嗜好
栞が目覚めた気配がした。
それならば、すぐにこちらに来るだろう。
時間的には昼を過ぎ、午後のお茶でもおかしくない。
腹も減っていることだろう。
そう思ったが、なかなか部屋から出てくる様子がない。
寝起きが悪いから、寝ぼけているのか?
そう思って、部屋に向かうと、少しだけ扉が開いていた。
そして、部屋から出ようとしたので……。
「ああ、起きたか」
そのまま、声をかけると、ビクリと身体を揺らされた。
驚かせたらしい。
「ん? どうした?」
だけど、オレと顔を合わせようとしない。
「ちょっと顔洗ってくる」
珍しく、寝起きの顔を見せたくなかったらしい。
いつもはオレを寝具にするくせに。
何より、別にどんな顔であっても、栞であることは変わりないのに。
「ああ、分かった。昼飯は準備できてるぞ」
そう声をかければ、厨房の方に顔を出すだろう。
「ありがとう」
そう言って、栞はそのまま、浴室……、洗面台のあるところへ向かった。
今日は化粧をしていなかったから、そのまま、洗顔しても大丈夫だろう。
化粧をしていたら、落とす必要がある。
あの女は、クレンジングの存在を知らなかったような女だ。
ストレリチア城で、「聖女の卵」として、薄っすらと化粧をするようになって、初めてその意味を知ったらしい。
初めて、化粧したのは兄貴だったらしいが、その時は、厚化粧だったから必要だったのかと思っていたそうだ。
まあ、人間界にいた時は中学生だったから、化粧の知識がなくてもおかしくはないだろうが、それだけ洒落っ気もなかったということの証明でもある。
ソフトボールやっていたのなら、日焼け止めクリームぐらいは使っていただろうに。
使ってなかったのかもしれない。
あの白い肌で日焼けするのは、かなり悲劇だっただろう。
顔を洗うだけにしてはいつまでもこちらに来る様子がない。
仕方がないから、迎えに行く。
女の洗顔が長いのはおかしくないが、栞の洗顔が長いのは異常だ。
そして、あまり見るものでもないと理解しているが、栞はその辺り、気にしないだろう。
「どうした?」
オレが覗くと、栞が姿見とにらみ合っていた。
やはり洗顔は終わっていたらしい。
前髪が少し濡れているのが気になる。
「この髪と瞳の色が見慣れなくて……」
そう言いながら、自分の両頬をマッサージするかのように揉んでいる。
栞の気持ちは分からなくもない。
オレも今は髪も瞳の色も変えているから。
栞は慣れている色合いではあるが、姿見で改めて見ると、やはり気になったのだろう。
しかも「聖女の卵」の髪と瞳の色だが、その顔は化粧で変えていない。
当人にとっては、自分の顔なのに……、と気になるのは当然の話だ。
「あ~、オレも慣れねえ」
そう言いながら、自分の前髪を掴む。
いつもより少しだけ長いせいか、たまにこの銀色の髪が視界を遮るのだ。
このコンテナハウスにいる時だけ、色を戻しても良いが、咄嗟の時に困る。
仕方がないから、今だけは互いに我慢するしかない。
願いには代償が必要なのだ。
「とりあえず、昼飯にするぞ」
「うん」
オレが声を掛けると、栞が嬉しそうに笑った。
いつもと違う色でも、この顔はやっぱり変わらない。
だけど、厨房に行く前に前髪だけは乾かした。
いつものように互いに合掌をして、食事を開始する。
そのまま、栞に、セントポーリア城でのことを話すことにした。
「やっぱり、書類仕事に巻き込まれたのか」
パンをちぎりながら、栞はそう言った。
その口調から予想はしていたらしい。
「やっぱりって……、お前はそれを予想していたのか?」
「九十九が『仕事を押し付けられなければ』と言っていた時点でなんとなく?」
あの時点でか?
だから、通信珠で連絡をとった時も驚くことなく、普通の返答だったのか。
「以前も、わたしの手も借りたいような状況だったからね」
さらにその根拠を口にする。
栞は十カ月ほど前に、セントポーリア城に少しの期間滞在していた。
理由としては、オレの「発情期」から逃がすためであった。
あれが、かなり遠い昔のことのような気がするのは何故だろう?
「国政とかさっぱりだけど、書いている内容の分類ぐらいは流石に分かるからね」
栞はサラダを口にする。
その顔が綻んだのが分かった。
お気に召したようで何よりだ。
栞が寝ていたために、準備の時間があったから、拘った甲斐があったな。
「書いている内容が分かるだけマシだ。予算申請に主観や客観が入り乱れて、下手くそな感想文を読まされている気分だった書類とかもあったぞ」
あれを整理するのも大変だろう。
分類できるほどの知識があるだけ、本当に栞の方がマシなのだ。
「九十九が文官したら?」
主人があっさりとクビ宣告をする。
いや、深い意味はないことは分かっている。
栞は、オレがその仕事をできるからそう口にしただけだ。
「馬鹿言え」
だけど、不満はちゃんと口にさせていただく。
「オレはお前の護衛で満足しているんだよ。だから、他の仕事を進めんな」
寧ろ、それ以外の仕事なんか望んでいない。
だから、その手を離さないでくれ。
「まあ、確かに九十九がいなくなると、わたしが困るな」
「そうだろ?」
栞がそう認めてくれたから、素直に喜んだ。
尤も、栞の言葉にそこまで深い意味はないだろう。
どうせ、扱いとしては、オレは専属料理人だということも分かっている。
それなら、胃袋を掴ませていただくだけだ。
少しでも、離れがたいと思わせるだけで良い。
「オレほどお前の好みを熟知している人間もそういないだろうからな」
「ほへ?」
栞が奇妙な顔をした。
「今、食べているのも結構、好きな味だろ?」
「ほげ?」
さらに変な顔をした。
オレはなんか、変なことを言ったか?
「ん? お前、意外と、刺激のある辛い物好きだよな? だから、サラダに少し、香辛料を入れたんだが……」
栞は菓子なら甘い物を好むが、料理は辛い方が好きだ。
オレの手料理で一番好きなのはカレーと言うだけある。
人間界の香辛料として近い種類なら、唐辛子、マスタード、豆板醤、チリソース、黒胡椒など、少し刺激のある味を好んでいることは知っている。
「あ? ああ!!」
まだ眠っていたのか、ハッとした顔をして……。
「うん。好き、大好き!!」
そんなことを言ってくれた。
料理のことだ。
それ以上の意味はない。
だが、自分に向けて放たれた言葉の破壊力がちょっとばかり強すぎる。
すっげえ、嬉しい。
料理のことだと分かっていても、そう思った。
いや、惚れた女が、満面の笑みで「大好き」だぞ?
オレはこのまま、死んでも良いかもしれんと、一瞬、思ったが、黒髪、黒い瞳のオレを産んだ母親が、冷たく白い目でオレを見下ろす図が思い浮かんで踏みとどまった。
テーブルに顔を伏せてやり過ごす。
耳の赤みだけは気づかれないようにと願いながら。
「どうしたの?」
「ダイジョウブダ。モンダイハナイ」
問題しかない。
「いや、その片言具合が気になるんだけど」
分かっている。
顔を上げるほどに回復したが、栞と顔が合わせられない。
今、顔を合わせると、何をぶちまけるか、自分でも分からん!!
「いや、大丈夫だ」
改めてそう言いながら……。
「御馳走様」
あらゆるものに手を合わせて感謝する。
「あれ? 九十九が残すの、珍しいね」
確かにやや足りない感じはするが、問題ない。
「もう腹いっぱいなんだよ」
いっぱいなのは腹ではないが、そう答える。
「疲れた? 休む?」
そう言いながら、オレに手を伸ばそうとする無防備な主人。
「いやいやいやいや、大丈夫だ」
頭を振って、触れられないようにする。
今、額に手とか置かれても困るのだ。
「それよりも、少し休んだら、キャッチボールするぞ」
気を紛らわせようと言った言葉だった。
だが……。
「ホント!?」
オレに向かって「大好き」と言ってくれた以上に、良い顔をしてくれやがった。
頬は紅潮し、その瞳はキラキラと輝いている。
どれだけ、やりたいんだ?
それだけだな。
そう言えば、一度もやったことがなかった。
兄貴も、多分、やってないはずだ。
唯一、ソフトボールらしいことと言ったら、あの島での兄貴との勝負ぐらいか。
中学校生活の全てと言い切ってしまうほど生活の一部だったものがなくなったのだから、ストレスも溜まっているかもしれない。
そう言えば、人間界で友人たちとの別れよりも、校庭に行くことを選んだ女だったな。
あの時は夜だったけれど、もし、校庭でキャッチボールをしていれば、今のように喜んでくれたのだろうか?
オレはそんな今更なことを思ったのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました




