準備
「ふっふっふっ」
思わず奇妙な笑みが零れる。
このセントポーリア城下に来たのは、九十九にとってやりたいことがあるためだったはずだ。
それなのに、今、わたしのやりたいことをやってくれるという心が本当に嬉しくて、変な笑いが出て止まらない。
「よっぽど、嬉しいんだな」
「今だけ、ズボンが穿けるのも嬉しい」
しかも動きやすいジャージ風なスポーツウェアっぽい服ですよ。
その気遣いが嬉しいよね?
「スカートでボールを追いかけるわけにはいかんだろ?」
「わたしは気にしないけど」
スカートでキャッチボールは母もしているし。
「気にしてくれ!!」
流石に怒られた。
「九十九はキャッチボール経験、どれぐらい?」
「兄貴に何度も付き合わされた程度だ」
なるほど。
あの雄也さんに。
「じゃあ、結構、やれるね」
わたしはグッと拳を握りしめる。
「ちょっと待て? その結論はおかしい」
「え? 野球経験者が何度も付き合ってって頼むんだよ? できるからだと思うけど」
ましてや、それがあの雄也さんだ。
全くできそうにない人を何度もご指名するとも思えないし、九十九ができないなら、できるようになるまで根気よく付き合う気がする。
基本的に九十九を育てることに手を抜かない人だから。
「あらぬ方向にボールがいっても笑うなよ」
九十九がどこからか茶色と黒のグラブを取り出した。
それぞれに小さな白球が入っていて、ワクワク感が増す。
「九十九は雄也さんの背中を見た人?」
「あ? なんで、キャッチボールで相手の背中を見るんだよ?」
その発言で、九十九はノーコンでもないことが証明される。
どんなに捕球が上手い人でも、自分の手が届かない球までは取れない。
手が届かないほどの大暴投をしてしまうと、相手が背を向けて取りに行く姿を見なければならないのだ。
それを知らない時点で、少なくとも、雄也さんの手が届く範囲には投げることができているのだと思う。
雄也さんの捕球率が異様に高い可能性もあるけど。
捕手もやっていたらしいからね。
「お前は? 経験者だから、オレよりは良いよな?」
「どうだろう? 魔力の封印を解放してからボールを投げたことはないから分からない」
自分の体力、筋力が上がっているのは分かる。
歩く時が大分楽になっているから。
走る時も、前よりは速くなったと思っている。
だけど、それがどれほどの上昇率かが分からない。
「魔力の封印を解放してから投げたものと言えば、枕ぐらい?」
「ああ、オレにぶつけたやつか」
ストレリチア城でお世話になっていた時、九十九がとんでもないことを口にしたから、思わず投げつけたことがあった。
そして、それをすぐに思い出せる辺り、実は、九十九はあのことを根に持っているのではないだろうか?
でも、わたしが悪いとはいえ、いきなり異性から「白い肩紐が見えた」なんて言われたら、パニクるよね?
特にあの頃は、今よりも、もっとわたしは幼かったのだ。
いや、今もそんなことを九十九から言われたら、同じようなことをしてしまう自信はあるけど。
「人間界にいた時は、肩が弱かったよ」
その流れでそれを思い出すのもどうかとは思うが、仕方ない。
肩が弱かったために、一塁から三塁までの送球は割とギリギリ届くかどうかだったから、ワンバウンドでの送球するのが基本だった。
何度も練習したためにソフトボールの一三塁間や二本塁間のワンバウンド送球には割と自信がある。
野球のピッチャーサークルが邪魔するようなグラウンドでもバッチリだ。
だから、一塁までの距離が短い二塁手ぐらいしかできなかった。
本当は、外野もやってみたかったけれど、自分の肩が弱いと分かった時点で、外野は諦めたのだ。
守備範囲の広い中堅手とか、憧れるよね?
「そうか? 魔力の封印を解放する前からも結構、普通の女にしては肩があったと思うが」
「そう?」
人間界でも九十九に向かって枕を投げた覚えがある。
それと通信珠も。
そのことを言っているのかな?
ああ、通信珠なら結構、最近も投げた気がする。
でも、そっちの方は、九十九も見てなかったはずだけど。
あれ?
あの時も結構、凄い勢いだったような?
「どうした?」
動きの止まったわたしに九十九が声を掛ける。
「いや、上手く投げられなかったらどうしよう?」
「別に今から試合するわけじゃねえから、問題なくないか?」
「それもそうだね」
そうだ。
別に九十九と試合をするわけではなく、これは気晴らしだ。
だから、悪送球を投げようが、捕球失敗しようが、何も問題はない。
「グローブはどっちが良い?」
「選んで良いの?」
「オレに拘りはない」
差し出された茶色と黒のグラブ。
「嵌めてみても良い?」
「おお」
言われるがまま、嵌める。
そして、何度も手を動かしてみた。
重さは茶色の方が好み。
開きは黒色だ。
ボールをグラブに向かって手首だけで叩きつけるように放ると、パアンっと小気味いい音を立ててグラブに吸い込まれる。
「こっち」
「……プロっぽい」
「何のプロ?」
九十九が言った言葉に苦笑する。
プロならもっと確認するだろうし、何より自分の道具を育てると聞く。
自分の道具を手放してしまった時点で、わたしはプロではない。
でも、まさか、別世界でもキャッチボールする機会があるなんて考えなかったし、そんな余裕すらなかった。
わたしの人間界の私物はほとんど置いてきた。
強いて言えば、雄也さんが持ってきてくれたアルバムぐらいしかない。
尤も、母が雄也さんに頼んで持ち込んだものはまだあるかもしれないけどね。
****
「ふっふっふっ」
先ほどから、栞がずっと笑っている。
しかも珍しい含み笑いだ。
「よっぽど、嬉しいんだな」
そこまで喜ばれるなら、もっと早く提案すべきだったか。
だが、余裕がずっとなかったからな。
ストレリチア城で世話になっている時に気づいていれば、もっと違ったかもしれないが、栞がここまでソフトボールが好きだったと知ったのは最近だ。
だから、仕方ない。
「今だけ、ズボンが穿けるのも嬉しい」
この国の女は基本的にスカート着用だからな。
パンツルックが多い栞はいろいろと勝手が悪いのだろう。
いや、そこじゃなくて……。
「スカートでボールを追いかけるわけにはいかんだろ?」
「わたしは気にしないけど」
「気にしてくれ!!」
栞が気にしなくても、オレが気にする。
足にしか目がいかなくなったら、どうしてくれる!?
え?
スカートでキャッチボールってありなのか?
いやいやいや、この女の常識はたまに非常識だ。
だから、鵜呑みにしてはいけない。
「九十九はキャッチボール経験、どれぐらい?」
「兄貴に何度も付き合わされた程度だ」
変な方向に投げたら、顔面を狙ってきやがる。
おかげで、少しはマシにはなったと思うが、経験者からすれば、まだまだらしい。
「じゃあ、結構、やれるね」
栞はグッと拳を握りしめる。
「ちょっと待て? その結論はおかしい」
「え? 野球経験者が何度も付き合ってって頼むんだよ? できるからだと思うけど」
きょとんとした顔をオレに向けた。
オレができると信じて疑わない目だ。
「あらぬ方向にボールがいっても笑うなよ」
そう言いながら、茶色と黒のグローブを準備する。
久しぶりに握るグローブは記憶にあるよりも小さく感じた。
一応、成人用のはずだがな。
「九十九は雄也さんの背中を見た人?」
栞がそんな不思議なことを確認する。
「あ? なんで、キャッチボールで相手の背中を見るんだよ?」
キャッチボールは相手の胸元に向かって投げるものだ。
だから、背中を見ることなんて普通はありえないだろう。
どんな変化球だ?
「お前は? 経験者だから、オレよりは良いよな?」
少なくとも、キャッチボールをやりたがるのだから、オレよりも上手いだろう。
「どうだろう? 魔力の封印を解放してからボールを投げたことはないから分からない」
だが、栞は意外にもそんなことを言った。
オレには分からないが、身体能力がかなり変化しているそうだ。
確かに、この城下から出た時よりも、栞はずっと疲れにくくなったし、足も速くなった。
もともとの筋力が増強されている感はある。
「魔力の封印を解放してから投げたものと言えば、枕ぐらい?」
「ああ、オレにぶつけたやつか」
あれは失言だった。
だが、言い訳させてもらうなら、栞が、暑苦しかったとはいえ、オレの目の前で上着の襟ぐりを掴んで仰いだことが悪いのだ。
おかげで、今なら良い物が見ることができたとはっきり言える。
同時に、もっとしっかり見ておくべきだったとも思う。
あれ以来、どんなに暑くても、栞は同じことをしなくなったから。
いや、既に肩紐以上に良い物を間近で拝んだどころか掴んだし、それ以上のこともしているのだから、今更ではあるのだが、アレはアレで、ソレはソレなのだ。
何も知らなかった童貞男には、アレはかなりのご褒美だったと今でも思う。
「人間界にいた時は、肩が弱かったよ」
そんなオレの健康的な思考を遮るかのように栞はそう言った。
「そうか? 魔力の封印を解放する前からも結構、普通の女にしては肩があったと思うが」
「そう?」
思い出されるのは、ジギタリス。
あの国の占術師が死んだ後、栞は崖の向こうに一度、「御守り」をぶん投げたことがあった。
あれはかなり飛んだよな。
そして、何故か、その「御守り」は栞の左手首に戻っている。
形を変えて、より強化されて。
だが、それ以上に思い出されるのは、あの時の栞の顔だ。
あれはオレが悪い。
どう考えてもオレが悪い。
心の準備がなかったとはいえ、わざわざ栞を傷つけるような言葉を選ぶ必要はなかったのに。
だが、同時に、あれで良かったと思う。
それだけ、オレたちは幼かった。
結果として、オレたちに間に明確な線はできたのだから。
ふと見ると、栞が迷いのある顔をしていた。
あの時のことを思い出したのだろうか?
「どうした?」
「いや、上手く投げられなかったらどうしよう?」
全然、違った。
思った以上に平和的な悩みだったようだ。
「別に今から試合するわけじゃねえから、問題なくないか?」
「それもそうだね」
そんなに本格的なものを期待されても困る。
オレはド素人なのだからな。
「グローブはどっちが良い?」
「選んで良いの?」
「オレに拘りはない」
そう言いながら黒と茶色のグローブを差し出す。
どちらも使っている。
その差は分からない。
グローブの親指と人差し指に当たる部分が、きっちり隙間なく編み込まれているか、穴開きかの違いぐらいだろうか?
「嵌めてみても良い?」
「おお」
栞は一つずつ手に取って、嵌め、何度も開いたり閉じたり、手首を振ったりしている。
その顔は真剣そのもので、絵を描く時や本を読む時とはまた違った表情だ。
さらに、兄貴がよくしていたように、グローブに入っていたボールをグラブに向かって手首だけで投げ入れ、掴むという行為を何度も繰り返す。
ちょっと待て?
結構な速度で投げ入れているのにあっさりと掴んでいるぞ?
手首だけでここまでなら、腕や全身を使って投げたらどれだけなんだ?
「こっち」
そう言って、茶色のグローブを選んだ。
「プロっぽい」
思わず、そんな感想が零れ落ちる。
「何のプロ?」
栞が困ったように眉を下げて笑った。
思ったより、本格的な投げ合いになりそうな予感がしたのだった。
主人公は「グラブ」、護衛弟は「グローブ」と呼びますが、どちらも同じものです。
ソフトボールと野球で呼び名が違うわけでもありません。
捕手と一塁手が使うものだけが、「ミット」と別の形になります。
こんなところまでお読みいただき、ありがとうございました




