではなくても、そうするしかないのだ。
まさか、ここまで周囲に人がいるとは思っていなかったので、そこまで考えていなかったというもある。
国王陛下や千歳さんには別の侍従たちが茶の準備をするが、客であるオレたちが、人間を呼び出して茶を淹れさせることはできない。
いや、正しくは、栞がいつまでも顔を上げなかったために、先に準備されていた茶が冷めてしまったのだが。
他の文官たちは気付かない。
客にそこまで気を配るつもりはないのだろう。
そして、国王陛下の傍に仕え、世話をする役割の侍従……、執事も政務中は文官たちに邪魔者扱いされるために、定期的に部屋を訪れる形にしているようだ。
オレが執事の立場なら、邪魔者扱いされても傍に控えるけどな。
「そこにある茶葉は『ギルドラード』だ」
城で出す茶にしては高級ではないが、城下では一般的な茶ではある。
手順さえ間違えなければ、失敗も少ない。
だが、時間が経って冷めてしまうと、かなり渋みを出す上、一度渋くなると温め直しても味が戻らない茶でもある。
オレなら、同じように失敗することが少なくて、さらに時間を置いても味が変わらない「エカナライス」を選ぶ。
茶としての等級は「ギルドラード」より落ちるが、この場所にいる人間たちは、仕事中なのだ。
手を止めて、いつでも茶が飲めるわけではないのなら、冷めても飲める方が良い。
だが、城という場所で、分かりやすく等級が低いものは出せないと言う見栄も分からなくはない。
だから、この場合は栞に頑張ってもらうしかなかった。
「……分かった。頑張る」
栞は意を決して、立ち上がった。
その気配に文官たちも気付いたのだろう。
一斉に、その視線が栞へと向けられている。
奇妙な緊張感が室内に漂ったのが分かった。
たかがお茶を淹れるだけの行為。
だが、この世界ではそれすらも難しい。
それが分かっているから、周囲の視線が集中している。
事務仕事はそれなりにできても、それ以外の雑務の方はどうなのかと。
栞は、こんな場所でも試されることになるのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




